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紙の本
汲みつくし難い名画、『東京物語』を守るために
2009/05/31 21:47
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書所収の井上理恵「『東京物語』と戦争の影」が、どうにも腑に落ちない。小津安二郎論の権威たちへの批判があり、興味をひかれるのだが、はっきり言って、よく分からない。
著者は戦争未亡人である平山紀子(原節子)に対して、義父母の周吉・とみ(笠智衆と東山千栄子)が、戦後、身の振り方を考えなかったことを詰(なじ)っている。また紀子を前にしたとみの、「まだどっかに」息子が「おるようなきがするんよ」という言葉を《無神経なセリフ》だという。そのように紀子に対する周吉夫妻の態度を小津安二郎が批判的に描いた、と著者は考えている、と私はこの文章から判断せざるをえない。
周吉たちの長男(山村聡)と長女(杉村春子)の両親に対する態度は詰られるべきものとして小津は描いている。ただし見事に小津的にであって、あまりにも見え透いた邪険さによってではない。そこにこそこの映画が時代を超えて見られている何かがあり、それは誰にとっても一目瞭然であろう。はるばる東京にまでやってきた両親に、戦後の生活の不如意によるとはいえ、息子も娘も、もう少し温かくできなかったものか、というのが大方の『東京物語』を見つめるものの感慨であるに違いない。
《笠の演じた周吉は小津ではないと考えたい。寡黙な小津を読み取るのは困難だが、作品を見る限り小津は周吉をはるかに越えている》と著者は記すが、少なくとも妻帯せず子供をもたなかった小津は、ありふれてはいるがそうした自分にはなかった生への畏敬の念のいくらかを周吉への造形にこめたと思う。どう考えても、妻を亡くした後、義理の娘の身の振り方を心配する周吉の配慮を、著者のように「遅すぎる心配だ」と斬って捨てることなどできないし、小津もそのようには描写していないと断言できる。
第一、著者の批評には、どうしようもなく、つまらない矛盾が露呈している。著者は一方で、自身言うところの、とみの「無神経なセリフ」に対し、《紀子は無言でそれに応じる。応えられるわけがない。戦争は彼ら両親の中で持続していなかった。二〇歳で未亡人になった紀子だけが戦争の悲しみ――昌二がいないという現実を抱えて生きていたのだ》と感情的に概括する。
そしてもう一方で、ボードウエルの小津論における「彼女は誠実な未亡人ではなかった」「再婚の意思もない」といった言葉に対し、《どこでそうした独断の読みが生れるのかと思うのだが、二〇歳で別れた(八年前に死んだ)人を、しかも二人で暮らした時間も短い夫を、何ゆえ思い出さない日があってはいけないのだろう》と、これも感情的な批判を加える。
著者による、この二つの紀子観はそれぞれにおいて妥当性がなくはないと思うが、一つの論述のなかに同じ著者による言葉として置かれると、そんな無茶な、と思わざるをえない。
つまり、こういうことなのだ。この『東京物語』論のなかでたびたび著者は、小津の「写実」に疑問を抱いているが、小津はこの著者が好むような、一方向的に理解できるドラマティックなリアリズム映画とは無縁の映画監督だった。著者は、含みのある、それゆえに人々を魅了する映画から、その場で都合のいい印象を引き出すことで、一つの論文としては破綻しているのに気づかない。
おそらく、この映画を見た多くの人たちは、何も書かずとも、あるいは何も言わずとも、この著者よりは、はるかに深いものをここから得ている。批評とは、そうした豊かな印象の塊りとでもいうものから1ミリでも超えようとする言葉でなければならないだろう。
蓮實重彦の小津安二郎論は、たとえばその宙に浮いた二階、という比喩において、人々の印象の塊りを数メートルは超えた批評と言えるだろう。またヒロインの「とんでもない」が「消化しがたい異物」をその身にまだ残すのは、『東京物語』が今も彼にとって生きていることなのだと思う。
さて、この『東京物語』論には、この映画のシナリオが引用されているが、この引用のままでは、ゴチックの意味が何か、まったく分からず、読むものに誤解させるおそれがある。『東京物語』のシナリオについて少し調べたくなった。
私は四〇年以上にわたって小津安二郎の映画を見てきたが、今回初めて、小津安二郎について書いた。書かされた、という感じが少しある。
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