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和辻倫理学はこれではわからない
2021/02/11 21:55
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この人間の学としての倫理学を文庫で読んでサラッとわかるのは不可能である。引用される哲学者、ドイツ語からの翻訳単語の意味、必ずしも広く哲学史程度で知られているものではありません。誰か?という方も引用されているからです。和辻先生が活躍された当時。ハイデガー哲学時代なんでしょう。なぜ人間学、そして倫理学なのか、私はわかりませんでした、和辻先生のちくま文庫の初稿倫理学、こちらのほうが間違いなく理解できます。まず初稿倫理学からはいってください。
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和辻哲郎(1889-1960)の著。1934年刊。主著『倫理学』の序章的位置づけの著。「人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。従って「人間」は単なる人でもなければ単なる社会でもない。「人間」においてはこの両者は弁証法的に統一せられている。」と説き、「倫理」と「人間存在」について比較的に分かりやすく論じられている。
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人の心の問題とせられ得るに至るには特に仁を持って根本とする思想が顕著。仁は真愛である。そうして真愛は父子の間だけでなく一般的に考察せられる。
人間という言葉の背負っている歴史的背景。
人間は単なる人でもなければまた単なる社会でもない。人間においてはこの両者は弁証的。
人は社会人として生まれているから。
孤立させられても生を望ましきものたれるものたらしめることとして定義する。
ポリスの目的はより偉大でありより完全である。
個人のみの目的を遂げるのも価値あることであるが、民族のためあるいはポリスのために目的を遂げるのも価値あることであるが、民族のためあるいはポリスのために目的を遂げる方が一層美しく、一層貴い。かかる目的こそ人間の学が追及するところである。
人倫においては個人は永遠の仕方で存在する。個人の経験的な有と行とは絶対的に普遍的である。なぜなら、行為するのは個人的なものではなくして個人における普遍的絶対的精神だからである。
とともにまた人倫の普遍的な側面は民族であり、民族においては多数個人の集合が関係とされる。
ヘーゲルが民族と称するものはアリストテレスのポリスに当てて用いられたものである。民族は本性上個別者よりも先である。なぜなら個別者は孤立させられれば何ら独立のものでなく、従ってあらゆる部分と同じく全体とひとつの統一をなさねばならぬからである。
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和辻哲郎の主著『倫理学』への導入であるとともに、和辻倫理学の方法論的基礎づけというべき位置づけの本。本書の第2章では、「人間」が「人間」自身を論じる彼の倫理学において解釈学の方法が採られる必然性が論じられているが、個人的には第1章の議論が興味深かった。
第1章では、「倫理」や「人間」という言葉の成り立ちの検討を通して、人間存在の根本的構造が論じられている。和辻によれば、人間は根本的に共同的なあり方をしている。人間存在の根本秩序こそが、和辻倫理学の中心概念である「間柄」にほかならない。和辻は、人間存在の根本秩序である「間柄」を解明することが「倫理学」の課題だという。
続いて、アリストテレスからマルクスに至る西洋哲学の倫理思想を紹介しながら、そこに人間の共同的なあり方についての問題がひそんでいることが明らかにされる。
カントは「人」を、経験的にして同時に可想的という二重性格をもつ存在として規定した。彼の倫理学は、「人格」を単に手段としてではなく目的として扱うことを要求する。和辻は、カントのいう可想的な「人格」が普遍性を有していること、また、それと対比される「人」の経験的側面が個別性を有していると論じる。そして、経験的にして同時に可想的な二重性格を有する「人」を問題とするカントの「人間学」においては、人間存在の全体が問題とされていたのだと主張する。
その上で、人間存在の全体を射程に入れていたはずのカントの議論が、あくまで観想の立場からの考察にとどまっており、実践の立場から人間存在が論じられていないという問題を指摘するとともに、そうした欠陥を克服することをめざして、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスの哲学が生まれてきたプロセスを概観している。
