紙の本
中国明代の儒学者で陽明学を創設した王陽明の教えを説いた書です!
2020/07/13 10:31
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、15世紀から16世紀の中国明代の儒学者であり、思想家であり、高級官僚、武将でもあった王陽明の書です。同氏は、思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした人物として知られています。同書は陽明学の入門書という位置付けであり、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた全3巻で構成される書物です。この原本に陸澄と薛侃の筆録を加えて、明の正徳13年(1518)陽明47歳の時刊行したものが上巻で、中巻は、嘉靖3年(1524)陽明53歳の時、南元善が伝習録下巻として前書に合わせて刊行したものであり、下巻は、陽明の没後28年を経た嘉靖35年(1556)に銭徳洪が、前2書に洩れた語録の集に手を入れて刊行したものです。同書の内容構成は、「伝習録 序」、「伝習録 上巻」、「伝習録 中巻」(顧東橋に答えるの書、周道通に啓問するの書、陸原静に答えるの書、陸原静に答えるの書、欧陽崇一に答えるの書、羅整庵小宰に答えるの書、聶文蔚に答える、訓蒙の大意を教読の劉伯頌らに示す、教約)、「伝習録 下巻」となっています。
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[ 内容 ]
エリートの道徳完成の学である朱子学的儒教を、庶民の道徳的実践の教えへと展開していった陽明学の精髄。
[ 目次 ]
伝習録 序
伝習録 上巻
伝習録 中巻(顧東橋に答えるの書;周道通に啓問するの書;陸原静に答えるの書;又(陸原静に答えるの書)
欧陽崇一に答えるの書
羅整庵小宰に答えるの書
聶文蔚に答える
訓蒙の大意を教読の劉伯頌らに示す
教約)
伝習録 下巻
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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論語、孟子、言志四録等を読んだ後に、この本を読んでも得る所は少ない様に感じた。
伝習録はかなり斜め読みしたので、じっくり読めば、印象は変わるかもしれないが。。。
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王陽明と弟子、知人のやり取りをまとめた本。
久しぶりに読み応えのある本。生涯をかけて何度も読み返したい。おそらく5%程度しか読めていないが、それは本書でいう工夫が足りないから。これから実践を積みつつ、知行合一に務めたい。
以下、個人的なメモ。
・日本が列強の仲間入りをしたのは、知行合一による。
・知っていれば行う、行えないのは知らないから。
・精米の工夫
・私欲が出たら、良知の学ではない。
・至善と純金の例
・動きながら、格物を通し、理を悟る。
・学は自省から始まる。他は下心。
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陽明学には、大別して右派(朱子学寄り)と左派(三教一致、禅学寄り)がある。
本書は、世界的な陽明学左派の研究家の九大名誉教授・荒木見悟氏の監修下で、当時若き溝口雄三氏が現代語訳されたものである。
左派の視点から現代語訳されたものは、本書以外には存在しない。そういう意味でも、本書は、正真正銘、私の愛読書である。
なお、日本陽明学の祖・中江藤樹とその一派は、王陽明の高弟・王龍溪(陽明学左派)の決定的影響を受けており・・・、ということからも江戸期の日本陽明学の主流は、左派だったことが了解される。
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”上巻のなかで引っかかったのが「鏡の透明度」と「金の純度と重量」の話。
このあたりに個人的な課題があるような気がする。
あと、「自分ひとりにしか識知されない地所」。
この部分への功夫の足りなさは、今の自分の状況を言い当てている。
<読書メモ>
・いま、某々が孝を知り、某々が悌を知っていると称する以上は、必ずその人がとうからそれを実行しているのでなければ、孝なり悌なりを知っているとはいえない。(p.18)
#知行合一
・知は行の始(もと)、行は知の成(じつげん)である。(p.57)
・父を見ればおのずと孝を知り、兄を見ればおのずと悌を知り、子供が井戸に落ちるのを見ればおのずと惻隠を知る。このおのずからなる知こそが良知で、外に求める要のないものだ(p.28)
#陽明学のキーワードの1つ『致良知』。その良知について書かれた部分。おぼろげながら、意図することは分かる気がする。
・(陽明)先生の格物は、いわば、鏡を磨いて透明にするというわけで、磨くということに功夫を集中するのだから、透明になった後は、あらゆるものをいつでも映しだすことができる。(p.82)
★人に万鎰(まんひつ)の純金があるのを見た時、自分の金の純度を高めて相手のそれに愧(は)じないようにしようとつとめるのでなく、かえって重量に気をとられ、相手と同じく万鎰にしようとはげみ、錫(すず)や鉛や銅や鉄などを雑然と投入し、結局重量が増すごとに純度が低下し、挙句にはもとの金どころではなくなってしまうのにひとしい(p.107)
・樹を植える人は必ずその根を培い、徳を植える人は必ずその心を養う。(p.123)
★人がもし、この自分ひとりにしか識知されない、その地所に向けて意を注がないで、ただ、皆に共通に識知されているところにのみ功夫を注ぐとしたら、それは作為的になされたという点で偽りである。つまりそれが『(小人は)君子を見ると厭然と(恥じ、自己の不全をかくしだて)』するというものだ。(p.131)
#スゴイ人に対する漠然とした劣等感は、そういうことなのか…。
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・善を為し悪を去るなどは、意を誠にすること以外のなにものでもない。新本のように、まず事物の理を窮め、それに格ることを第一にしてしまうと、まったく茫茫漠漠としてしまって結着するところがない。(p.145)
#なるほど!
