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紙の本
作品と一緒に、作品外のことまで考える
2007/02/26 06:16
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:M - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は前著『小説の自由』に続く、「新潮」連載中(2007年2月現在)の「小説をめぐって」の第二期の単行本である。
——作品について考えるのではなく、作品と一緒に考える。
この意味に類する言葉を著者は繰り返し述べている。そして読者とは「作品と一緒に考える人」である、と。したがって、そのとき作品は、読み手の(あるいは書き手の)考えを促す触媒のようなものだといえるだろうか。
また本書はエッセイよりも評論よりも小説に近い、とも書かれている。先の言葉を換言すれば、一緒に考えさせるようなものが小説だ、と言えるだろう。事実、引用される多くの文献は小説に限らず、小説的に読まれているのだ。作品と一緒に考える。そして読者も一緒に考える。とすれば、本書もまた小説的であるだろう。
全13章のなかで扱われる問題は、すべてを小説的に考えられている(あるいは考えさせるものを扱っている)という一貫性を除けば、雑多にわたる。——フィクションにおけるリアリティ、文体、一人称体と三人称体、現在形と過去形といった小説の表現面の指摘、また大きな問題、哲学、形而上学的問題としては、5章の終わりからは人間の不滅性を、10章からはニーチェの永劫回帰の思想を扱っている。
だが、わたしに印象的だったのは本書のなかに響く声である。
著者は「小島信夫のなかにカフカが住みはじめている」と書き、またベケットのなかにハイデガーを見出し、裸の王様からウィトゲンシュタインに飛んでゆく、等々。一言で言えば連想だが、本書のなかに数多くの声の反響を聴き取ることができる。いや、それらが先行世代から受け継がれてきたものであることを思えば、(著者の小説の題名を連想しつつ)「残響」と呼ぶのが適当だろう。そしてこの声の受渡しは「不滅性」の議論と繋がるのではないか、と考えさせられもする。
固有名詞はその声の発話者を特定してくれるが、もちろん匿名の声も響いている。
たとえば13章での記憶の話題に東京駅が例に出されるが、それは大森荘造の声なのではないか。または序盤には引用されるが、永遠性・永劫回帰の議論では決して名の挙がらないボルヘスの声。さらにはニーチェを注解するクロソウスキーの書く「一度限り決定的に」はキリストの磔刑のことだろうと著者は予想するが、それはやはり作中で引かれるアウグスティヌスが循環説への反駁で言ったことではなかったか。等々。
こうして有名無名の誰彼の声は受継がれてゆく。その声の主もまた誰彼から受継いだものであろう。したがってそれは不滅である。ほんとうにそうだろうか。当然の疑問がおこる。芸術家以外の多くの人々はどうなのか。作家だけが不滅なのか。このような問いも本書で問われている。いや本書で問われなくとも問うことになるはずである。なぜなら読者は「一緒に考える」のだから。
——作品について考えるのではなく、作品と一緒に考える。
ところで作品と一緒に考えるのは作品のことだけではないのだと、読後に殊更実感できるのが本書の特徴だと思う。別のことを考えているのである。だがそれは読後、つまり作品と一緒に考えた後のことであって、「作品と一緒に考える」ことをした影響によるものだ。何か結論を得られるということではない。だがわたしは快適さを感じる。思考が促されている。油が射されたかのように順調にあたまが働くのである。
作中に引用される『ミシェル・レリス日記』の面白さに、著者は、「読み終わるのが惜しい」「むしろ不安」だと書くのだが、本書もそのように感じられた。その言葉に続けては、「読み終わったらまた最初のページに戻って読みつづければいいのだが」と書かれている。
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