紙の本
女神のような娼婦ジュスティーヌを取り巻く人間たちの性の交錯に託すように、あらゆる人と物が行き交う「都市」という磁場が書かれている。文学史に刻まれる四部作の改訳刊行開始。
2007/05/08 00:21
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
南国の花咲き乱れる温室に閉じ込められたような、濃厚な文学エッセンスが漂う。立ち込める香りを頭で分かろうとするのでは埒が開かず、尻込みすることなく五感の官能を働かせて読むことを余儀なくされる。論理的に分析しようという脳の働きを留め、自分の血流や内臓のひくつきまでを意識するように、そして肌に触れる対流をつかみ、姿かたちなきものまで透視し、沈黙のなかに音を拾うような姿勢で「感じ取る」ことが求められている。
「登場する人物はすべて虚構。ただ都市だけが現実のもの」という主旨の断りが巻頭にある。ここで指されている「都市」とはおそらく、都市一般のことではないかと思える。私たちが知る現代都市では、尊厳が傷つけられ充たされない欲望のはけ口に悩む多くの底辺生活者がもたらす犯罪や暴力を防ぐ手立てとして、管理や規制が強化されている。だが、本来的に都市は「自由」の空気が流れるものであったはず。アレクサンドリアという都市が、古代よりずつとそうであったように……。
アレクサンダー大王がオリエント遠征の途次で名付けたこの都市は、古代から国際都市であり学芸都市であった。物が流通し知識が交流し、それを担う人びとが自由に集い触れ合った。古代最大の「ディアスポラ」と呼ばれるユダヤ人共同体があったこと、そこから聖書解釈の哲学者フィロンが出たことは、「アレクサンドリアの子」ジュスティーヌが知性あふれるユダヤ人女性であることと関係なくはないだろう。
——五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教。港口の砂洲に隠れて油じみた影を映しながら向きを変える五つの艦隊。だがここには五つを越える性がある。そのなかで通俗ギリシア語だけが際立って耳につく。手近にある性の飼葉の多様さ豊富さときたら気も遠くなるばかりだ。ここを快楽の場所だなどと思い違える者はまずあるまい。(12P)
「五つを越える性」は、五つの種族に対応させればよいのか。だが、「男性を求める女性」「女性を求める男性」「男性を求める男性」「女性を求める女性」「自分を求める性」「人ならざるものを求める性」とでも解釈すべきなのか——交錯する複数の性の中心にジュスティーヌが位置する。彼女を取り巻く人間たちの性の交錯に託すように、あらゆる人と物が行き交う「都市」という磁場が書かれようとしている。
——「これが私たちの病気なの」と彼女は言った。「何もかも心理学と哲学の枠に詰めこんでしまおうっていうのが。結局ジュスティーヌを正当化することも弁護することもできはしない。彼女はただ堂々と存在するだけ。わたしたちは、原罪に耐えるように、彼女に耐えるしかない。……」(94P)
エジプトのコプト人で資産家の夫を持つジュスティーヌは、大戦前夜とおぼしきアレクサンドリアの社交界の有名人であり、圧倒的な魅力で、貧しい英国人教師の「ぼく」を感化する。ちょうど「ぼく」は、キャバレーのダンサーであるギリシア人のメリッサと幸せな同棲生活に入ったばかり。女神的な娼婦性で人と交わるジュスティーヌのスタイルが複数の視点から表現されていく。なかでも特異なのは、「ぼく」がジュスティーヌの前夫の書いた小説を入手すること。彼女がモデルに書かれた小説を読みながら、書かれたことに共感を覚え、「ぼく」はジュスティーヌの存在の特別さをより深く理解していく。
「心理学と哲学の枠」を脱してジュスティーヌを認識すべきように、都市もまた「組織と体制の枠」を脱したところで存在すべきなのである。そして、そういったことと同様「時間軸や構成の枠」を外して、都市もそれを象徴する人物も語られなくてはならなかったのだろう。小説は時間の流れを解体し、「ぼく」が思い出すままの記憶の断片を並べて進められていく。読む者を解体し、自由な風に取り込むように……。
紙の本
気怠さのなかの知性
2018/09/11 18:37
