紙の本
自分の目で過去を見、自分の頭で歴史を考えるために
2008/08/06 20:41
22人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史学は何のためにあるのだろうか。現在の自分の位置を客観的に見るためにある。しかし逆に、現在の自分の位置から見える歴史もたえず揺れ動いている。新しい史料の発見や考古学的な成果によって過去が見直されることもあるが、と同時に、今を生きる人間の考え方が変化したがために過去も変化する場合がある。典型的なのは、近年のいわゆるポストコロニアリズムによる歴史の見直しであろう。欧米によるアジアやアフリカの植民地化が「非文明地域を文明化する行為」として正当化された欧米中心史観は、いまや通用しなくなっている。ところが日本では専門的な歴史学者にまだまだ左翼的な体質が色濃く残っているせいか、その種の歴史の見直しを「歴史修正主義」などと称して非難する人が少なくない。特に不思議なのは、ポストコロニアリズムは19世紀から20世紀半ばにかけての欧米中心的な世界秩序を現在の目から批判する態度から生まれ、またそうした批判的態度を育成してきたのに、日本の歴史学者はなぜか昭和初期の日本とアジアとの関係などに限定して、つまり日本の対アジア戦略を批判するためにだけポストコロニアリズムを用い、欧米の対日戦略についてはポストコロニアリズム以前の思考法に終始する場合が珍しくないことだ。
こうした旧弊な歴史観に異議を唱え続けてきた人に西尾幹二氏がいる。西尾氏の専門は歴史学ではなくドイツ文学であるが、そうであるがためにかえって歴史学者の狭い専門性――師の意向に従わないと専門家として認められない――を脱し、広く柔軟な視点で物事を考えることが可能になっている。或いは、西尾氏の専門とするニーチェが最初は古典文献学(実証的歴史学の親戚のような学問)の教授としての道を歩みながら、やがてそこから脱して歴史主義批判を敢行したことにも関係しているかも知れない。ここで言う歴史主義とはマルクス主義のような「歴史は一定方向に進歩する」という見方ではなく、ランケに代表されるような、各時代は各時代ごとの真実を持つという考え方である。ニーチェはそうして過去への「理解」に終始する態度が今現在の人間の生き方を弱らせるとして痛罵した。一見するとニーチェの批判は西尾氏の言論活動の逆のように見えるかも知れない。しかし歴史を見るとは現在の基準で過去を裁くことではなく、その時代の人々がどういう考え方のもとに生きていたかを再現することだという西尾氏の主張は、歴史観が国際政治のみならず内政にも影響を及ぼす昨今の風潮と深くつながっている。かつての日本人がどういうふうに世界を見ていたかを知ることは、今現在われわれが世界をどう認識すべきかという問いに直結するのであって、誤った歴史観のもとに生きるならばそれは現代人の自発性をすら損なうことになるからである。
前置きが長くなりすぎたが、西尾氏がまた注目すべき本を出した。第二次大戦後に日本を占領したGHQが日本人に読ませまいとした書物をリストアップし、そこから何が見えてくるか、つまりGHQが日本人に押しつけようとした歴史観がいかなるものであったのかを明らかにしようとする試みである。
と書くと、戦時中の狂信的な「鬼畜米英」的な本ばかりを再読したものと思う人もいるだろうが、そうした人は先入観を捨てていただきたい。GHQに「焚書」された本の中にはたしかにその手のヒステリックな本も少なくないが、西尾氏は冷静に事実や国際戦略を叙述する本だけを選んでおり、そこから意外な視野が開けてくることは間違いないからだ。
一例を挙げよう。オーストラリアの位置である。この国が長らく白豪主義、つまり白人中心的な政策をとってきた事実は知っている人も多かろう。しかしそれが単なる原住民抑圧政策と言うにとどまらず、20ないし100万人いたと推測される原住民の大虐殺――その結果2万人しか残らなかった――でもあった事実を知っている人がどの程度いるだろうか。そこから、インディアンを虐殺して建国を進めたアメリカとの類似性がまず見えてくる。そればかりではない。オーストラリアは日本の南進政策を恐れていた。と書くと、これまた侵略的な日本にやられることを恐れたと思う人もいるかも知れないが、そうではない。オーストラリアはニューギニアを領土にしようともくろむなど、ヨーロッパ植民地主義の体質を持っていた。第一次大戦で日本が(日英同盟により連合国側に味方して)中国大陸のドイツ領である青島を攻めた際には、その勢いで日本がさらに南下してくるのではないかと恐れたのである。そうした日本恐怖症の体質を持つオーストラリアが、英国とアメリカの結節点となり日本を封じ込めつつ第二次大戦に至った過程については、本書をお読みいただきたい。
