- 現在お取り扱いが
できません - ほしい本に追加する
- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
高い評価の役に立ったレビュー
7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/05/03 19:47
学校と食べ放題のレストラン
投稿者:BCKT - この投稿者のレビュー一覧を見る
第一章 学校から逃げ出す教師たち
第二章 おとなになろうとしない!
第三章 教師VS生徒、学校VS親の現場
第四章 さよなら「金八先生」
第五章 「自立」とは何であろうか
第六章 成長しなくなった若者をめぐって―速水敏彦、水谷修を批判する
第七章 「モンスター」たちに蹂躙される学校
第八章 ポストモダン空間のなかの子ども
第九章 自立や自主や独立を求めることは、実はとても非人間的である
第十章 「オレ様」を超えて
著者は1941年(千葉県)生まれ。定時制高校卒業(60年)。東京教育大学(文学部,(現)筑波大学)卒業(64年)。高校教師(英語,1964-2001年)。日本教育大学院大学(客員教授)。「プロ教師の会」代表。埼玉県川越市在住。教育労働者として「教育業界では代表の河上亮一と並んで著名」(Wiki)。著書に『「平等主義」が学校を殺した』,『「管理教育」のすすめ』,『教師と生徒は“敵”である』,『オレ様化する子どもたち』など。くわぁ~~,題名だけ見ても過激ぃ! 洋泉社って,右派の教育出版業者(社)なんだな。大泉洋(俳優)とは無関係だろうけど。
現場教育従事者として定年を迎えるほどの経歴を積んだ著者だからこそというべきか,にもかかわらずと言うべきか,(担当科目が英語であるにも拘らず(あ,差別!))時代感覚に鋭い。時代変化の議論に説得力がある。戦後から1965年まで(農業社会段階),75年まで(消費社会段階)などのように時代モデルを措定し,現代を産業社会段階として,キーワードを「等価交換」としている。要するに,保護者と生徒たちは学校と教員に「等価交換」を求め,“そっちがこっちの言い分(‘この教員をやめさせろ’)を認めない限り,こっちはそっちの言い分を認めない”という論理を張ってくるというわけだ。一部の保護者は教育機関の行政サービス化,もしくは民間サービス化を要求している。これは生徒にも妥当する傾向で,しかもこの論理に著者は一理(「近代を切り拓いた市民社会の唯一の大義」(99頁))を認めている。
問題は,すべての生徒と保護者が「等価交換」を求めているわけではない点だ。大多数は従来的なのだが,一部が悪い意味で近代化しているのだ。悪いことに,公教育機関は公金(=税金)で運営されているために個別の対応は難しいという制度的な制約に加えて,教員がこのような要求に対する適切な対応手続きに不慣れなのである。
生徒や保護者が学校や教員の指導に従うのは,その学校の卒業が人生に有用だと信じている限りであり,そうでなければ生徒や保護者は従わない。誰も自分の損になることに深く関与するはずがない。笑っちまったのは,内田樹が「『学費の高い私立学校ほど,子供の受講態度は静かになる』という法則がおそらくあるんじゃないか」(『下流志向』)と発言していることを,諏訪が引いている事実だ(99頁)。諏訪も「言いえて妙」だとしている。私も,校長指導を受ける生徒には30万円,教頭指導なら20万円,教員の課題提出指導(口頭)で2回目以降100円とか,それぞれに料金を設定すれば面白かろうと思う。学校にまったく手をやかせない生徒と,結局しまいには退学になる生徒と,この二種類に学費が同じだというのは,近代社会の合理の主義に反してはいないだろうか? 受益者(?)負担でお金の尺度を大胆に持ち込めば,左派の何もするつもりのない教育委員会と財政負担が増える可能性のあるPTA担当者は反論するだろうが,「等価交換」を行う限りにおいては学校側も黙っていては,食べ放題のレストランで皿やスプーンまで持っていかれる状況を放置するのと変わらない。僕は過激に過ぎるかな?