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
気怠さの漂う、不思議な海辺の街、アレクサンドリア。(実際に存在はするが、作者の想像によるものとも言えるようだ。)その街で、主人公が出会った、男と女。彼らの特殊さに対する、主人公の観察眼と、感性が、この物語を作っている。
小さな出来事の印象や、個人に対する、心理的な観察を、主人公が回想しながら書いている点で、確かに、プルーストに似ているとも思う。ただ、フランスの上流社会を、若者が、どこか傍観者的に描いていたところのあるのプルーストとは異なり、主人公が、傍観者ではなく、この街に染まり、彼らに巻き込まれてしまったことや、アラブ特有とでもいうのか、気怠い空気と、西洋の哲学では語ることのできないであろう、平板で、寡黙な知性のようなものに、独特の面白さがある。(うだるような夏の読書に、とてもしっくりくる。)ミステリーの要素もあり、楽しみながら、読むことができる。ただ、物語の終盤にかけて、退廃的な空気が、どんどんと濃密になり、登場人物の一人の精神的な破綻が、妙に生々しく描かれ、恐怖を覚えた。
混沌を混沌のまま、身体的に理解しようとしているとでもいえばよいのか、そんな知性を、思わせる物語。
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恩田陸の「小説以外」で紹介されていたのが手に取ったきっかけ。
特殊な文体で、読み進めるのにとても時間がかかった。
おそらくまだこの本と出会う時ではなかったのだろう。
その時がくれば、きっとまた出会えると信じて(もう過ぎてたらどうしよう…)。
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「ジュスティーヌに対するネッシムの愛情についてぼくはしばしば考えるのだが、そのたびにある怖れを感じないではいられない。これほど包容力の大きい、これほど毅然としたものがあるだろうか。それは一種の恍惚感をもって彼の不幸を彩っていた。聖者にこそありえても、恋人などにはあるとも思われなかった法悦の傷をもって彩っていた。しかし、ほんのわずかユーモアの感覚がありさえしたなら、あんなにも恐ろしい、すべてを呑みつくす苦しみから逃れることもできたろうに。批判するのはやさしい。それはぼくも知っている。知っている。」
「ジュスティーヌは真実を聞くのがきらいだった。彼女は片肘をついて向き直り、あのすばらしい苦しげな眼ざしをこちらに向け、長いあいだぼくの目を見つめていた。『ここには選ぶ自由なんてないの』 彼女はぼくがとても好きになっていたあのしゃがれ声で言った。『あなたはまるで選ぶ自由があるような話し方をしている。わたしたちは選択できるほど強くもないし、悪人でもない。これはみんななにか別の存在が決めた実験の一部。それがこの町なのか、わたしたちのなかの別な部分なのかはわからないけれど』」
「老人がかつてあれほど心を動かされた昔の恋文を投げ捨てて叫ぶあの一節まで。『私は悲しい心でバルコニーへ出て行く、この心の動きをまぎらせてくれるものを求めて。たとえ、私の愛するこの都会の街々の、また店々の、僅かな動きを見るだけのことであろうとも!』彼女も鎧戸を押し開いて暗いバルコニーに立ち、色とりどりに輝く都会をながめる。アジアの境界から吹いて来る夕暮れの微風を受け、一瞬、みずからの肉体を忘れ果てて。」
「彼女はポンペイウスの円柱の裏手にあるあの崩れ落ちた残骸のなかで、とつぜん、外壁の上や折れた円柱に腰をかけ、いましがた頭に浮んだばかりの考えに打たれて抑えがたい悲しみにひたるのだが、ぼくはそういう仕草が好きだった。『あなたはほんとうにそう信じてるの?』 彼女があまりにも強い悲しみをこめてそう言うので、ぼくは感動し、同時に面白くも思った。『どうして笑うの? あなたはいつもいちばんまじめなことを笑う。ああ、悲しいのがほんとじゃない?』」
「『つまるところ』と彼女が言ったのを思い出す。『これはセックスとはなんの関係もないの』この言葉は笑を誘ったが、そこには肉体そのものと肉体の使命とを切り離そうとする絶望的な試みがあるのにぼくは気がついた。こういうことは精神的な破産者が恋に落ちるといつでも起るのだと思う。そのときになって、ぼくは、ずっとまえに知っているべきだったことにやっと気がついた。つまりぼくたちの友情は、いわば、お互いを所有し合うところまで熟していたということにだ。」