もう一つ例を挙げるなら、真珠湾攻撃についてアメリカ人の書いた本が取り上げられている。驚くべきことだが、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃を考察した英語の本が、昭和18年4月に邦訳出版されているのである。アメリカ側が真珠湾攻撃をどう受け取ったかを、一部の専門家のみならず一般の日本人が知ることができたという事実は、戦時中の日本の知的環境が決して盲目的なものではなかったことを示している。
最後に、GHQによる焚書に東京大学の学者が協力したらしい事実をも西尾氏は明らかにしている。「アメリカの占領政策に無抵抗でいちばん脆かったのは、残念ながら指導階級ではなかったかと思います。ことに知識人、学者や言論人といった知的指導階級の弱さは恥ずかしいばかりです」と氏は書いている。そうした流れは、アメリカの新自由主義に盲目的に従う現代日本人に連なっていよう。西尾氏の書物には、他者に従属することなく絶えず自分の頭で物事を考える真正な知識人としての精神が息づいている。欧米中心史観の奴隷になりたくない日本人はまず西尾氏の本を熟読すべきであろう。
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本書の特徴、目的と思われる事項を最初に述べておきたい。
本書は大東亜戦争後の米占領軍によって日本国内に流通していた数多の出版物のうちの、占領政策の障害になると判断された出版物(主に、防衛関係や日本の精神文化に関連する書物、白人に不都合な真実が記述された物や政治的な物等々、7769種)が焚書(※1)された事実を日本国民に広く再認識してもらう事が大目的の一つ。
そして、この目的は何の為に為されるかというと、戦前から戦後にかけての日本民族の思想や歴史、思考過程の連続の断絶を埋め合わせて連続性を取り戻す事を、本書読者やこの事実に触れた人々を皮切として、多数の国民と共に目指すことが大目的の二つ目。
さらに、この「連続」なるものを何ゆえ意識するかというと、著者の現在から将来にかけての日本に対する憂い、心配、思いが錯綜する。今後日本が外圧に屈することなく自主独立を維持し、伝統文化を保持し発展していくには、歴史の連続性の再認識が必要不可欠であり、この観点からも、消された事実を掘り起こして歴史を再認識すべきという持論がある。
※1 焚書: 焚書といえば、通常は対象書物の存在そのものを完全にこの世から抹殺する行為を連想するかもしれない。しかし、GHQの行った焚書は、対象書物を一般流通過程から抹殺する行為に留まっており、一般家庭にすでに販売されてしまったものの強制回収や、図書館に収蔵されたものの抹殺は行われ無かった。故に、このような焚書開封が専門家によって可能なのである。このような焚書方式は、表向きは「民主主義、言論・出版の自由」を標榜する占領軍の苦渋の選択だったと推察されるが、このような緩やかな焚書方式でも一般大衆が耳目にする機会を奪うには十分すぎるほどの効果を出したことは歴史が証明している。またサヨクの捏造歪曲偏向史観を間接的に擁護する結果にもなっている。
「GHQ焚書図書開封」は現在第四巻まで刊行されているが、本書は第一巻目である。最初に「GHQ焚書図書」とは何か?を説明し、続いて焚書図書を一部具体的に紹介していく展開となっている。大雑把に言えば、焚書図書紹介部分以降は、著者による焚書図書のやや詳しい書評といった感がある。
本書で紹介されている焚書図書は、戦記物や諸外国の歴史・政治事情を記した物等があるが、これらを読むと当時の日本人がいかに感じ、思考し、物事をどのように捉え、どのような常識をもって観察していたか等等がひしひしと伝わってきます。
焚書図書の紹介は、原文そのままの引用、著者による解釈・説明、が交互に記述されていく形式となっています。
尚、あえて付記しておくと、本書は「歴史事実」の分析書の類ではありません。焚書図書を再発見し、当時の日本人の物事の捉え方や思考・思想等に接して研究することに重点があると判断されます。ゆえに文章の記述に、著者の推論による断定的な記述、主張が散見されますが、本書の目的を考えれば特に問題はないと思われます。
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帯文:"7000冊以上の焚書によって生じた日本現代史の巨大な空白をどう埋めるのか"
目次:第1章 「GHQ焚書図書」とは何か、第2章 占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従、第3章 一兵士の体験した南京陥落、第4章 太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった、第5章 正面の敵はじつはイギリスだった、第6章 アジアの南半球に見る人種戦争の原型、…他
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フォトリーディング。戦後GHQがした陰湿な(人知れず洗脳すると言う意味の)焚書についてと、実際に焚書された本の内容を引用しながら解説する本。とても良い本を焚書しているように感じた。以後、高速を交えて熟読する。