315ページを10章プラス「若い人たちへ」と「おわりに代えて」で,1章当たり約26ページ。何の但し書きもないが,なんだか書き下ろしというよりは,論文集という印象を本書は与えている。また,大塚英志(『週刊ポスト』2005年4月号),山本義隆,速水敏彦『他人を見下す若者たち』,水谷修『夜回り先生,心の授業』も批判と反批判の俎上に載せている。
(1622字)
低い評価の役に立ったレビュー
9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/09/07 21:45
いやあ、楽しめた。諏訪という人間が展開する議論の欠点を、本書ほど満天下に示すものはないと思う。本書は、そのピントのはずれ具合において諏訪哲二の著作の中でも最高ケツ作なのではないか。一番笑わせてくれたのが、諏訪がフジテレビのお笑い番組「クイズ!ヘキサゴンII」に登場する「お馬鹿キャラ」の回答を、「まじめに」分析し、憂い、嘆き、近年の若者全般のレベル低下の象徴として例示している下りである。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
諏訪は日本社会が近代の「農業社会段階」から離脱し、60年代に「産業社会段階」に入り、続く70年代に「消費社会段階」に入って、それまで日本社会にあった教師に対する尊敬や経緯がすべて「等価交換可能な行政サービス」「カネで買えるもの」に貶められ、多くの学校で教育そのものが困難になったという議論を展開する。諏訪の議論の特色の第一が、ここに凝縮されている。彼の議論は極めて図式的なのである。その、現実を無視した、事実からの乖離、現実からの飛躍に満ちたマンガチックな図式はマルクス経済学の唯物史観を髣髴とさせる。まず図式があって、すべてをそこに押し込めようとするから無理が生じ、論理が破綻し、多くの読者の教訓を勝ち取れないという「穴」に転落していることに全く気が付いていないところに諏訪の悲劇がある。
本書では第四章に諏訪自身の人生行路が描かれている(この部分が本書の数少ない売りかもしれない)。ただ諏訪が語っているのは基本的に「自分はこうした」「自分の経験したことはこうだ」というだけの話に過ぎないのに、諏訪はいつの間にか自分が経験した極めてローカルな話を日本社会全般に敷衍し、日本社会全般を論じてしまう飛躍を成し遂げる。この諏訪の全能感こそに、諏訪の論理が破綻している原因が潜んでいる。
本書で諏訪が例示しているような極端な「教育の等価交換化」は、全国の学校であまねく起きているわけではないという厳然たる事実を、まずここで確認しておきたい。諏訪は、このことは本書でもさらっと認めているかのような記述を灘や開成を例示しつつしていることはしている。ただ続く文章で内田樹の「下流志向」を例示しながら、「学費の高い学校ほど子供の授業態度は静かになる」などと、事実確認をすっ飛ばした奇矯なる観測記事を早速載せて全体の価値を破壊している。私立学校とて授業中に騒ぐ生徒はいるし、荒れている学校も中にはある。ただ私立と公立の違いは、私立がいざとなったら「退学処分」という伝家の宝刀を躊躇無く行使して学園内の秩序を回復しているのに対し、公立では諏訪も指摘している通り、退学処分はもちろん停学処分すら学校側が行使に及び腰だという点だ。この差が決定的なのであり、学園の秩序は、いわば排除の論理で成り立っているのだが、ここを諏訪はなぜか無視する。学校側が権力の行使に及び腰になれば、そこはやった者勝ち、暴力が支配する自然状態になるのが当たり前なのに、ここを諏訪はスルーする。
第二に諏訪は教育の荒廃の原因=消費社会化=金銭万能の拝金主義のだが、私の見るところ、この分析は完全に間違っている。
確かに70年代以降、一部の学校、特に底辺校で学校の権威は地に落ち、教師の権威が壊れたわけだが、その原因は拝金主義の蔓延ではなく、すべての権威の破壊を目指した全共闘運動や日教組が展開した運動の影響が大きい。
