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〈ポストモダン〉とは何だったのか 1983−2007 みんなのレビュー

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みんなのレビュー16件

みんなの評価3.7

評価内訳

高い評価の役に立ったレビュー

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2007/06/15 16:26

〝わかりやすさ〟を叱る、〝わかっていない〟かもしれない人

投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 はじめからいきなり顔面にストレートをぶち込んでくれるのが本書。ニューアカ以後の軽薄短小ブームが幸か不幸かデフォルトになり、外国語が身近かになる一方で邦語本の売れ行きはタバコの自販機以下という状況下、「わかりやすさ」を唯一の基準にしたようなトレンドに思想書から専門書までが流される中、その「わかりやすさ」こそ「罠」であり「大衆操作」だと断じるところから本書ははじまる。
 本書は90年代に書かれた数々の〝わかりやすい〟処方を批判する一方で、「ニーチェ、フロイト、マルクス」を読むと決定的に世界が違って見えてくるという思想哲学の王道をいくキザな台詞を用意している。この3大思想家への期待はニューアカの聖典である『構造と力』(現在50刷のロングテールもの?!)でも結論として示されたセリフだ。しかしニューアカが誤解?されてしまったらしいコトは、誰もこの浅田彰の言葉を真っ当に受け取ってないことからもわかる。理性よりも時代の感性を信じるといった浅田は、まさしくそういう憂き目にあっている、ということだろう。3大思想家への期待という同じ結論を冒頭で示している本書も誤読と誤解に終わるのだろうか?

 本書を東浩紀の言説と比べ照応させる人は少なくないだろう。理由は二つ。通史的なアプローチでニューアカを正面から取り上げたものは意外なほど無いし、それに真正面からニューアカと闘争?した東浩紀そのものを取り上げて俯瞰しようとしたものも無いに等しいからだ。それに80年代から90年代までの、あるいは2〜3年前の情況データさえ把握されていないケースが少なくなく、データベース論がいきわたるのに比例してデータの喪失(年金問題だけじゃない!)あるいは情報検索能力のテッテー的な劣化が一般化しているのかと思うほどの情況下で、本書のタイトルにもなっている「1983−2007」を概観するのには便利でもある。

 柄谷シト、セカンドインパクト、セントラルドグマ…など編集者に恵まれたのかキャッチ!なタイトルや構成は認めるが、哲学を重んじるワリには取り上げたニューアカの系統樹は短く(ニューアカを準備した前段階が全く触れられていない)、その対象領域は小さなデーターベース(二次情報?)でしかない感がある。せっかく浅田の「スキゾ」「パラノ」の援用の仕方が『アンチ・オイディプス』と違うことを指摘し、原典では<精神病>と<神経症>が真の対立軸であることを示すなど説得力があるのに、世代間コンフリクトが巧みに隠蔽された件も(吉本に対する浅田の対応の仕方など)見逃しており、その分だけ本書を凡庸にしている。
 ひと言でいえば、ニューアカを超えようと孤独に奮闘したであろう東浩紀のように中村雄二郎や時枝言語学までも射程に入れている(ニューアカの前段階として把握している)深さはココには無い。本書は軽くはないが、浅いのだ。

 論理オンリーのヘーゲル的オメデタさ(つまりイデオロギーの呪縛)からの解放は中村雄二郎の『共通感覚論』や市川浩の「身体論」が突破口を用意し、それを引き受けた展開が日本のポスモダ=ニューアカだったハズだ。そして、教条的なロゴスの呪縛から時代の感性による判断にシフトしたのではなかったか? もともと京都学派のように欧米において評価された邦人哲学は〝非ロゴス的な認識〟という点で興味を引いていたワケだが。そもそもニーチェ、マルクス、ウィトゲンシュタインらは論理的な孝察の末に非インドヨーロッパ語系に全く別の哲学の可能性を見出していた。それは〝欧米思想の限界〟でもある。
 だが日本には最初から非イデオロギー的な認識論があったワケで、それはハイデガーやヘーゲルも言及している。その点での孝察が本書には皆無。それが本書の限界なのだろう。本書が始まりに過ぎないことを早く示してほしいと思うのは過剰な期待だろうか。