読了。
日本人を元気にさせないための米国の戦いは戦後も続いていたと知った。
また意外にも大東亜がイギリスの弱体化を米国が危機に感じ、日本に対する封じ込めをしたことによると知った。それと、オーストラリアが反日的であると分かった。かの国は日清日露以後の米国の日本に対する感情のようなものを自分たちも持ち、また南太平洋に対する帝国主義的な領土野心を日本人が砕いたことに対する恨みのようなものから日本人を毛嫌いしているのだろうことも知った。
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オーストラリア、カナダ、アメリカ、この三国の先祖が、イギリスの犯罪者たちの移民だったとは、知らなかったなあ。
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中国を見抜いた戦前の日本、とあり気になって読んでみたら面白い。
まだ初めのほうしか読めてないが、戦前の日本が中国人の国民性を調査した報告として、80代まで機会を待った太公望の話や、憤死という概念など、表面的な内容よりも本質的なところを論じていて、どこまで調べてんだ日本諜報部は・・・と思った。
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7769点あると言われているGHQの焚書、戦後は読めなかった本を紹介。日本人をコントロールするという意味では非常に大きな意味を持っていた。新聞、ラジオ等のメディアも当然、検閲にかけられていた。現在の当たり前と思われている日本人の考え方に疑問を持ってしまう。憲法9条、集団的自衛権についての半数以上の日本人の考え方はこの教育によるものが大きい。
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衝撃的な一冊。
日本の敗戦時、物理的、肉体的に占領されただけではなく、それまで日本人が得ていた考え、知識まで、焚書と言う形でGHQに捨てさせられていたという事実。
なかには戦争感情を煽るだけの書もあったかもしれないが、世界を(当時)新興国日本からの視線で冷静に分析したような良書もあったはず。
アメリカの日本に対する知識層への、究極のホロコースト、ジェノサイドと言っても過言ではない。
続巻が出てるようなので、これは読まなくてはいけない。
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今までの認識が変化する。勿論、何も知らなかった訳では無いが、戦前の書に触れねば理解できぬ当時の情景があり、しかし、その語り部であるべき本は、GHQに焚書されてしまっていた。それを再発掘して日を当てようという試み。ワクワクする読書だ。
ただ、残念ながら、恐らく焚書されなくとも、戦後の日本では、これらの本は次第に消えていった事が予想される。WGIPの効力か、単なる厭戦ムードか、敗戦した事への軍部への不信、あるいは、経済的余裕(豊かになった事も、戦後の貧困状態も)は、これらの本から自発的に遠ざける要因になっただろう。戦前には、逆に軍部の検閲もあった。戦意高揚への利用という視点での、きな臭さもある。やはり、焚書は完璧ではなく、焚書したはずの本は戦後も一部で売られ続けていたと本著は白状する。返本する事への補償が政府から無かったから、本屋は背に腹を変えられず。経済的理由からも従う訳にはいかなかった。
アメリカ軍は歴史書や思想書を「宣伝用刊行物」として焚書。その数7769点。選別作業には東京大学も協力した。本著は、その中から、戦前の雰囲気を伝えるに有効な数冊を紹介する。
第二次世界大戦前の日本はアメリカよりもイギリスを意識していた。昭和14年から16年にかけて、世界創造者と言う出版社から戦争文化叢書と題したシリーズ本35冊刊行、これが全て焚書扱いたが、その多くがイギリスについての図書であったようだ。
イギリスから、1717年からアメリカ独立戦争当時まで約5万人の囚人がアメリカに送られていた。しかしアメリカが独立するとこのやり方を続けることができない。同じタイミングで同国ピット内閣が選んだのがオーストラリア。オーストラリアが囚人の捨て場だった事は有名だろう。イギリスだけでは無い。ニューカレドニアはフランスの囚人の捨て場だった。こうした南太平洋の陣取り合戦にドイツが参戦。オランダ領のニューギニア。第二次世界大戦の遠因。この領地争いに、アメリカは、南北戦争で出遅れている。
尚、焚書の目的の一つは、アングロサクソンによるオーストラリア、タスマニア民族のホロコースト。第二次世界大戦の二大メルクマールは、アウシュビッツと核兵器だと著者は言う。焚書するからには、何かを訂正したかったはず。それが何か。一冊だけでは終わらぬ開封に、続編を期待する。