日教組が実践した「挨拶をしない運動」というのもあった。故山本夏彦氏曰く、これは主任制度を導入しようとした文部省に管理強化として猛反発した日教組が校長教頭に頭を下げるなと指令を出し、子どもの手前校長に挨拶しない自分の立場を正当化するためにひねり出した屁理屈だと。日教組教師曰く「年齢が上だとか肩書きが上だとかということでむやみやたらに頭を下げるのは封建主義的な遺風である。挨拶というものは本来心より尊敬する人に対し自然とするものであって年齢が上だからといって廊下で無闇に頭を下げてはいけない」と。 この手の運動の影響が、実は学校であり教師の権威破壊に大きく貢献しているのである。
全共闘の連中は国家の破壊、体制の破壊を目指し、大学の解体を叫んだ。日本の学校の頂点に君臨する東京大学に乗り込んで警察官を殺そうとし、校舎に放火し、乱暴狼藉の限りを尽くした。これが、それまで「権威」の鎧で守られていた学校、教師を完全に武装解除してしまったのである。大学全共闘は高校にも波及し、東京都立の進学校、国立の進学校(東京教育大附属駒場など)、私立の進学校(麻布、灘など)にも波及した。進学校での運動は、多くの学生が「将来に障るから」とノンポリ化し、一部の「お馬鹿さん」を除いて急速に沈静化に向かうのだが、その外延に位置する新設校、底辺校にも、違う形で影響していったのが1970年代であり1980年代なのだ。進学校の生徒は「将来に障る」という自制心が強烈に働いたから自浄することが出来たが、新設校や底辺校に通っていた生徒はそうではなかった。もともといやいやながら通学し、授業内容の大半も理解できなかった生徒ばかりだし、そもそも理解しようという動機に欠けた生徒ばかりだった。つまり彼ら彼女らにろくな将来なんか無かったから、自制心を働かせる動機に乏しかった。だから学校を壊し、先生を「センコー」と呼んで投石する全共闘学生は、彼ら彼女らの格好のロールモデルになったのである。底辺校の生徒は全共闘学生の主張や目標なんか、そもそも興味もないし理解も出来ない。彼ら彼女らは、ただ「不満があれば校舎を破壊し教師を罵倒し殴ってもよい」というところだけ、都合よくつまみ食いしたのだ。
それにだ。諏訪は「学校の役目は単に知識を伝授することに留まらない。学校の大きな役目は自然人たる生徒を「公的存在たる生徒=幼児的全能感を打ち砕き、有限な存在として、他者の存在を認めつつ、社会の中における自己を確認できる公的存在としての個人」に仕立て上げることも学校の役目だなどとホザクが、これは事実とは大幅に異なるというのが私の認識だ。そもそも日本社会で「公」が白昼堂々語られるようになったのは90年代も半ばを過ぎたあたりではないか。それまでは学校で公を語ること自体が憚られていなかったか。公=天皇制=国家社会による人民の支配=軍国主義への道という図式が世の中全般を覆っており、学校で日の丸・君が代を掲げ歌うこともタブー視されていなかったか。公とは国家による個人の抑圧、隷属を正当化する手段であり、これを破壊し払拭するまで、日本の明日は来ないんだみたいな議論を日教組サヨクも全共闘の連中は吹聴していたではないか。そのツケが別の形で諏訪らに降り注いだ、ただそれだけのように思う。
もちろん本書が諏訪の思い込みだけで埋め尽くされているわけではない。良いことも書いてある。例えば日本の一部で台頭しつつある「フィンランド教育理想化のウソ」を暴いている点だ。フィンランドの教育は複線型でエリートコースと職業訓練コースに分かれているし、大学はわずか21校しかない。高校は単位制で塾みたいなもので、ホームルームクラスなんか無い。従って集団として規律やマナーなんか学校では教えていない(はずだ)。
それにしてもどうして諏訪はこうも全方位攻撃を仕掛けるのだろう。本書で槍玉に挙げられているのが「他人を見下す若者たち」の著者速水敏彦、大塚英志、水谷修、金八先生、ワタミフードサービスの渡邊美樹社長である。どうして諏訪はこうも他者攻撃が好きなんだろう。ひょっとして諏訪自身が「他人を見下す老人」なのではないか。今や教育評論界のモンスターに諏訪はなってしまった感がある。
8 件中 1 件~ 8 件を表示 |
紙の本
学校と食べ放題のレストラン
2009/05/03 19:47
7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BCKT - この投稿者のレビュー一覧を見る
第一章 学校から逃げ出す教師たち
第二章 おとなになろうとしない!