「『はやく。私の邪魔をして。気が変わりそうになってしまうから。そんなもの二人で乗り越えましょうよ』」
「彼女は貧血で死ぬという妄想に苦しめられていた。なぜなら、誰の肉体も完全に所有することができないのだから。恋をしたいと思いながら、彼女は恋をわがものにできなかった。なぜなら彼女の満足感はもはや生きていない生活の薄暗い片隅から生ずるにすぎない��だから。」
「『今夜はいやにぼんやりしてるじゃないか。何かあったのかい』とポンバルに聞かれたとき、ぼくは死にゆくアムルの言葉をもって答えたいような気がした。『天が大地に落ちかかり、おれはそのあいだにはさまれて、針のめどから息をしているような感じがする』」
「そのころ、ジュスティーヌは、あの黄褐色のカーテンを引きまわした大きな書斎で、ヘラクレイトスの恐ろしい警句を日記に写していた。その日記がいま傍らにある。あるページに彼女はこう書いている。『心の望みと闘うことはむずかしい。心が手に入れようと望むものは、魂を犠牲にして購われるのだ』それから下の余白に、『夢遊病者、魔術師、バッコスの巫女たち、信徒たち、そして秘儀に与ったもの……』。」
「塩辛い港の風を味わいながら、暗い並木道をゆっくりと歩いて帰る途中で、ぼくはジュスティーヌがベッドのなかで苦しげにいってのけた言葉を思い出した。『わたしたちはお互いを斧の代わりに使って、本当に愛している人たちを切り倒してしまうんだわ』」
「『何年ものあいだ、人は誰も自分を気にかけてくれないという感じに耐えてくる。そしてある日、気にかけてくれないのは神なのだということに気がついてぎょっとする。それに、神はただ気にかけてくれないだけではない、何がどうなろうとまったく無関心なのだ』」
「ぼくのほうは茫然として言葉もなく、こういう思考が切り開いた道のまえにたたずんだ。いま経験していることを、なにかもう死んでしまったものと考えて話し合うのがあまりにも奇怪に思われたのだ。時にはぼくもアルノーティのように叫びたくなった。『お願いだからそう不幸になりたがるのはよしてくれ。でないと、ぼくらの仲も終わってしまうぞ。生きてみるチャンスもつかまないうちに人生を使い果たすつもりか』もちろん、そんなことを言ってもむだだと知っていた。この世には自滅するようにできている人間もいる。そういう人にはどんなに理屈を言ってきかせてもききめはない。ジュスティーヌは高い危険な塔の屋根を歩いている夢遊病者みたいなものだ。大声で叫んで目を覚まさせたりしたらかえって大変なことになる。ただ、そとおあとをつけているうちに、まわりに朦朧と現れる大きな影のような墜落の危機から、なんとかゆっくりと連れ戻してやれるならと思うだけだ」
「ぼくたちが角を曲ると、世界は銀を撒き散らし粗切りの影で縁取りをした動脈模様となった。コム・エル・ディックのこの片隅にはほとんど人影もなく、ときおり、都会の心のやましい欲望のように、何かに取り憑かれたらしい警官がひそんでいるのを見かけるだけだ。淋しい歩道に、ぼくらの足音はメトロノームのように規則正しく響いている。二人の男が世界を離れて、自分たちだけの時間と自分たちだけの街のなかにいる。まるで月の悲しい運河の上を歩いているように。」
「その夜は珍しい夏の稲妻が空いっぱいに走った。ショウが終りきらないうちに、砂漠のほうから東にかけて、雷鳴の薄皮が旋律ゆたかな沈黙の表層にかさぶたを作った。若々しくて新鮮な雨が軽やかに降りはじめた。一瞬にして、暗闇は明るい家々のひさしに駆けこんで行く人たちでいっぱいになった。人々は踵の上に衣をたくし上げ、甲高い歓びの叫びをほとばしらせた。ランプの光が、一瞬、透明な雨の中で彼らの裸の体を浮き彫りにした。ぼくらは黙ったまま、香りのいい黄楊の生け垣の後ろの東屋にはいり、白鳥の形をした石のベンチに腰かけた。人々は笑いさざめきながら東屋の入口を横切って明るいほうへ移って行く。ぼくらは静かな雨のしずくを顔に受けながら、暗闇の揺り籠に横たわった。雨に挑むかのように、タキシード姿の男たちが最後の花火を打ちあげ、ぼくは彼女の髪のなかから、最後の青白い彗星が夜空に昇って行くのをながめていた。脳髄のなかで輝く色彩の歓喜を味わいながら、ぼくは彼女の暖かい舌が無心にぼくの舌を押え、彼女の腕がぼくの腕を締めつけるのを感じていた。その幸福の果てしなさ――ぼくらは話すことができなかった。目に涙をためたままひたすらお互いを見つめ合うだけだった。」
