紙の本
パリ発マドリード着でバスクを経由する名所巡り
2023/04/08 19:07
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
概括すれば、お題に示したような内容の作品です。
この経路をなぞったような日本からの団体旅行も
よく企画されているのでヮないでしょうか。
ただ、バスクの歴史と文化において
象徴的な意味合いを持っている、
ゲルニカにヮ行かなかったのですね。
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日本とのつながりは意外と深いスペイン、ポルトガル。司馬さんの随筆は小説と同じようにふわふわと寄り道をしながら進んでいく。司馬さんと一緒に南蛮の道を旅しているように感じる一冊
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日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルの足跡をたどりながら、日本と南蛮との関わりに触れる南蛮のみち。最初はザビエルが哲学、神学を学んだパリの大学地区カルチェ・ラタンからこの旅は始まっている。キリスト教を初めて日本にもたらしたとして歴史の教科書で習った人物だが、恥ずかしながらその生涯についてはまるで無知で、ザビエルやイエズス会の創始者ロヨラがバスク人であった事もこの本で初めて知った。司馬氏はバスクというヨーロッパでも特異な文化を持つ民族についてその歴史や風土、言語や民族性などこの本で実に様々に語っている。ピレネー山脈を挟んでフランス側バスク、スペイン側バスクと国境をまたいで広がるバスク民族の土地を訪ね見聞を私たちに伝えてくれる、いつもながら素晴らしく、興味深い文章だった。以前何も知らずにサン・セバスチャンを訪ねた事があるが、その前にこの本を読んでいたら…と悔やまれる。
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2巻続きのスペイン・ポルトガルの旅。1巻目はピレネー山麓のバスク地方を巡る。バスク人は民族学的発祥に謎が多く、バスク語も言語学的に系統不明。語順は日本語と似ているらしい。学校でスペイン人と教えられるフランシスコ・ザビエルも本当はバスク人。
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イベリア半島への旅は、日本の歴史を大きく変えることになった「南蛮」とは何かを感じること。前半パリからバスク地方へと渡り、この地方出身で日本に多大な影響を残したフランシスコ・ザヴィエルの生い立ちを探りつつ、広域国家の中の少数派としてのバスク人について考えている。
「今後の世界というのは、各国家における多様な少数者たちの不満が活性する時代になるのではないか。」と著者は予言するが、現状をみるとおそろしく当たっている。
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種子島、鉄砲伝来で有名なフランシスコ・デ・ザビエルと近現代に日本に在住したカトリック神父の中では、一般の日本人にもっともよく知られた存在だったカンドウ神父はともにバスク人だった。いつものように、司馬遼太郎ご一行様がバスク地方で思案に耽る。
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スペイン・ポルトガルということで観光的興味を持って読み始めましたが、やはり司馬遼というか文字通り南蛮でした。
バスクでこれほどまで語るとは想像もせず、でも読み終わればそうだよなぁと。まぁ小者の発想が如何に陳腐か思い知らされました、改めて。
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つい最近いただきものではじめて、京都の笹屋伊織の栗蒸し羊羹というのを食べたんですが、甘すぎくなく深い美味しさで、大好きでした。で、そんなような、大人な味わいの一冊。
毎度そうなのですが、「街道をゆく」の海外版、個人的にははずれがありません。今回は「南蛮のみち」。
「街道をゆく」の海外旅行編が面白いのは、司馬さんによる「世界史講義」が聴ける、という1点に実は尽きます。
個人的に世界史の全貌を把握しないまま大人になってしまった、という気がかり?があり、ただそれは「大人になってからじわじわと世界史を学ぶ愉しみがある」という快楽に変わってきています。
歴史に限らずなんでも(学校で教えているようなものは)そうなんですが、
こちらの興味の持ち具合と、あちらの語り口との出会い方によっては、殺意を覚えるくらい無味乾燥で索漠たるものになりますが、逆もあります。
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今回、司馬さんが目指すのは、スペインのバスク地方です。スペインとフランスの国境沿いのピレネー山脈に抱かれた地域。
「バスク地方」と「カタルーニャ地方」というのは、敢えて例えれば日本における「アイヌ」「琉球」みたいなもので、
つまりは独自のそして古い文化や言語を持っている地域。
スペインは、1930年代から1970年代まで、戦後の日本の常識では信じられないファシズムな独裁政権が続きました。
それ以前は、バスクもカタルーニャも、いろいろあっても「近代国家」というシステムとは程よい距離で過ごしていたのですが、独裁政権の時代にどちらも「自分たちの言語」を権力と法律で圧殺されました。当然反発が起こり、どちらの地域もその後、テロ事件が時折起こります。