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低い評価の役に立ったレビュー

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2007/08/17 20:15

著者が好き嫌いをあまりにもあからさまに表現するのは感心しない

投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る

 80年代に隆盛を極めた「ポストモダン」思想を総括し、あらたな展望を切り開いてみせてくれる本として、大いに期待をこめて手にしたのだが、期待は裏切られた。
 厳しく言えば、この本は個々の思想家に対する著者の好き嫌いを書き連ねたものに過ぎないように思える。人にはだれしも好き嫌いはあるものだが、それをあからさまに出すのは、美徳ではないだろう。抑制をきかせた文章の中で、客観的に描写するとき、多くの読者から支持を得られるはずだ。
 その点で、著者は未熟な感じがする。読了する前に本書への評価は定まってしまっていたが、最終章の「おわりに」を読んで、著者には自覚があるのだと知って幻滅した。いわく「1980年代以降の思想状況を振り返る仕事をしながら気づいたことは、図らずも著者個人の教養形成をトレースする作業と重なってしまうということだった」。
 個人の色をあまりに出すのはどうか。自覚があるならば、書いたものを読み返し、再度書き直すくらいのことはやってほしいものである。読み終わったあと、著者の私的なつぶやきを聞かされ続けたという感想をいだいたほどである。
 東浩紀の持ち上げ方も不自然だ。繰り返し出てくる東への賛美は、過剰に過ぎる。何か個人的なつながりでもあるのかと思わせられてしまう。日本におけるポストモダン思想の火付け役である浅田彰が誉めるのだから、東にはそれ相当のものがあるのだろうが、書きぶりにはもっと注意が必要だろう。
 といっても、著者は勉強家に違いない。多くの思想家の著書に目を通し、的確に引用しているからだ。ただ、思想家を評価するときの言葉の用い方が不適切だ。特に手垢のついたネガティブな言葉を用いるときは、よほど気をつけないと、その言葉の響きに前後の文章が価値を落としてしまう。本書を読み進めるにつれて、この短所はますます目に付くようになる。
 特にひどいのは、社会学や心理学の今日的意義を評価した箇所だ。著者の言うことは的外れとは言わないまでも、一刀両断に切り捨てられるほど軽い学問分野でもないはずだ。行きすぎた言葉で価値を損ねすぎている。政治学や経済学に重きをおきたいという著者の姿勢だけが浮かび上がる。
 本書によい点を見つけるとすれば、「ブックガイド」だろう。デリダ、フーコー、ドゥルーズ&ガタリ、ラカンなどに関する良書を推薦してくれているところだ。思想家自身の言葉は、着想が新しいがために、こなれた表現になっていないことが多い。その難解さに苦しめられることも少なくない。そんなとき、このブックガイドは本選びのよい目安になるだろう。
 ポストモダン思想を総括したとは言い難い読後感である。しかし、自分たちもまた、ブログやホームページを通じて、情報の発信者に簡単になることができる今日、言葉を慎重に選び、抑制のきいた表現でよき導き手になるようにしなくては、と自戒するに至った。

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紙の本

〝わかりやすさ〟を叱る、〝わかっていない〟かもしれない人

2007/06/15 16:26

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 はじめからいきなり顔面にストレートをぶち込んでくれるのが本書。ニューアカ以後の軽薄短小ブームが幸か不幸かデフォルトになり、外国語が身近かになる一方で邦語本の売れ行きはタバコの自販機以下という状況下、「わかりやすさ」を唯一の基準にしたようなトレンドに思想書から専門書までが流される中、その「わかりやすさ」こそ「罠」であり「大衆操作」だと断じるところから本書ははじまる。
 本書は90年代に書かれた数々の〝わかりやすい〟処方を批判する一方で、「ニーチェ、フロイト、マルクス」を読むと決定的に世界が違って見えてくるという思想哲学の王道をいくキザな台詞を用意している。この3大思想家への期待はニューアカの聖典である『構造と力』(現在50刷のロングテールもの?!)でも結論として示されたセリフだ。しかしニューアカが誤解?されてしまったらしいコトは、誰もこの浅田彰の言葉を真っ当に受け取ってないことからもわかる。理性よりも時代の感性を信じるといった浅田は、まさしくそういう憂き目にあっている、ということだろう。3大思想家への期待という同じ結論を冒頭で示している本書も誤読と誤解に終わるのだろうか?