「バースウォーデンはかなり酔っていたが、彼女をフロアに引っ張り出すと、ちょっと沈黙してから、例の悲しげだが横柄な口調でたずねた。『きみはどうやって孤独から身を守っている?』メリッサはさまざまな体験を経てきた者の率直さをたたえた眼差しを向けてそっと答えた。『ムッシュー、わたしは孤独そのものになりました』」
「『そうしてこのすべては自分自身に戻って行く。わたしもまた奇妙に変わりかけている。かつての自足した生活はなにか空ろなものになってしまいました。もう心の奥底の必要には応じてくれない。わたしの性質のどこか深いところで潮の流れが変わったらしい。なぜかわからないけれど、最近のわたしが考えるのはあなたのこと。はっきり言っていいかしら。愛の頂点のこちら側でも友情を見出すのは可能でしょうか。愛のことはもう語りたくない――その言葉の陳腐さがたまらない。でも、もっとはるかに深い、それでいて名前も観念もないような友情に達することは可能なのか。肉体をもってではなく(それは僧侶たちにまかせます)、犯罪者の心をもって、忠実につき合えるような人を見つける必要があると思うの。でも、これはいまのあなたには興味のない問題かもしれません。一度か二度、あなたのところへ行って子供の世話をしようかしらという馬鹿げた望みを抱いたこともあります。でもいまはもうあなたは誰も必要としていないし、自分の孤独を何よりも重んじているのは明らかなようです……』」
アレクサンドリア行きたい。
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時々訪ねる古本屋の奧の方の棚に、すっかり黄ばんでしまった表紙を見せながら、それでもかつては燦然と輝いていたであろう書名を誇らしげに見せて、その四巻本は紙で束ねられ、いつ行っても同じ場所に並んでいた。ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』。ずっと前から気になっていながら、手を出しかねていた。
それが、折からの新訳ブームに乗っかってか、それとも別の理由によるのか、同じ訳者による新訳改訂版として出版される運びになったことをまずもって言祝ぎたい。言葉は生物である。いくら名訳と言っても時間がたてば古びてくる。古色を喜ぶ向きもあろうが、ミケランジェロの『最後の審判』の例もある。原作の彩りを伝えるためには、時の浸食による汚れやくすみは取り除く必要があるだろう。
『アレクサンドリア四重奏』は、四巻の小説で構成された単一の作品として読まれることを意図している。その第一巻「ジュスティーヌ」は、「ぼく」という語り手の一人称視点で描かれる。教師をしながら小説を書こうとしている「ぼく」が、アレクサンドリアの街で出会った人々の間で揺れ動く様子を、時間の順序を無視した断章スタイルで描き出したものである。
その文体はペダントリーに満ち、形容過剰とも思えるほどに比喩や警句を多用した華麗なもの。畳みかけるように繰り出される言葉の氾濫は、現実のアレクサンドリアの街を描写しているはずなのに、いつの間にか熱病に浮かされた病人が見る白昼夢のように、類い稀な美しさと醜悪さが入れ替わり立ち替わり現れる非現実の街の様相を呈してくる。それもそのはず、ここで描かれる街は語り手の回想の中のアレクサンドリアなのだ。
「ぼく」は一緒にくらしていたメリッサが産んだ女の子を連れて、地中海に面した岬の町に逃れてきている。何から逃れているのか。愛を求めて傷つけ合うことしか知らなかった二組の男女の記憶から。彼ら、彼女らを操ってそうしむけたアレクサンドリアという都会から、逃げてきたのだ。
「ぼく」はふとしたきっかけで知り合った踊り子のメリッサと暮らしながら、コプト人の銀行家ネッシムの妻でユダヤ系の美女ジュスティーヌに引かれていく。嫉妬に苦しめられ半病人のようになりながらも、妻への愛ゆえに二人の関係を見て見ぬふりをするネッシムだが、妻の不倫を告げ口に来たメリッサを愛することで、立ち直りかける。その危うい均衡が破られるのは、鴨猟で出た死者にネッシムの狂気を感じたジュスティーヌの失踪であった。
