投稿元:
レビューを見る
久世小説のすべては最初の一文じゃないだろうか。
嗅覚視覚をもってゆかれ、あっという間に世界へ連れて行かれてしまう。
投稿元:
レビューを見る
久世さんの最期の本。
あと80枚を残して、未完のまま終わっている。
大正から昭和にかけて執筆していた内田百けんという
小説家と、その人の小説を摩訶不思議に描き出した作品。
思えば、この前読んだ「死のある風景」でも内田百けんを
取り上げた短編はいくつかあり、それはもれなくこれに
繋がっているようだ。それどころか、さらに前に読んだ
「あべこべ」にも少し繋がっていると思う。
ちょっと「死のある風景」を読み返してみると、
その共通したエピソードは「サラサーテの盤」にあるようだ。
きっとこのエピソードに久世さんはゾッとするものを
強く感じたのに違いない。
久世さんのある一定の世界観に向けられるイメージが、
内田百けんの書く小説とだぶって見える。
シンクロすればこその、この奇妙で滑稽な物語だと思う。
最後まで読みたかったな。
投稿元:
レビューを見る
タイトル通り(このタイトル好きだなぁ)内田百閒の小説である。小田原の経国寺の仏具小屋に身を寄せる百閒先生の創作と日常を、寺の小坊主果林の視点で描いている。
告白すると、私は内田百閒の作品を読んだことがない。たぶん。せめてこの作品の鍵となる「冥途」や「サラサーテの盤」くらい読んでからこの感想を書こうと思ったのだが、いつになるか分からないのでもう書いてしまう。
偏屈で人嫌いの百閒先生が果林の批評だけは甘んじて受け入れているのがおかしい。親子のような恋人のような、不思議な関係である。解説がいうように作者が果林に自己投影しているとするなら、果林の百閒先生への少し曲がった思慕や敬愛も一層深い意味を持つ。
漱石の「明暗」が未完であっても何とも思わないが、本書が未完なのは甚だ残念。
投稿元:
レビューを見る
1/23 読了。
借金取りと妻および妾から逃げるように小田原へやってきて寺の一角で暮らし始めた内田百閒。部屋に原稿用紙を散乱させ、筋の有るようで無い、支離滅裂な夢をそのまま書き写したような話を書いている。行き詰まると、住職より百閒の世話を仰せつかった小坊主の果林に手を引かれて、色街へいく。花の名がついた女たちと戯れ、熱い狐饂飩をすすり、浮浪者の竹さんと文学談義をしたりもする。百閒の猶予期間を描いた小説であり、久世光彦最後の作品。未完。
『一九三四年冬ー乱歩』と似た構成。時代設定を作家の空白期間に置き、作中作のパスティーシュ小説が大きな役割を果たしている。テーマは老境の生と性。それを必要以上に生々しくなく、トボけたように、しかし物悲しい風情で語るには、百閒がぴったりなのだろう。作中で、百閒は黄色が好きで、それはあの世とこの世のあわいの色だからだ、と語られる箇所があるが、そういう「乾いた黄色の風情」が全編を覆っている。
『乱歩』の作中作パスティーシュ「梔子姫」も素晴らしかったが、今作の『冥途』を下敷きにした短編たちの出来もすごい。小説とそれが書かれる背景としての日常を交互に描き、繋ぎ合わせるという構成を持ちながら、楽屋落ちにはせず日常側にも<不思議>を匂わせるのが手練れの仕業である。辻原登の『遊動亭円木』に近いものを感じた。
投稿元:
レビューを見る
「百閒先生 月を踏む」大分の図書館で読んで、引っ越しして、また読みたくなって買った本。とても好み。
『世の中に 人のくるこそ嬉しけれ とは言ふものののおまへではなし』←百閒先生センセイの玄関に貼ってある札w
投稿元:
レビューを見る
今回は内田百閒のおはなしであり、久世光彦、未完の遺作。
実際に〈未完〉て書かれてるの意識したの、初めてかも分からんな…。
ある意味道半ばで、だけどあらゆることをやりきって一生を終えた人だったんだろうなあ。