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本は読んでません。映画を観ました。
映画を置きたかったけど、ない。
だから本で代行。
しかしながら本は1ページも読んでないです。本になっていることをここで知ったくらいです。
映画、観てほしいなあ。じいちゃんばあちゃんの表情をみてほしい。
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岐阜県にある、日本最大級の徳山ダム。
今はその水底に沈む徳山村で、水に沈んでしまうまで徳山村に住むおばぁやおじぃとの生活を綴った本。
村のおばぁたちの元気な事!
おばぁたちの生活が、すっごく素敵で、うらやましくて、きらきらしていたぶん、最後はすごく切なかった。
水も、ガスも、電気も、キュッとひねれば当たり前に使える日本。
その蛇口の向こうに生きていた人たちがいる事、
私たち、ちゃんとみえているだろうか。
発案から、完成するまでに50年もかかるものが、
人や自然に大きな大きな影響と変化を与えるものが、
本当に私たちに必要なのかな。
文明を手に入れた私たちは、本当に進化したの?
私は、
そんなにたくさんのものを傷つけなきゃ得られない便利は、欲しくないよ。
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ここにこそ、人間の営み、生が存在する。
ここにしか、それらはまた存在しない。
大好きな場所を、家を、暮らしを奪われた人の気持ちはどんな風だったかな。
そしてそれを壊しているのは、誰だったかな。
○
山菜取り、食料の保存の仕方、火の付け方など、何も知らず、僕には生活力がなかった。始めて見るものばかりだ、だから飽きなかった。
自分自身の中から、笑いがあふれ出ている。ここが楽しいのだ。もっと村を知りたい、見たいと思い始めるようになった。
ここが楽しくてしようがないのだ。一生懸命食べ物を作って、その仕事を苦にしていない。僕たちの働き方と生き方の違いを、教えられたような気がした。
ひとりのおばさんの人間関係ではなく、徳山村に暮らす人々、それぞれの人間関係の濃さも出ている。そのように生活していかないと、きびしい山での暮らしを乗り越えられないのであろう。
街の暮らしも大変うやっていうことがわかった。
人間がこういうふうにしてしまうで
徳山村には縄文土器がある
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シンプルに、ストレートに、ピュアに、徳山村のコアな暮らしぶりを伝える。
ダムに賛成、反対とかをとりあえず超えているのがよい。
著者がはじめに語るように、まさに村を自身が訪ねているように感じられる、旅したくなる本。
のびやかで、でも時たま力のこもる文章は、写真にも負けずに惹き込んでくる。
良くも悪くも、ダムは、水没する地域の人々にとって、「生活の一部」であると思った。
悪い意味でダムは生活の一部であって、つまり、人々にとってダムのことに向き合うことなくして現在や将来の生活は考えられなくなる。移転後にも周囲の目等がきになる等、やはりダムから逃れられない。
一方、よい意味でダムは生活の「一部」でしかなく、暗い気持ちになることなく、やはり明るく山や畑にむかう人々がいたのだとも気づける。
わりと淡々と村の様子の記述・写真が前半は続くが、後半あたりから、著者大西と村の関係が濃密になり、同時にダムをとりまく状況が進展してくるという、動きのある展開になってくる。
そうした中での、メディアとの関係とか、水資源機構(事業者)との関係なども、臨場感を伝えるポイントである。展覧会を訪れたテレビ局記者を案内したり、湛水スタートでの大勢の記者にむけられた一定の嫌悪感とか、水機構にネガティブな思いを抱きつつもその後関係を築き貯水池内の写真を撮っていたり。
同時に、じじばば達が移転したりこの世を去ったりしていくのも、象徴的な展開。
