紙の本
『論考』を読むための本
2015/01/29 01:43
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:荻村道男 - この投稿者のレビュー一覧を見る
書名の通り『論理哲学論考』を読むための本。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は非常に難解な本なので、入門書や解説書の力を借りたいところです。本書は、単に『論考』の内容を説明するだけでなく、筆者自身の解釈も加えられています。理解できなかった部分もありましたが、全体的に『論考』をかなりかみ砕いて説明してくれています。また、巻末の『哲学探究』から見た『論理哲学論考』がおもしろい。ウィトゲンシュタインの前期と後期の関係がよくわかる内容になっていると感じました。ウィトゲンシュタインの入門書としてもよくできていると思います。
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論考を読むときに重宝する
2015/09/12 15:20
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けy - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の野矢は岩波文庫から出てる論考の訳者。そのため全く違和感無しに読める。論考を読む際の助けになるだけでなく、野矢のウィトゲンシュタイン研究がふんだんに用いられていて、より深く論考を読むのにも役立つ。
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論理哲学論考を読む
2016/02/13 14:59
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:(ry - この投稿者のレビュー一覧を見る
論考の具体的な内容や問題点が順序だてて説明されていて、とてもわかりやすくまとめられている。ただ、そもそもが難しいので私は7割ぐらいしかわかりませんでしたw でも、この本自体は理路整然と論考について語られているので頭のいい方なら論考についてよく整理がつくんじゃないでしょうか。他に論理哲学論考の解説書みたいなのは読んだことがないので他とはくらべられませんが読んで損はしません。
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哲学に関しては、頭が上がらないSCA自クンが、いい本だと言うので間違いないでしょう(笑 野矢茂樹の本はどれも興味深いのですが・・・・・。
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哲学というよりは、論理的思考力の訓練の積もりで手に取りました。
知識ではなく純粋に思考力や、文章を読み解く力が足りないことを見せ付けられた一冊。
機会をみて再度挑戦します。
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「論考」の自序において「哲学の諸問題は全て解決された」と宣言するヴィトゲンシュタイン。「私は『論考』をヴィトゲンシュタインの手から奪い取りたいのである」と理不尽に叫ぶ解説者。素敵です。
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2.01 事態という語は可能的な事実を表す。→可能的な事実を含む?
2.01231 二元論 内的性質=論理形式→本質?
p094 読みづらいので名→品詞、定義域→定義対象としてみる(どうもそうではないらしい)
p138単純なものだけが実体←破綻するでしょ?コンピュータは論理に従うかぎり何処まで行っても近似的にしか世界を捉えられない。実世界の境界線はどこまで解像しても曖昧であるはず。夫婦とはそれを引き受けたときに現成するのであって男女に還元することは無意味?
p145ウィトゲンシュタインやビートルズと夫婦の違いは構成要素数が限界数かどうかの違いでは。
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原典を読むよりは、本書の方がはるかに取っ付きやすい。私が修士時代に勉強したサールやオースティンの言語哲学が、ウィトゲンシュタインを起源としていることをはっきりと理解できた。あの頃は無謀な研究をしようとしていたんだねぇ…。独学では無理でしょ。
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入門書であるらしいが、私の理解度が足りておらず、わかったところは少なかった。著者の言いたいことはなんとなくはわかったのでそれだけでも自分にとって大きいと思っている。
是非いつかまたゆっくりと読みたい。
語りえぬことについては沈黙せねばならぬ
とウィトゲンシュタインが言ってることに対し、
著者が、「語りきれぬものは、語り続けねばならない」
と言っているとこが強く印象に思っている。
「否定」というものがそもそも存在しないという点も興味深かった。
否定とは既に可能性・・・面白い。
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思考の限界を知ることによって「世界」というものを解明しているんだと思うんですが、言っていることがどんどん難しくなっていってどんどん分からなくなっていきます。眠れない夜に最適です。理屈は何回か読まなくちゃわからないと思いますが、自分の見えている世界が抱えている「可能性」はぼんやりと感じることはできました。多分。
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難しい! 理解して読み進めようとしたら一日一章ペースが自分には限界でした。ノートにまとめてみよう……なんて思ったら、読み終わった頃には一冊使い切ってしまいました。
自分でも騙し騙しというか、理解していると自分に言い聞かせながら読み進めていました。実際本当に理解できているかは別にして、「世界」についてや「独我論」など、未だに厨二病をこじらせている自分からしたら魅力を感じざるを得ません。そんな素敵ワードそしてロマン解釈が、あなたの論理空間を拡大してくれること間違いなしです。
いざ、出口のない迷路へ!
