紙の本
何度も読み返す本
2020/01/09 17:58
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
私が池田晶子さんのご本のなかで、何をおすすめするかと言われれば、このご本です。歌人でお坊さんでもあられた大峯さんと哲学者の池田さんが愉しくお話されています。そのお話の内容は「ほんとう」のこと。言葉はそのままで価値であることや、死を前にしてほんとうのことを求めることなどとても滋味深いです。
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2月に急遽した在野の哲人、池田晶子さんと、ドイツ観念論の伝統と日本仏教のミクスチャーを展開する、大峯顕さんの対話集。池田さんは、鋭い質問をしつつも、大峯先生が丁寧に回答すると、「ああっわかりました」と非常にオープンな態度です。ここら辺はまねしたいですね。大峰先生は大学のときに1年間講義を受けましたが、そのときも親鸞とハイデガーを結んでいました。懐かしかったです。肝心の内容は…、理解できた範囲ではすばらしい!
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2007年急逝した池田氏の対談本。わかりやすい言葉で話をする池田氏。哲学を論ずるのではなく、日々の生活の中で普通に考えてることそのものが哲学なのよ〜みたいな軽く誰にでも考えられる説明がすきです。
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池田晶子さんと浄土真宗の高僧である大嶺氏の対話録です。
これが池田晶子さんの最後の対話録です。
言葉というものをとことん突き詰めた二人の対話を読んでいると、言葉の持つ力、意味などを再認識しました。
仏教も哲学も突き詰めると非常に似た場所へ辿り着くようです。
「知と信」について語る二人はとても楽しそうですが、それでいて緊張感のある独特の雰囲気が感じられます。
良書です。
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難しおもしろい本です。読書の醍醐味のひとつは難しすぎて理解できない本を最後までとにかく読む事。そして知らないうちに読んだ言葉が自分の一部になっていて、ある日書いてあった事が体感として理解できる事。
この本は池田晶子さんが亡くなられる直前に書かれていて、それを踏まえて読むと、なお一層、ロゴスが語りかけてきます。
哲学と仏教の対話で観る言葉世界にどっぷり浸かれます。
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言葉が溢れすぎ、コミュニケーションが溢れすぎてそれらの価値が低下している。言葉は目的達成のための手段に。嘘をつく道具にもなり真実を語るものではなくなっている。
フィヒテ「知識学」
君自身に還れ、君の外にあるすべてから目を向けかえて自分の中に還れ。これが哲学というものが哲学者に対してするところの第一の要求。
うーん。理想には共感するが人の倫理を責めてその背景にある社会的背景とかシステムの改善を目指さないというのはどうだろうか。何が倫理的かという話をして自分自身を善の内側において世の一般を批判するだけで社会のインパクトを考えないいう時点で少し無責任さが見える。もちろんその生き方の美学には共感するところもあるが、彼らが社会の文脈でそうせざるを得なくなっているということに関して自覚がないような気がする。それは倫理観を責めたところで解決する問題でなく、社会制度を改良する必要があるという点でこの言説は少し内部観測すぎるのではないかと思う。
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哲学者、浄土真宗僧侶の大峯顕と哲学者池田晶子の対談。存在が存在すること自体の謎、不思議を考え続け、知ることを愛する。知ることにより人生が知られる。そのことを前提として信じるとはどういうことか大峯が池田に説く。
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あと十年すればわかる、そのことばを待たずに、亡くなつてしまつた。そして、そのことばを言つた者もついこの間、亡くなつてしまつた。先を生きる者だからこそ、何とも思はずにはゐられない。
信じるといふことはある種の思考停止ではないか。知ることをやめてしまふことではないか。しかし、本当に信じ続けるためには、知り続けなければならない。
同じものの裏表。裏は表で表は裏。見る方向によつて変はるだけで、どちらも同じものの現れ方の違ひだつた。善悪・生死・有無、どれもことばのなすものだつたのだ。
ではことばにならないものは存在しないのか。決してそんなことはない。絶対無が存在しないことには、ことばも存在し得ない。空があるからこそ、色がある。仏教ではそれを弥陀の本願といふ。
わたしといふ存在を信じないことには始まらない。しかし、そのわたしが存在するのが他ならない未知、本願によるなのだ。空はいつでもこの存在と共にあつた。
文字だけでは、この対話がどのやうな展開や雰囲気を出してゐたのかすべてを感じることはできない。だが、池田某はおそらくもつと聞きたいことがあつたに違ひない。静かに耳を傾けながら、時に核心をつきに投げかける様子は、年齢を重ねておとなしくなつたと自嘲してゐたがこのひとらしさだと思ふ。それを知つてのことか、大峯さんも本当のことを語りながら、笑つて核心を語らない。だからこそ、話しながらもつと知りたくなる。知り続けたくなる。
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池田晶子と大峯顕の対談です。大峯はフィヒテの研究者であり、親鸞の思想についてもその哲学的意義を論じた著作を刊行しています。
池田は陸田真志との共著である『死と生きる―獄中哲学対話』(新潮社)のなかで、「ほんとうの哲学の問題」とはまったく無縁に生きてきた殺人犯が、みずからが生きていること、そして自分が他者の生を奪ってしまったことの意味を見つめはじめるのを目のあたりにしていました。しかし、みずからの死と生を、そして他者の死と生を、まったく見ようとしない殺人犯が現われていることに、池田は「哲学の無力」を感じると語ります。こうした、もはや人間と呼ぶことのできない存在を前にしては、仏陀でも「困ってしまう」のではないだろうかと、彼女は大峯に問いかけます。
池田の問いに対して大峯は、「困ってしまいますね」とこたえ、それに続けて、「それはね、この世だけじゃ無理かもしれない」と語り出しています。「この世で気がついて真人間に戻ることは確かに不可能かもしれないけど、いつの世にかは、なるだろう」。そして、「そう思ったら、ちょっと救いが起こる」といいます。なおも池田が、その「救い」とは何なのか、「ということは、何でもいいんだということと同じではないんですか」と問いかけるのに対して、大峯は次のように答えています。「いや、なんでもいいんだということじゃない。結局、なんとしてでも救うぞと仏は言っているわけです。この世で救えなかったら、また次の世でも救うぞと。ある一人の生きものを絶対に手放さない。どんなに長い時間がかかったって、絶対に見捨てやしないと。これほど気が長い話はないですよ。そのことに気づくと、救いが起こってくる」。
「気が長いということに気づくことが救い」という大峯のことばは重く、深いと感じました。