以上のような議論は、西洋の倫理思想にクリアな見通しを与えるとともに、その根底にひそむ問題を的確に指摘しており、著者の才能の非凡さをうかがうことができる。しかしながら、ヘーゲルの「絶対精神」を「空」に読み替える和辻自身の思想が、その問題をほんとうに克服することができたのかどうかという点については疑問が残る。
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人間の学としての倫理学の大切さは、読めば読むほど分かってくる。
アリストテレス、カント、コーヘン、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスと、誰がどういうことを言ったかはよく分からない。
しかし、問われているのは人間としての存在と、学としての目標だというのは共感できる。
科学という名のもとに希薄な事象がもてはやされることがある。
本当に人間に取って重要な事項が何かを問わない学は腐敗するだろうということが滲み出てくるような木がする。
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卒論資料。
和辻はほんとうに賢い。わたしなんぞが言うまでもなく。
関係性における倫理学が果たす役割、その媒介(あるいは窓口)としての「言葉」の位置づけを再考する。
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【人間】って中国からやって来た言葉で、そもそも世の中・世間のことを指し、誤って人の意になったそう。この間違い、すごく日本人らしい。人という言葉についても「ひとのものを取る」「人聞きが悪い」「人をばかにするな」のそれぞれの人は、全部意味が違うんだけど日本人にとってはたいした問題じゃなかった。こんな主客が渾然とした感じって、今自分がとても大切にしてる感覚。それに、これからの世の中にとっても大事な感覚なんじゃないかと思ってる。
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難しくてほとんど理解できなかった。
また挑戦したい。
世の中にはとんでもなく頭の良い人がいるんだなあと感嘆することしかできない。
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和辻哲郎倫理学の序説的な内容の本。
和辻のいう「倫理学」は、私たちが普通に使っている西欧由来の概念と全然ちがう。「倫」の字は「仲間」を意味し、倫理学において重視されるのは人間共同態のありようであり、単に個人主義的な道徳意識はとりあえず払拭される。
つまりカントの「わが内なる道徳律!」という感嘆とはまったく関係のない「倫理学」なのである。
さらに、この本によると「人間」という語が「ヒト」を指すというのは誤用であって、もともとは「世間」を意味するのだという。こうなってくると「人間の学としての倫理学」という書名は、まったく新たな意味をもって再浮上してくる。
このような考え方はいかにも日本的というか、東洋的だと思う。第一次大戦後の日本社会には、思想においても、こうした日本の独自性の意識が高まっていたのだろう。
私が大いに触発された木村敏氏も和辻倫理学に影響されていたのだろうか。どこかで言及されていたかもしれないが、よく覚えていない。
個人ではなく<あいだ>、<共同態>が着目される点、近代西洋の思考の枠組みの虚を突いて面白いが、よくよく考えてみると、和辻のいう<共同態>は、一歩間違えれば国家優先、国粋主義、全体主義へとなだれ込んでしまう危うさもありはしないか。
そのへんは、この本だけではよくわからない。いよいよ和辻の主著『倫理学』(文庫で全4冊)にとりかからないといけない。
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東西の思想史で用いられた概念(表現)の分析に取り組みながら、それらから学ぶべきところとそれらの至らぬところを指摘しつつ、「間柄」としての人間存在のあり方から倫理を導き出そうとしている。とりあげられる思想は、儒学・仏教にはじまり、カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガーなど思想史全体に及ぶ。それらの記述の中には、ヘーゲルやハイデガーを理解するための助けになるような指摘も多く、思想史学習のテキストとしても使えそうである。
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「間柄」において存在し、機会開発されていくのが「人間」。その「間柄」は状態ではなく、進化発展していくものとして見ていきたいし、そうすることで関わり方も変わってくる。「学」として見ることを否定しないが、「学」で終わるのではなく、この和辻が深化した倫理というものを行動する者として語っていきたい。