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大学時代に読んだ論理哲学論考であるが、必ずしも内容を全部把握できていない。この副読本でさらなる理解を深めようと考えたが、なかなか読みきれない。歳とともに興味も移ってきているからなのかな。
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ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の解説書だが、著者自身のウィトゲンシュタイン解釈が色濃く反映している。著者は『論考』の行間を埋める考察を展開し、ウィトゲンシュタインが後に誤りと認めた箇所に訂正を施し、著者自身の「非独我論」の立場からさらには独我論者だったウィトゲンシュタインが見ることのなかった光景を『論考』のさらに先に見ようとしている。著者は「できるならば(できないのだが)、『論考』からその正しい部分を取り出し、議論を補完して、『私の論理哲学論考』(野矢茂樹著)を出したいぐらいなのだ」と述べているが、本書はまさしくそうした試みだ。
著者は『論考』を、往路と復路に分けて考察している。往路においては、日常言語の分析を通じて要素命題と論理語が区別される。要素命題は名と対象の対に分析され、名の可能な配列が論理空間を定める。他方復路は、ふたたび日常言語を構成するプロセスである。ここでは、論理語によって要素命題を否定したり接続したりして複合命題が作られる。ウィトゲンシュタインは複合命題を構成する「操作」をア・プリオリなものと考えていた。論理のア・プリオリ性は、論理語の「操作」のア・プリオリ性に根拠を持つ。
ところで、論理空間はそれがどのような対象を構成要素としてもつかということに依存している。対象の配列として事態が構成され、事態の集合として状況が構成され、状況の集合として論理空間が構成されるが、こうした論理空間を張り渡すための対象を、私たちは現実の事実から切り出してこなければならない。著者は、対象を切り出して論理空間を設定するためには、私たちは対象に出会っていなければならないという。論理空間は、対象と出会うという「存在論的経験」に依存しているのである。
そして著者は、ここに『論考』の「独我論」が成立すると考える。私と対象との出会いが私の論理空間を限界づけている。そして世界は、私の思考可能性のうちに位置づけられるしかない。それゆえ「私は私の世界である」といわれ、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」といわれる。だがこのことは、「非独我論」著者から見れば、ウィトゲンシュタインは私は私の論理空間の内部だけを語りうるということで、論理空間の外部に立つ他者を浮かび上がらせているということにほかならない。それは私の論理空間を変化させる力をもった他者である。著者はこのように論じて、『論考』の「独我論」の議論を、「反独我論」の議論に反転させる試みをおこなっている。
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『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』を読んだわけなので、これは野矢を挟んだ読解となっている、という意味において、果たしてどれだけヴィトゲンシュタインの哲学に近づけているのか?というのが本著における野矢が抱えた問題であったろうと思われる、だが、野矢ははかなりの勝算を持ってそこに挑んでいる。個人的にはこの勝負は野矢の勝利として終わっているのではないか?と思われる。本著のいいところは、読者を軽んじていないところである。一足飛びに結果や自分の考えを伝えるというよりは、一つ一つつぶさに自分の考えを伝えている、つまり、野矢における論理哲学論考を読ませられ、考えさせられる、という経験を読者が味わえる、という構図になっているのである。また、所々で「具体例」が示されている。哲学を理解できない場合の、第一の要因として個人的に考えられるのは、「自分の言葉に置き換えない」「具体例を考えない」からだろう、と思われる。ただ、本著ではその部分まで野矢が行ってくれているわけである。ということで、「哲学の手法」を学ぶ、という意味で本著は使えるのではないか?