 本書を東浩紀の言説と比べ照応させる人は少なくないだろう。理由は二つ。通史的なアプローチでニューアカを正面から取り上げたものは意外なほど無いし、それに真正面からニューアカと闘争?した東浩紀そのものを取り上げて俯瞰しようとしたものも無いに等しいからだ。それに80年代から90年代までの、あるいは2〜3年前の情況データさえ把握されていないケースが少なくなく、データベース論がいきわたるのに比例してデータの喪失(年金問題だけじゃない!)あるいは情報検索能力のテッテー的な劣化が一般化しているのかと思うほどの情況下で、本書のタイトルにもなっている「1983−2007」を概観するのには便利でもある。

 柄谷シト、セカンドインパクト、セントラルドグマ…など編集者に恵まれたのかキャッチ!なタイトルや構成は認めるが、哲学を重んじるワリには取り上げたニューアカの系統樹は短く(ニューアカを準備した前段階が全く触れられていない)、その対象領域は小さなデーターベース(二次情報?)でしかない感がある。せっかく浅田の「スキゾ」「パラノ」の援用の仕方が『アンチ・オイディプス』と違うことを指摘し、原典では<精神病>と<神経症>が真の対立軸であることを示すなど説得力があるのに、世代間コンフリクトが巧みに隠蔽された件も(吉本に対する浅田の対応の仕方など)見逃しており、その分だけ本書を凡庸にしている。
 ひと言でいえば、ニューアカを超えようと孤独に奮闘したであろう東浩紀のように中村雄二郎や時枝言語学までも射程に入れている(ニューアカの前段階として把握している)深さはココには無い。本書は軽くはないが、浅いのだ。

 論理オンリーのヘーゲル的オメデタさ(つまりイデオロギーの呪縛)からの解放は中村雄二郎の『共通感覚論』や市川浩の「身体論」が突破口を用意し、それを引き受けた展開が日本のポスモダ=ニューアカだったハズだ。そして、教条的なロゴスの呪縛から時代の感性による判断にシフトしたのではなかったか? もともと京都学派のように欧米において評価された邦人哲学は〝非ロゴス的な認識〟という点で興味を引いていたワケだが。そもそもニーチェ、マルクス、ウィトゲンシュタインらは論理的な孝察の末に非インドヨーロッパ語系に全く別の哲学の可能性を見出していた。それは〝欧米思想の限界〟でもある。
 だが日本には最初から非イデオロギー的な認識論があったワケで、それはハイデガーやヘーゲルも言及している。その点での孝察が本書には皆無。それが本書の限界なのだろう。本書が始まりに過ぎないことを早く示してほしいと思うのは過剰な期待だろうか。