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徳山村がダムに沈むまでを10年以上かけて記録し続けた本著。本にならなければ人々の記憶から簡単に消えてしまいそうな、村の人々のささやかな日常の記録が、かえってダムに沈んでしまう現実を突きつけてくる。
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水になった村
ダムに沈む村に生き続けたジジババたちの物語
著者 大西暢夫
2008年1月13日発行
情報センター出版局
1998年発行の前作「僕の村の宝物」の加筆版。岐阜県揖斐川の上流、徳山ダム建設により廃村になった徳山村が水没するまで、東京から通って写真、ドキュメンタリー映像を残した写真家で映画監督の著者が文字で記した記録本。もちろん、すばらしい写真も掲載されている。
前作ではすでに移転しているが春から秋まで村に戻って暮らす素朴な人々の様子を紹介していたが、この本では、そうした人々が亡くなった時のこと、そして、水没前の最後の年のこと、だんだんと水没していく様子、などを紹介している。
前作ではあまり触れられなかったダム建設そのものに対する著者の強い疑問も語られている。
また、ダムになって初めて分かったことも。例えば、ダム湖でボートのエンジンが不調になり手こぎでこいだがどうしても流されてしまう。ダム湖になぜ流れが?不思議な話だが、流された線は以前の揖斐川の流れに沿ったものであることが判明した。自然の強さと自分たちの傲慢さを人は初めて知る。
しかし、私がこの本でもっとも感じ入ったのは、やはり人だった。こんなエピソードが紹介されている。
水没が迫り、マスコミの注目を浴び始めた。著者はテレビ取材のヘリに同乗し、初めて上から村を眺めた。大好きな廣瀬ハツヨさんの家が見え、その横に人がいた。ハツヨさんかな、と思い手を振る。むこうも手を振る。でも、僕だということは分かっていないだろうな、と著者は思う。
翌日、ハツヨさんの家に行く。険しい顔をして言った。
「大西さんさ!あんた、ヘリコプターに乗っとたんか」
「そうだよ、手を振っていたのがわかった?」
「わしも乗せてほしかったんじゃ。徳山を上から見るなんてなかなかできんことや、なんで誘ってくれんかったんや。わしは門入に降りて来い!ってそれで手を振っとったんじゃよ」
こんな風に答えたのである。実は、ちゃんと分かっていた、見ていたのだ。
前作の紹介文では、この村の人は閉鎖的どころか初対面の人でも大歓迎するというようなことを書いたが、人のことを信じ、あまり見てないで呑気に受け入れているのかと思えてしまうが、実は違っていたのだ。都会人には想像もできないほど目がよく、観察眼があったのだ。このエピソードを読んで、本当にガツンとやられた思いがした。
**************
「ハツヨさんが昨日の朝、亡くなったと」
ハンドルを握る手に力が入った。前を見て運転しているが呆然とし、風景がなんの力もなく流れている。
「朝十一時五一分だったそうじゃ」とかのさんが言った。
写真展初日。ほぼ始まった時間帯に亡くなったのだ。(243)
(ハツヨさんは)本が出版されても、素直に喜ばなかった。むしろ、なんでわしの写真を表紙になんかしたんや!って逆に文句を言われるほどだった。その時は、ほめてよ!って反論したが、今、ハツヨさんの宝物箱の中に自分の本が入っていたと聞き、生前のあの憎まれ日もすべて水に流れた。(245)
��義治さんが亡くなったことを聞いたのはこの後、しばらくしてのことだった。
移転地の自宅で倒れた。(353)
小西さんの家は、一度は解体したものの再び小さな家を立て直した。その家は寝泊まりできるだけの家でこれといった贅沢な建物ではなかった。(254)
裁判は水機構と被告席に廣瀬司さんと息子の弘さんという嫌な空気だった。裁判所は大垣市。家の取り壊しについて攻め続けられていた。(267)
二〇〇四年十月二十日。廣瀬司さんが永遠の眠りについた。葬式は雨となり移転地で行われた。大きな花輪がずらっと並び、親戚や友人や知人が多く参列した。
「大西さんか、すまんな、遠いところを」
ゆきゑさんが駆け寄ってきた。
「大変でしたね。ゆきゑさん、ご苦労様でした」