第三章 教師VS生徒、学校VS親の現場
第四章 さよなら「金八先生」
第五章 「自立」とは何であろうか
第六章 成長しなくなった若者をめぐって―速水敏彦、水谷修を批判する
第七章 「モンスター」たちに蹂躙される学校
第八章 ポストモダン空間のなかの子ども
第九章 自立や自主や独立を求めることは、実はとても非人間的である
第十章 「オレ様」を超えて
著者は1941年(千葉県)生まれ。定時制高校卒業(60年)。東京教育大学(文学部,(現)筑波大学)卒業(64年)。高校教師(英語,1964-2001年)。日本教育大学院大学(客員教授)。「プロ教師の会」代表。埼玉県川越市在住。教育労働者として「教育業界では代表の河上亮一と並んで著名」(Wiki)。著書に『「平等主義」が学校を殺した』,『「管理教育」のすすめ』,『教師と生徒は“敵”である』,『オレ様化する子どもたち』など。くわぁ~~,題名だけ見ても過激ぃ! 洋泉社って,右派の教育出版業者(社)なんだな。大泉洋(俳優)とは無関係だろうけど。
現場教育従事者として定年を迎えるほどの経歴を積んだ著者だからこそというべきか,にもかかわらずと言うべきか,(担当科目が英語であるにも拘らず(あ,差別!))時代感覚に鋭い。時代変化の議論に説得力がある。戦後から1965年まで(農業社会段階),75年まで(消費社会段階)などのように時代モデルを措定し,現代を産業社会段階として,キーワードを「等価交換」としている。要するに,保護者と生徒たちは学校と教員に「等価交換」を求め,“そっちがこっちの言い分(‘この教員をやめさせろ’)を認めない限り,こっちはそっちの言い分を認めない”という論理を張ってくるというわけだ。一部の保護者は教育機関の行政サービス化,もしくは民間サービス化を要求している。これは生徒にも妥当する傾向で,しかもこの論理に著者は一理(「近代を切り拓いた市民社会の唯一の大義」(99頁))を認めている。
問題は,すべての生徒と保護者が「等価交換」を求めているわけではない点だ。大多数は従来的なのだが,一部が悪い意味で近代化しているのだ。悪いことに,公教育機関は公金(=税金)で運営されているために個別の対応は難しいという制度的な制約に加えて,教員がこのような要求に対する適切な対応手続きに不慣れなのである。
生徒や保護者が学校や教員の指導に従うのは,その学校の卒業が人生に有用だと信じている限りであり,そうでなければ生徒や保護者は従わない。誰も自分の損になることに深く関与するはずがない。笑っちまったのは,内田樹が「『学費の高い私立学校ほど,子供の受講態度は静かになる』という法則がおそらくあるんじゃないか」(『下流志向』)と発言していることを,諏訪が引いている事実だ(99頁)。諏訪も「言いえて妙」だとしている。私も,校長指導を受ける生徒には30万円,教頭指導なら20万円,教員の課題提出指導(口頭)で2回目以降100円とか,それぞれに料金を設定すれば面白かろうと思う。学校にまったく手をやかせない生徒と,結局しまいには退学になる生徒と,この二種類に学費が同じだというのは,近代社会の合理の主義に反してはいないだろうか? 受益者(?)負担でお金の尺度を大胆に持ち込めば,左派の何もするつもりのない教育委員会と財政負担が増える可能性のあるPTA担当者は反論するだろうが,「等価交換」を行う限りにおいては学校側も黙っていては,食べ放題のレストランで皿やスプーンまで持っていかれる状況を放置するのと変わらない。僕は過激に過ぎるかな?