同性愛、異性愛の区別のない錯綜した人間関係。毎晩のように繰り広げられる外交官や王族も集まる華麗な夜会。不審な死者を出す払暁の鴨猟。ユダヤ教のカバラを研究する結社。自殺した小説家から贈られた大金。スパイらしき床屋に集まる女好きの道楽者たち。どんな事件が起きようともそれを支える背景や道具立てには事欠かないアレクサンドリアという街。
二つの大戦に挟まれた時代の倦怠に満ちた空気の中、伝説の「世界の結び目」アレクサンドリアの街を舞台に、運命の女(ファム・ファタル)としてのジュスティーヌに振り回される男や女たちが巻き起こす恋愛沙汰を描いた小説である。断片化され、時間を前後して挿入される回想や地の文の中に他のテクストを頻繁に引用する手法は、当時としては斬新でもあったろうが、今となってはモダニズム小説で見馴れたものである。
その分、フェミニズムもポスト・コロニアリズムも知ったことか、オリエンタリズム色濃厚なアレクサンドリアの描写や大時代的な恋愛至上主義が何の遠慮もなく思う存分披瀝されている点が印象に残る。つまり、ヌーベル・キュイジーヌが主流になってからは、すっかり影をひそめたかつての仏蘭西料理のようなもので、今となっては味わおうと思ってもどこでも味わうことのできない豪華料理が異国情緒溢れるシャンデリアのともった大晩餐会場で供されているようなものである。時代がかった味付けをどうとるかは貴方次第。評者は大満足。首を長くして第二巻を待っているところだ。
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随分前から図書館で見かけていたが、やっと借りる決心が付いた。しかし2週間の貸出期間では読み終えることができなかった。続きは来月かな。
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三島由紀夫が、ダレルを称して「プルーストに匹敵する」と云ったそうだが、洗練された表現が三島好みの内容ではないかと感じた。三島の「愛の渇き」はこの第一作をモチーフにしているのではないだろうか。深い愛情を注ぎながら喪失感を覚えざるを得ない登場人物達のやるせない雰囲気が描かれていると思う。
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三島由紀夫が、「20世紀最高傑作の一つであり、優にプルースト、トーマス・マンに匹敵する」といって絶賛したことで有名な作品。本当にそこまですごい作品かはわからないけど、三島の「豊饒の海」の4部作は、この4部作に影響を受けている可能性はありそう。
この4部作は、アインシュタインの相対性理論の4次元の概念を踏まえた(?)複雑な構成になっている。
第1部は1人称の話者によるロマンティックな恋愛小説で、ここは比較的シンプルなのだが、話者は過去の出来事を再構成しながら、書くという形になっていて、話は時系列どおりには進まない。
第2部では、この第1部の物語が他の人物の観察から再構成されていく。第一部のロマンティックで絢爛豪華?な文体は退潮し、より現実主義的でシニカルなものに変化する。
第3部では、同じ物語を3人称で過去からの流れも含めて語る話しとなり、ちょっとミステリー小説みたいな感じになる。第3部が一番客観的なもので、もっとも全体的な視点からの物語ではあるが、それでもどの視点が絶対に正しいというわけではない一種の「藪の中」な話。
そして、第4部で初めて物語の時間は前にすすみ、第1〜3部のその後となる。ここで話者がふたたび一人称で語り始めて、第1巻のロマンティックな文体がある程度戻ってくる。が、ここでも違う作家の日記の引用が入り、全く違う視点と文体が入り込んでくる。
前回読んだときも印象的だった最後の一文に今回はより深い感慨があった。
この小説は、30年以上前に読んでいたのだが、今回、2007年の新訳で読み直して、ほとんど内容を覚えていないことを発見した。で、わたしがこれを読み返したかったのは、結局のところ第1部のロマンティックな物語だったんだな〜と思った。