「でもじいは、楽に死んでいった。夜中に息が苦しくなって、はあ、はあ、はあって大きく呼吸をしたかと思うとばたって止まってまってな。じいよ― じいよ!って呼んではみたが、もう動くことはなかった。結局この家で死んでまったんや」(272)
「そういえば六十年に一度な、大きな不作があると先祖が言っとった。たしかあれは、還暦になる長男の庄司が生まれた年じゃった。ヒエやアワを親戚にもらいに行くほど何もない年でな。畑の野菜も何一つできん。種芋を植えたら、それまで掘り起こされてしまう始末じゃ。みんな生きるために必死で。栄養不足で死んでまった村人も山手の集落だけで七人もおった。・・・(303-304)
日をあらため、政治郎さんとかのさんで笹竹を採りに出かけた。場所は塚集落があった近くだ。笹竹は一番最後の山菜の収穫になる。これが終われば梅雨に入る。(308)
しかし今年は何もかも不作の年で少ないのだろう。一時間ほどで(トチの)実をすべて取り終えた。(320)
僕たちの暮らしの中で、ここまで食べることに時間をかけることがあるだろうか。(321)
僕も気になリゲートを見た。するとゆっくりゆっくりとゲートが降りてゆく。諫早干拓の「ギロチン」をイメージしていたから、その速度はきっと絵にはならなかっただろう。(332-333)
T シャツとパンツ一枚になり、水の中に入った。
「無理しないでくださいよ。危ないですから」
水機構の職員が心配そうに声をかけてきた。
徳山村商工会、西濃信用金庫、パチンコ公楽…………。太陽が水面に反射し、きれいだった。(337)
「昔のストーブでマッチでつけられて、そしてやかんをのせられる物はここにはないのか?」
売れ筋の物でない、そのストーブを案内するは員の姿がおもしろかった。
「そうじゃ、そうじゃ、これこれ。これが一番よくわかっていい。ピッピと者の鳴るものはあかん!ようわからんで」(355)
ダムの問題は、環境のことや水の需要や猛禽類だけではない。ダム御殿といった差別の言葉は、当たり前に今も生きている。それは事実を知らないことから生まれた言葉で、ダムの水を使う僕たちがもっと知っておかなくてはならない常識だと僕は思っている。
徳山村の暮らし方にかなりの影響を受けた僕は、自宅近くで畑を借り、野菜を自給し始めた。作り方を教わったわけではないが、自分で暮らしてゆくたくましさやその考え方に影響を受けたのだ。簡易的ないろりも作り火が毎日でも使えるようにした。
それまで僕の暮らし方には四季がなかった。その暮らしのリズムが畑のお陰で最近整い始めた。それは種まきの時期であったり、干し柿を作らなくてはならなかったり、梅干しを作らなくてはならなかったり。みそも…………。それはめんどくさいことだった。(359)
増山たづ子さんも自宅のこたつの中で倒れ亡くなった。(364)
「先日、徳山で驚いたことがあったんや。仕事でダム湖をボートで移動しとるときに起こった話や。ボートのエンジンがかからんようになってな。水機構の船着き場に漂着してしまうと怒られてまうで、そこに着かんように、みんなで一生懸命手で漕いどったんや。そしたらな、ボートがどうしてか流されてまうんや。湖になってまって、波もほとんどないのに、なんで流されてまうんやろって、不思議に思とった。その流れに逆らえんほどきついんや。いつもエンジンがかかっとるで気づきもしんかったが、結局、水機構の船着き場についてまってな。これはしかられるって思ったんやが、後で気づいたんや。その流れはな、徳山の中心を流れとった揖斐川の流れに沿ったもんやったんや」
僕はその話に鳥肌がたった。(366-367)
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岐阜県徳山村。小学2年生の時、まだ廃村前の村を訪れたことがある。2002年ごろはダム完成直前、翌年の湛水直後、ダム運用開始後など何度か足を運んだ場所なので、感慨深い。
後年、その下流で国体が開催されカヌーコースができ、時折遊びに行くことになるとは、不思議な縁を感じる。
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