315ページを10章プラス「若い人たちへ」と「おわりに代えて」で,1章当たり約26ページ。何の但し書きもないが,なんだか書き下ろしというよりは,論文集という印象を本書は与えている。また,大塚英志(『週刊ポスト』2005年4月号),山本義隆,速水敏彦『他人を見下す若者たち』,水谷修『夜回り先生,心の授業』も批判と反批判の俎上に載せている。
(1622字)
紙の本
いやあ、楽しめた。諏訪という人間が展開する議論の欠点を、本書ほど満天下に示すものはないと思う。本書は、そのピントのはずれ具合において諏訪哲二の著作の中でも最高ケツ作なのではないか。一番笑わせてくれたのが、諏訪がフジテレビのお笑い番組「クイズ!ヘキサゴンII」に登場する「お馬鹿キャラ」の回答を、「まじめに」分析し、憂い、嘆き、近年の若者全般のレベル低下の象徴として例示している下りである。
2009/09/07 21:45
9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
諏訪は日本社会が近代の「農業社会段階」から離脱し、60年代に「産業社会段階」に入り、続く70年代に「消費社会段階」に入って、それまで日本社会にあった教師に対する尊敬や経緯がすべて「等価交換可能な行政サービス」「カネで買えるもの」に貶められ、多くの学校で教育そのものが困難になったという議論を展開する。諏訪の議論の特色の第一が、ここに凝縮されている。彼の議論は極めて図式的なのである。その、現実を無視した、事実からの乖離、現実からの飛躍に満ちたマンガチックな図式はマルクス経済学の唯物史観を髣髴とさせる。まず図式があって、すべてをそこに押し込めようとするから無理が生じ、論理が破綻し、多くの読者の教訓を勝ち取れないという「穴」に転落していることに全く気が付いていないところに諏訪の悲劇がある。
本書では第四章に諏訪自身の人生行路が描かれている(この部分が本書の数少ない売りかもしれない)。ただ諏訪が語っているのは基本的に「自分はこうした」「自分の経験したことはこうだ」というだけの話に過ぎないのに、諏訪はいつの間にか自分が経験した極めてローカルな話を日本社会全般に敷衍し、日本社会全般を論じてしまう飛躍を成し遂げる。この諏訪の全能感こそに、諏訪の論理が破綻している原因が潜んでいる。
本書で諏訪が例示しているような極端な「教育の等価交換化」は、全国の学校であまねく起きているわけではないという厳然たる事実を、まずここで確認しておきたい。諏訪は、このことは本書でもさらっと認めているかのような記述を灘や開成を例示しつつしていることはしている。ただ続く文章で内田樹の「下流志向」を例示しながら、「学費の高い学校ほど子供の授業態度は静かになる」などと、事実確認をすっ飛ばした奇矯なる観測記事を早速載せて全体の価値を破壊している。私立学校とて授業中に騒ぐ生徒はいるし、荒れている学校も中にはある。ただ私立と公立の違いは、私立がいざとなったら「退学処分」という伝家の宝刀を躊躇無く行使して学園内の秩序を回復しているのに対し、公立では諏訪も指摘している通り、退学処分はもちろん停学処分すら学校側が行使に及び腰だという点だ。この差が決定的なのであり、学園の秩序は、いわば排除の論理で成り立っているのだが、ここを諏訪はなぜか無視する。学校側が権力の行使に及び腰になれば、そこはやった者勝ち、暴力が支配する自然状態になるのが当たり前なのに、ここを諏訪はスルーする。
第二に諏訪は教育の荒廃の原因=消費社会化=金銭万能の拝金主義のだが、私の見るところ、この分析は完全に間違っている。
確かに70年代以降、一部の学校、特に底辺校で学校の権威は地に落ち、教師の権威が壊れたわけだが、その原因は拝金主義の蔓延ではなく、すべての権威の破壊を目指した全共闘運動や日教組が展開した運動の影響が大きい。
