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死刑囚永山紀夫が残した原稿と遺言からこのドキュメントが始まる。
原稿の出版による印税とそれを基に「永山子ども基金」がつくられ、永山の遺言どおり東京シューレやペルーのナソップ(子共による自治会)とつながっていく。
この場合幸運にも貨幣価値の違いによって円が何十倍もの価値になってペリーの子供たちの食堂や宿泊施設や集会場や・・・になって、日々の生活と学びと共生の意識を支え続けた。
人が人を裁く死刑が何故暴力的殺人でないのか?
何故死刑が理不尽なリンチでないのか?
秘密の説得の末の死だろうが、秘密の説得に失敗した挙句の強引な死刑だろうが
権力によって合法化された秘密の部屋での理不尽極まりないリンチでしかない。
その陰惨さは戦争に匹敵し貧しさゆえの殺人強盗をも上回るだろう。
19歳の永山は獄中で差しいれられた「貧乏物語」を読むことで、自分に気付く。
貧困が無知をつくり無知が依存を生み依存が人を対立させて対立が罪をつくる。
そしてその罪が貧困・無知・依存と繰り返して行くのだから、貧困と無知と依存をなくすことで、人が個として自律して共生へと成長していくことができると考え、彼は権力の罪を訴え続けて戦った。
獄中で無知だったと自ら認める永山は読書に没頭して文学・ドキュメント・論文とあらゆるジャンルの本を読みあさり、貧しい子どもたちが集える塾に関心を持つようになる。
それ以後、自らも日記を書き小説を書き膨大な論文を書き続ける。
30歳で死刑を宣告され、31歳で文通していた女性と面談室で結婚。その後32歳で一旦無期懲役の判決となるが、検察は異例の上告を行い最高裁は差し戻しの判決を下す。
40歳で死刑確定。6日後には下獄(確定死刑囚としてほとんどの面会と情報を切られて隔離される)。日記等を身柄引き受け人宛てに送ろうとするが許可されず。
48歳になる直前6月13日に身柄引き受け人からの辞任があって、その45日後7月28日48歳になってじきの事、外部の人との面会が許されたのは三年半振りであった。
7月31日新しい身柄引き受け人(新谷のり子)を手紙で知らせるが、開封されないまま8月4日に返還される。
引き受け人が決まる間のわずかな隙であろうか、8月1日の朝死刑が執行される。
死刑の日取りはあらかじめ宣告されることはなく、突然秘密裏に連行されて執行される。
死刑自体もその前後に関する事も、外部への情報は閉ざされているのが普通だと言う。
その朝ひと声、「ウオー」と叫ぶのを同じ官房の死刑囚が聞いており、毎朝日課としていた原稿には、「・・朝、」と書かれたところで終わりのない終わり方をしていると言う。
永山の場合、死刑から無期になり、あらためて死刑を宣告されると言う、二度の恐怖を法廷によってもてあそんでいる。
何もない独房で、突然の執行は朝に決まっていると言うことなので、八年の間朝を迎える恐怖が毎日襲い、食事になるまでの不安な時間から逃れる術がないのである。
新聞記者から死刑が執行されたことを聞い��すぐに、遺体をそのまま引き受けたいと申し出たが、遺骨となって布団その他の身の回り品と一緒に渡された。その際遺言として口頭で伝えられたことから始まった事がこの本になっている。
遺言がどのようにして残されたのかの説明もなく、あるはずの肝心な日記や書類の一部が戻されていないとも言う。