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紙の本

〈ポストモダン〉を、今思考すること

2007/06/05 09:11

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る

本上まもるの『〈ポストモダン〉とは何だったのか』は、類書もみらるこのテーマにあって、しかし待望の、そして稀有な達成である。本書はまず〈ポストモダン〉期を、1983-2007と数字で明示しているが、これは日本の〈ポストモダン〉のメルクマールを成した書物を軸にしていると同時に、筆者の同時代史──思想的主体形成期とも重なる。そう、日本の〈ポストモダン〉を正しく語り得、そして継承し得るのは、おそらく1970年前後に生まれ、その10代後半から20代を〈ポストモダン〉と併走してきた本上まもるのような人々であるはずなのだ。こうした著者・読者によってこそ、本書に並べられた数々の書物は、今改めてその輝きを取り戻すのだし、あるいは読み返さなければならないという焦燥感を焚きつけられもするのだ。章構成には『エヴァンゲリオン』のタームが用いられ、重要な例示として『ブレードランナー』や『マトリックス』を初めとする映画が頻出するが、本書の照準はあくまで「哲学的思考」にこそあり、しかもそれはサブ・カルによって薄められて今日跋扈する「思想らしきもの」とは、決定的に踵を分かつ。
〈ポストモダン〉は、その名称にも刻印されてしまったように、一過性の軽佻浮薄なブームと捉えられ、そして、前後の世代に挟撃されるようにして、今なおそのような位置に甘んじざるを得ない情勢にあるようにみえる。文字通り〈ポストモダン〉思想を生きてきた本上まもるが、そうした中にあって、果敢に思想的な闘争を仕掛けたのが本書である。先にも述べたように、本書の理想的な読者は、おそらく思想体験を共有する同世代だと思われるが、射程がそこに留まっているわけではない。本上まもるは、〈ポストモダン〉と括られてしまう、個々の議論を丁寧に辿り直し、あるいは読み直しの方向性を示唆し、(「軽便さ」とはおよそ対極にある)本質的な思考としての「重い」部分を取り出し、再吟味を繰り返していく。この粘り強い思考と、シャープな読解それ自体が本書を彩る魅力の1つであることは間違いないが、それが、1983-2007という時系列に即して積み重ねられていく時、そこにはある重要な「哲学的思考」の軌跡が浮かび上がってくる。それは、徹頭徹尾「重い」もので、だから新書であるにもかかわらず、本書を読むのは大変疲れるし集中力を要する。著者自ら述べるように、「わかりやすさ」とは、1つのワナに他ならないのだし、むしろ「現代思想のチャート」を楽に読みたいのならば、他にも類書はいくらでもある。(ただし、それは貧しき知識の縮小再生産でしかないのは自明である。)そうではなく、本書は「哲学」であると同時に、「哲学的思考」への導きの書である。もちろん、ここにいう「哲学」「哲学的思考」とは、〈ポストモダン〉を指すのだが、本書を読んでわかるのはその輪郭であり、哲学的ポテンシャルであり、その今日的有効性(ただし、実用性とは別)に他ならず、その先の「哲学的思考」は、ひとえに読者自らの能動的なアプローチに賭けられている。本書には、ブックガイドも付いており、また、〈ポストモダン〉の古典と呼ばれる作品やその思考的源泉となった著書についても、実に緻密で着実な読み解きがなされている。〈ポストモダン〉をその「哲学」としての「重さ」とともに取り戻すためには、さらなる読書と「哲学的思考」が読者1人1人に要請されるのはいうまでもない。本書の記述に漲る力強い思考に読者が共振するならば、その時、そうした作業を強く動機づける装置としても本書は働き出すだろう。

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重力の再発見:夢見てた大人の世界へ

2007/06/24 04:33

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「物を考える」ということは本質的に体を重くする。「ビリーズ・ブート・キャンプ」(優れた商品である)のごとく体を負荷の重さに耐えさせながら、軽く感じさせるように、「物を考える」ことを構成することはやはり不可能ではないだろうか。
 著者は本書において、「軽さ」で捉えられがちな、80年代以降の日本におけるポストモダン思想から、「重さ」(=政治思想)を救出しようという試みを行っている。
 本書は「構造と力」の刊行された当時から冷戦終結までの時代風潮からを振り返る、第一章「回想する」。フランス現代思想の概観、浅田彰氏、柄谷行人氏、東浩紀氏の軌跡に焦点を当てた第二章「摘要する」。現在影響力を保持している、社会学と心理学の立ち位置に疑問を投げかけ、ラカンに代表される精神分析の再評価を試み、福田和也氏の「真意」を考える、第三章「主体の壊乱」。現代の「人間の動物化」、とそれへの東氏の立場をあえて愚直に批判する、第四章「結論」、これらで構成されている。
 非常に読みやすく、各章毎に親切なブックガイドもついている。かつてリアルタイムで「ポストモダン」に接した方にも、かつてそんな流れがあったと伝え聞いたことがある若い人々にもお勧めしたい。
 ただ、福田和也氏を論じるにあたって、彼にとっての「美」の問題はもう少し、例えば坂本龍一氏とからめて、何かも深める手があったのではないか、という若干の憾みは残る。
 坂本氏の動向(細野晴臣氏の一貫性)については私は全面的に著者を支持する。古本屋のワゴンで200円で売られていた薄汚れた「NAM宣言」を購入した者として。