内容面について言うと、本著を読了する頃には、ヴィトゲンシュタインが、彼の哲学が「間違っている」と結論付けられもなお今日でも広く読まれている、理由が明確に浮き彫りになる。彼は、「日常を明らかにしようとしていた」のである。ソシュールから始まる言語学のようなものや、あるいは、チョムスキーの生成文法などでもいいけれど、一体そこから何が見えてくるのか?個人的には意味不明だ。確かに、その分析によって辿られるものがあるには違いないが、しかし、彼らは恐らく「言語構造の起源」にたどり着き、それを「像」として何かに写すことで、普遍性を獲得させて、終わるのだろうけれど、それが何になるのか?がいまいちつかめない、だから、魅力を感じない。しかし、ヴィトゲンシュタインは言語構造というよりは、「日常言語」を基にして、我々が日常直面しているこの世界を写し取ろうとしたわけである。前者との違いは、前者は「言語を世界から分離して、それを分析し、それからまた都合よく世界に戻そうとしている」のに対して、後者は「日常と直面したままで、言語を分析し、日常の世界を描き出そうとしている」といった具合で、だから、ヴィトゲンシュタインが独我論にたどり着くのも明らかだと思われてならない。この目で見る、世界を映し出すわけであるから、それはどう考えても、ある程度、独我論にならざるをえない。少なくとも、この私が見ている世界、この私にとっての日常、そして、日常言語で描ける世界、それ、というものは、必ず「独我」の路を辿ることになり、その限界を超えようとするならやはりそれは語りえぬものとなるのではないだろうか?だが、語りえぬから、語りえぬとして終わってよいものなのか?いや、ヴィトゲンシュタインも論考の後にまた語っている。永井だって、語りえぬ、と認めながらも、語っている。つまり、語りえぬからこと語り続けるほかはない。それが、語りえぬという境地からすれば意味のないことに思われても、語りえぬということに気づいてしまった以上は��らずにはいられない、ある種の、「操作」のようなものなのだろう。ちなみに論考における最大の誤りとして示されているのは、「操作=論理」を強いアプリオリとしたところとされている。確かに、操作=論理も、主体によっては必ずしも、同じ用い方がされるとは限らない。なので、野矢は、本能のような身体が含まれねばならないと考えているが、その領域に行ってしまうと、脳神経だとかそういう分野へも進出しなければならないように個人的には感じられてしまう。後は、論考の誤りとして示されていたのは、「独我論」「数を名に含めない(数は操作の反復によってのみ示される)」「論理空間においては、無限の操作は起こりえない」といったあたりかな。まず、操作が反復されるのだから、無限の操作は起こりえるはずだし、ヴィトゲンシュタインは相互独立に拘っていたが、相互独立に拘る必要はない=一メートルと三メートルが両立不可でもよい。ただ、このあたりは論考のエッセンス自体はそれほど揺るがさない。操作に身体反応が加わる部分が論考の根本部分を揺るがしうるのであるが、だが、論考全てが誤りとなるわけではなし、なにより、ヴィトゲンシュタインの、姿勢みたいなのが、いいよね。
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倫理哲学論考を読もうシリーズでは私が一番愛読している本です。
とても分かりやすく解説しており、読めば読むほど「倫理哲学論考」の世界を知ることが出来る一冊となっており、「倫理哲学論考」を読む人には是非この作品をセットに読んで頂きたい程です。
とくに「生とは幸福とは」の章は、ただ読むだけでは気づけない。新しい視点からの「倫理哲学論考」を垣間見ることが出来ると思います。
今後も愛読書の一つとして読んでいきたいですね。