(独裁政権終焉後は、それなりに自治が認められていますが、未だに「完全に独立したい」という地熱がなくなってはいません)
と、まあこのくらいのことは、実は僕は海外サッカーが好きなので、そこから知っていました。
(カタルーニャを代表するサッカークラブがバルセロナ。独裁圧政の頃は、政権を代表したのがレアル・マドリードというクラブ。
なので、バルセロナvs.レアル・マドリーというのは、日本の感覚で言うと、東京vs関西というベタな対立に止まらず、
もっと深刻で血の匂いのする「中央政権迫害者」vs.「地方の被害者」みたいな殺気を(一部の人にとっては)帯びる訳です。
一方、バスク地方のサッカークラブと言えばアスレチック・ビルバオというクラブがあります。詳しくは無いのですが、なんとこのクラブは延々と、「バスク地方の出身者・血縁者」しかクラブに入れないのです。そんなアナログなアイデンティティを維持しながら、バルセロナやレアル・マドリーに伍して、スペイン1部リーグに位置し続けています。現代サッカー界の七不思議と言っても過言ではないのでは。Jリーグで「東北地方出身の選手しか在籍しない」というクラブが、J1を毎年戦えるだろうか?…)
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で、このバスク地方というのが、つまり国で言うと、スペインなんです(一部はフランス)。
そして実は日本にカトリックを伝えたフランシスコ・ザビエルさんというのが、ポルトガル人のように見えて実はスペイン人で、更に言うと実はバスク人だったんですね。
つまり日本に初めて伝わった西洋、「南蛮」という手触りは、多分に「バスク地方」だった。
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まずはこの巻は、「ザビエルの生地までの道のり」です。
司馬さん一行は、とりあえずパリに上陸。
かつて名作「アイルランド紀行」が、実は半分くらいイギリス・ロンドンの話だったのと同じで、まずはパリです。
どうしてかというと、16世紀の人・ザビエルさんは、パリで神学を学んでいたんですね。
ザビエルがいたパリのかつての街並みを、想像しながら巡る。
そして時折、不意に温泉が湧き出すように、フランスについて、ローマ帝国について、キリスト教について、ヨーロッパ史について、
司馬さんが鋭い考察を呟く訳です。油断なりません。
ザビエルが属した熱狂的な純粋カトリック集団、「イエズス会」。その頭目?のロヨラさんも実はバスク人。
そんな随想を挟みながら一行はようやくピレネー山脈へ。そして「バスクのフランス側」を経て、とうとうようやく、「バスクのスペイン側」。
そして、ロヨラやザビエルの生地へと辿りつきます。
司馬さんの、特段の意味の無い(意味のなさそうな)細部の観察に満ちた海外旅行記に付き合っているうちに、徐々にヨーロッパの歴史が、スペインの歩みが、バスクの悲劇が、カラダに沁みてくる。
この感触がたまりません。
そして司馬さんの言葉を聞いているうちに、1980年代のバスクの風景から、恐ろしい速度で意識がワープして、16世紀に日本が南蛮と出会うという事件、それが「いったいどういう意味を持っていたのか?」という重さの解釈も含めて、日本とヨーロッパが邂逅する、ドラマチックな瞬間をBGM付きで目撃している気分にさせられます。
このエンターテイメント感っていうのは、実に奥深い。笹屋伊織の栗蒸し羊羹。
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すごいなあ、と思ったのは、1980年代にして司馬さんは、
「やがて、少数民族がより独立を求めてテロルに走る、混乱の時代が来る」
と預言しています。
これぁ、すごい。
その通り、90年前後のソ連圏崩壊から始まって、言語・民族による「少数派の主張」が近代国家という秩序感を破壊するような時代がやってきて、その解決の方向は今も、見いだせないままです。
慧眼。すごすぎる。
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旅は、どうやらポルトガルまでいたるようです。
そのⅡを読むのを楽しみに。
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司馬遼太郎
街道をゆく 22 南蛮のみち1
バスク紀行文。日本に縁のあるバスク人〜種子島へ漂着した宣教師フランシスコザビエル〜を巡る旅。
著者の海外紀行は 観光的な歴史紀行ではなく、異国から日本を見たり、世界の中の普遍性を見たりする論調。
バスク紀行を通して、大国フランスとスペインに挟まれた小さな社会の民族的な自尊心や独立心を見出している。少数社会のバスクに 日本におけるアイヌを想定しているように読める。
著者のメッセージ「少数的な価値意識こそ人間にとって普遍的である。大きいばかりが社会ではない。われわれには、われわれのアイデンティティがあり、そこに真の幸福がある」
ザビエルの生き方〜国家を失ったが、カトリックという普遍性のなかに 不滅の生き甲斐を見出し、異郷の地に神の国の民をつくろうとした
ザビエルの日本人観
*日本人は貧乏である〜貧乏を恥辱と思っていない
*キリスト教国民の持ってない特質は〜貧乏な武士が、富裕な平民から尊敬されている
キリスト教と仏教の違い
*仏教の追善供養〜今からでも地獄にいる彼らを救い出せる。キリスト教にはない
*親鸞は 自力で解脱できない悪人であるため地獄必定
*親鸞における阿弥陀は 不信の徒であればこそ救う点がザビエルの神と異なる
日本ではアイヌが少数者〜アイヌ人は日本人の本家の一つ〜バスク人こそ〜多種類の混血から成るスペイン人の原型