日教組が実践した「挨拶をしない運動」というのもあった。故山本夏彦氏曰く、これは主任制度を導入しようとした文部省に管理強化として猛反発した日教組が校長教頭に頭を下げるなと指令を出し、子どもの手前校長に挨拶しない自分の立場を正当化するためにひねり出した屁理屈だと。日教組教師曰く「年齢が上だとか肩書きが上だとかということでむやみやたらに頭を下げるのは封建主義的な遺風である。挨拶というものは本来心より尊敬する人に対し自然とするものであって年齢が上だからといって廊下で無闇に頭を下げてはいけない」と。 この手の運動の影響が、実は学校であり教師の権威破壊に大きく貢献しているのである。
全共闘の連中は国家の破壊、体制の破壊を目指し、大学の解体を叫んだ。日本の学校の頂点に君臨する東京大学に乗り込んで警察官を殺そうとし、校舎に放火し、乱暴狼藉の限りを尽くした。これが、それまで「権威」の鎧で守られていた学校、教師を完全に武装解除してしまったのである。大学全共闘は高校にも波及し、東京都立の進学校、国立の進学校(東京教育大附属駒場など)、私立の進学校(麻布、灘など)にも波及した。進学校での運動は、多くの学生が「将来に障るから」とノンポリ化し、一部の「お馬鹿さん」を除いて急速に沈静化に向かうのだが、その外延に位置する新設校、底辺校にも、違う形で影響していったのが1970年代であり1980年代なのだ。進学校の生徒は「将来に障る」という自制心が強烈に働いたから自浄することが出来たが、新設校や底辺校に通っていた生徒はそうではなかった。もともといやいやながら通学し、授業内容の大半も理解できなかった生徒ばかりだし、そもそも理解しようという動機に欠けた生徒ばかりだった。つまり彼ら彼女らにろくな将来なんか無かったから、自制心を働かせる動機に乏しかった。だから学校を壊し、先生を「センコー」と呼んで投石する全共闘学生は、彼ら彼女らの格好のロールモデルになったのである。底辺校の生徒は全共闘学生の主張や目標なんか、そもそも興味もないし理解も出来ない。彼ら彼女らは、ただ「不満があれば校舎を破壊し教師を罵倒し殴ってもよい」というところだけ、都合よくつまみ食いしたのだ。
それにだ。諏訪は「学校の役目は単に知識を伝授することに留まらない。学校の大きな役目は自然人たる生徒を「公的存在たる生徒=幼児的全能感を打ち砕き、有限な存在として、他者の存在を認めつつ、社会の中における自己を確認できる公的存在としての個人」に仕立て上げることも学校の役目だなどとホザクが、これは事実とは大幅に異なるというのが私の認識だ。そもそも日本社会で「公」が白昼堂々語られるようになったのは90年代も半ばを過ぎたあたりではないか。それまでは学校で公を語ること自体が憚られていなかったか。公=天皇制=国家社会による人民の支配=軍国主義への道という図式が世の中全般を覆っており、学校で日の丸・君が代を掲げ歌うこともタブー視されていなかったか。公とは国家による個人の抑圧、隷属を正当化する手段であり、これを破壊し払拭するまで、日本の明日は来ないんだみたいな議論を日教組サヨクも全共闘の連中は吹聴していたではないか。そのツケが別の形で諏訪らに降り注いだ、ただそれだけのように思う。
もちろん本書が諏訪の思い込みだけで埋め尽くされているわけではない。良いことも書いてある。例えば日本の一部で台頭しつつある「フィンランド教育理想化のウソ」を暴いている点だ。フィンランドの教育は複線型でエリートコースと職業訓練コースに分かれているし、大学はわずか21校しかない。高校は単位制で塾みたいなもので、ホームルームクラスなんか無い。従って集団として規律やマナーなんか学校では教えていない(はずだ)。
それにしてもどうして諏訪はこうも全方位攻撃を仕掛けるのだろう。本書で槍玉に挙げられているのが「他人を見下す若者たち」の著者速水敏彦、大塚英志、水谷修、金八先生、ワタミフードサービスの渡邊美樹社長である。どうして諏訪はこうも他者攻撃が好きなんだろう。ひょっとして諏訪自身が「他人を見下す老人」なのではないか。今や教育評論界のモンスターに諏訪はなってしまった感がある。
8 件中 1 件~ 8 件を表示 |