・思うに、学ぶとすれば疑問がないわけにいかず、そこで問いが生ずる。この問うことがそのまま学ぶこと、そして行うことでもあるのです。また、その疑問があることから、思いが生ずるのですが、この思うこともまたそのまま学ぶこと、そして行うことである。(p.163)
★およそわれわれが学をこととするにあたって、最も肝要な急所といえば、志を立てるというこのこと以外にありません。貴君のいわれる、意欲がくじけたりなおざりにしたりする病弊も、要するに志に切実さが欠けているということを示すに他なりません。(p.199)
#どきっ!
・(良)知を発揮するとは、実事についてそれを格すことでなくてはならない。たとえ���、意が善を為そうとする上にはたらけば、すぐさまその事柄についてそれを実行し、意が悪を去ろうとする力にはたらけば、すぐさまその事柄についてそれを実行するのでなければならない。(p.418)
<きっかけ>
人間塾 第21回 課題図書。”
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人間の本性は天から与えられた事物に内在する原理が備わっている(性即理)。人間の本性は完全な善だ。本性は善だが、心は善意も持つし悪意も持つ。この心の動きは事物の素材となるエネルギー(気)が澄んでいるか、濁っているかによる。知識をたくさん得て、事物に内在する原理(事物の本来のあり方)を学ぶことで、善意をもつ人間になれる。朱熹。朱子学。
善をしようとする心の動きの中に真理がある(心即理)。人間は生まれながらに正しい心の働きを備えている。経験に即してその都度、正しい心の働きで、善悪を判断し、真理を明らかにする。経験や行動と、真理を知ることは同じことだ(知行合一)。朱子学を批判。王守仁。陽明学。
※朱子学では、外の世界にある事物に内在する原理を客観視する。陽明学は真理は外にあるのではなく、心の働きに即して明らかになる。
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守屋淳さんの本を読んだのだが見つけられなかったので。この本に星印。
10年ほど前に200冊ほど本を読み、大分世間の事を知ったかな。と得意になっていた自分が新しく出来たTUTAYAで何万冊もの本を見て絶望し、本を読むのをやめた時の事を思い出した。今の情報過多の時代に必要な本じゃないだろうか。
本を何冊読んだとか、どんな資格をとったとか、どんな実績をあげたとか、どんな知識を持っているとか、そんな事は今のあなたには関係ない。今、ここに、あなたはどんな気持ちでいるのですか?という根本的な問いを投げかけてくる。アドラー心理学やモンテッソーリ教育はもてはやされているのに、明治維新から太平洋戦争につながったというだけで、危険思想とされてしまうのはどうかな?と思った。ここの部分がぽっかり抜けているから日本の教育には満足感が得られないのではないか?キリスト教が根底に流れてない分、日本人にはとっつきやすい思想なのではないかと感じた。
一言一言が、自分の思考の穴を埋めてくれるようで、今まで学歴社会の中で育ち、社会に出てそうじゃないよなと思って生きてきた自分の、ずっと不可解だったパズルのピースが埋まっていく感じで、とても心地良かった。