が、わたしもこの30年で成長したようで、1部のロマンティックな物語ややや甘い感じがして、2部以降の展開が面白かったな。
ちなみにこの訳は、高松さんが40年ぶりに改訳したもの。
訳者あとがきの回顧も楽しい。
初訳の編集担当だった坂本一亀との関係で、「50年毎の初夏の日差しの明るい日曜日に、窓を開け放って仕事をしていると、同じ沿線の2駅ほど離れた町に住む坂本が自転車で訪ねてきた。散歩の途中だと言っていたが、心配になって様子をみにきたということもあったのだろう。後ろの台に5、6歳くらいの男の子が乗っかっていた。その子供が長じていまをときめく音楽家になったのかどうか。」
あ〜、坂本龍一の父親は編集者だったんだよな〜。たしか。
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風邪で寝こんでいる間に、ふだんあまり読みつけないようなものを読んでみた。
退廃的な植民都市のお話し。あふれかえる比喩や、長まわしの独白には辟易としたが、「ああ、小説を読んだ」という手ごたえはのこった。
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『恋人だった女性が遺した子供を連れて、ぼくはこの島にやってきた。
風と波の音を聞きながら彼らと過ごしたアレキサンドリアの日々を書き記す。
ジュスティーヌとネッシム、メリッサ、バルタザール。
アレキサンドリアでの彼らとの日々は現実の世界はほとんど存在しないかのようだった。
アレキサンドリア。五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教、五つの艦隊、そして五つを越える性。
遠く離れた今となってやっと理解した。裁きを受けるべきはぼくたちではない、あの都会なのだ』
著者が冒頭で
「四巻の小説群は『アレキサンドリア四重奏』の総称のもとに単一の作品として読んでもらうことを意図している。内容にふさわしい副題お付けるとすれば「言語連続体」となろうか」
…と書いている小説群の1冊目。
「ジュスティーヌ」と言われるとサド侯爵を連想してしまうのだが、著者も冒頭でサド侯爵の「ジュスティーヌ」から引用しているので、あながち間違った連想ではなかったようだ。
物語は知られていない作家で貧乏教師の「ぼく」の語り。アレキサンドリアから離れて過ぎた日々を振り返る。語り手にとってのアレキサンドリアの日々は「現実の世界はほとんど存在しないかのよう」であり、語りは過去と未来を行きつ戻りつ、語り手の意識も本当にあった事と語り手の心情と語り手の想像の範囲のものとが入り混じる。そのためか全体的にふわふわした印象の物語となっている。
以下、話の筋を登場人物中心で。
❐ジュスティーヌ
副題にもなっている「ジュスティーヌ」については、いろんな人物からいろんな目で評されている。
「悲劇的な側面を持つ一方で生き生きとした微笑を浮かべる」「夜をかすめ飛ぶの蝙蝠のように自由で都会のどこにでも出没きわまりない」「男を傷つけることのできる本当の娼婦」「心に解きがたい結び目を持つ」「真の自我がどうしても他人に理解してもらえないと感じる孤独な生き方」「D・Cという言葉に不快感を持つ」
ユダヤ人で幼少時代はごく貧乏だったが、富豪のネッシムとの結婚によりアレキサンドリア社交界の女となった。まだ少女だったころに親戚の男に強姦されて精神病院に入り、その後の人生での恋愛やセックスに独特の遍歴を持つようになる。
最初の結婚で女児を出産しているがまだ幼い頃に誘拐された。エジプトで誘拐された児童は売春宿に売られることが多く、ジュスティーヌも児童売春宿で騒ぎを起こしている。
貧乏教師の“ぼく”は、ある講演でジュスティーヌと知り合い、そしてネッシムに紹介された。ネッシムを通して“ぼく”はアレキサンドリアの上流社会に出入りするようになった。
❐ネッシム・ホスナニ
ジュスティーヌの二度目の夫のネッシムは、古代エジプト人の直系であるコプト人で、巨大な財産を有し プリンスという呼び名が嫌味にならない。
ジュスティーヌは夫たち以外にも恋人を持つが、恋人たちと戯れることにより、夫との絆を深めているようだ。“ぼく”から見るジュスティーヌとネッシムの夫妻は「結婚というものが作り出す二頭一体の見事な動物のよう」。