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著者が好き嫌いをあまりにもあからさまに表現するのは感心しない

2007/08/17 20:15

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る

 80年代に隆盛を極めた「ポストモダン」思想を総括し、あらたな展望を切り開いてみせてくれる本として、大いに期待をこめて手にしたのだが、期待は裏切られた。
 厳しく言えば、この本は個々の思想家に対する著者の好き嫌いを書き連ねたものに過ぎないように思える。人にはだれしも好き嫌いはあるものだが、それをあからさまに出すのは、美徳ではないだろう。抑制をきかせた文章の中で、客観的に描写するとき、多くの読者から支持を得られるはずだ。
 その点で、著者は未熟な感じがする。読了する前に本書への評価は定まってしまっていたが、最終章の「おわりに」を読んで、著者には自覚があるのだと知って幻滅した。いわく「1980年代以降の思想状況を振り返る仕事をしながら気づいたことは、図らずも著者個人の教養形成をトレースする作業と重なってしまうということだった」。
 個人の色をあまりに出すのはどうか。自覚があるならば、書いたものを読み返し、再度書き直すくらいのことはやってほしいものである。読み終わったあと、著者の私的なつぶやきを聞かされ続けたという感想をいだいたほどである。
 東浩紀の持ち上げ方も不自然だ。繰り返し出てくる東への賛美は、過剰に過ぎる。何か個人的なつながりでもあるのかと思わせられてしまう。日本におけるポストモダン思想の火付け役である浅田彰が誉めるのだから、東にはそれ相当のものがあるのだろうが、書きぶりにはもっと注意が必要だろう。
 といっても、著者は勉強家に違いない。多くの思想家の著書に目を通し、的確に引用しているからだ。ただ、思想家を評価するときの言葉の用い方が不適切だ。特に手垢のついたネガティブな言葉を用いるときは、よほど気をつけないと、その言葉の響きに前後の文章が価値を落としてしまう。本書を読み進めるにつれて、この短所はますます目に付くようになる。
 特にひどいのは、社会学や心理学の今日的意義を評価した箇所だ。著者の言うことは的外れとは言わないまでも、一刀両断に切り捨てられるほど軽い学問分野でもないはずだ。行きすぎた言葉で価値を損ねすぎている。政治学や経済学に重きをおきたいという著者の姿勢だけが浮かび上がる。
 本書によい点を見つけるとすれば、「ブックガイド」だろう。デリダ、フーコー、ドゥルーズ&ガタリ、ラカンなどに関する良書を推薦してくれているところだ。思想家自身の言葉は、着想が新しいがために、こなれた表現になっていないことが多い。その難解さに苦しめられることも少なくない。そんなとき、このブックガイドは本選びのよい目安になるだろう。
 ポストモダン思想を総括したとは言い難い読後感である。しかし、自分たちもまた、ブログやホームページを通じて、情報の発信者に簡単になることができる今日、言葉を慎重に選び、抑制のきいた表現でよき導き手になるようにしなくては、と自戒するに至った。

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2007/05/19 20:14

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2007/08/21 06:58

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2007/11/01 00:38

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2008/02/17 14:26

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2009/12/26 22:04

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2010/11/08 17:20

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2011/04/22 23:15

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2014/04/22 21:22

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2018/02/20 01:09

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2019/06/13 13:10

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2021/11/05 22:51

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