❐アルノーティ
ジュスティーヌの最初の夫はフランス国籍の作家、アルノーティだ。
アルノーティは自伝的小説で、出会って、結婚して、ヨーロッパに連れて行き、それから離婚することになる若いユダヤ女(ジュスティーヌのこと)との生活とを書き記している。
❐メリッサ
“ぼく”がジュスティーヌと逢引するようになった頃、 “ぼく”はメリッサと同棲していた。メリッサは愛情と言うよりギリシア人的慈愛の心で“ぼく”の恋人になってくれて、“ぼく”を幸福な男にしてくれた。
“ぼく”がジュスティーヌに惹かれていくことに苦しみつつ、それでも“ぼく”はジュスティーヌを通してこそメリッサをより愛しく思っていた。
メリッサは肺病を病んでいて、物語後編で養生のためアレキサンドリアを離れる。
❐パースウォーデン
メリッサとは、成功していた作家のパースウォーデンが起こした乱交的なパーティーのトラブルで出会った。
その後パースヴォーデンは理由のわからない自殺を遂げ、“ぼく”とメリッサとに遺産を残した。
❐バルタザール
バルタザールもこのアレキサンドリアの鍵の一つだ。ジュスティーヌの唯一の相談相手となっている。
医者で男色家、外見は「植物性の山羊」のようで、カフェでボードゲームに興じている。カバラの研究結社に入っている彼はまるでこの都市の守護神のようだ。
❐フランス領事館員ボンバル
“ぼく”と同じフラットに住んでいて、職業的出世欲が強いボンバルは、ネッシムの友人になった“ぼく”を通し、社交界での顔を広げようとしている。
❐スコービー
イギリス出身の元海賊スコービーは、すでに70代だが明るく日々を過ごしている。エジプト警察勤務でありながら自らスキャンダルを起こすがことも多いが、戦争に備えて秘密情報部に任命される。
後に彼が死んだとき、その葬儀はいかにもアレキサンドリアらしく、大騒ぎで陽気だったようだ。
❐床屋のムネムジヤン
人と情報が集まる床屋のムネムジヤンは、アレクサンドリアで一番の情報通。女も斡旋する。
❐使用人たち
・“ぼく”の家にいた下男はベルベル人で片目のハミド。人の生活の隅々にいる精霊を気にして祈りの言葉を唱えている。
・ネッシムの秘書はエジプト人のセリム。
❐クレア
そしてクレア。美しく若い独身の画家。以前ジュスティーヌと同性愛の関係にあり、終わることによりその愛は完成された。そのあとは恋人も敵も味方も持たず、独立した財産を持ち画家として安定した生活を持っている。彼女の絵を見れば彼女が大胆で優雅で寛大でユーモアがあるとわかるだろう。
クレアは言う。「女に対してすることは三つしかない、女を愛するか、女に対して苦しむか、女を文字に変えてしまうか」
❐カポディストリア
ジュスティーヌの遠縁にあたるこの男は人間というより小悪魔に近い要望を持ち、途方もない財産を持つユダヤ人仲買人。「ダ・カーポ」の渾名で呼ばれていて、好色家で「心はしなびて五官だけが残っている」と称される。
ホスナニ家が主催する鴨猟の大会で、カポディストリアは事故死する。ジュスティーヌの周���の男を疑っていたネッシム、一家から精神病者と自殺者を出しているカポディストリアとの因縁はあるのか…。
そして物語は終盤へ。
家に戻った“ぼく”とネッシムに伝えられた「ジュスティーヌは去った」という知らせ。彼女はひとつの環境から別の環境へ、一人の男から、ひとつの場所から、ひとつの日付から、他のものへと移ってきたのだ。
ジュスティーヌが去った後、“ぼく”は上エジプトでの教職の仕事を承諾し、アレキサンドリアを立ち去る。その後のクレアからの知らせで、ジュスティーヌは共同農場で暮らしていると聞く。
残されたネッシムは、バルタザールたち昔の友達とは離れ、養生中のメリッサと付き合い、それでもジュスティーヌを待っている。
そして “ぼく”は、メリッサとネッシムの間に生まれた女児を連れて、今はこの南の島でアレキサンドリアの記憶、徐々に忘却に変化しようとしている記憶の中で過ごしている。
語り手の心情が、まるで現実ではなかったアレキサンドリアの日々での失った愛情に縋るかのように記憶に漂っている、という状況のため、全体的に実にふわふわした印象となっています。
⇒第2巻「バルタザール」へと続く。
…ということは“ぼく”が去った後のアレキサンドリアの様子などが描かれるのだろうか。