紙の本
高利貸にも美学がある
2019/12/15 10:25
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間喜劇のあちこちに姿を見せるゴプセック(その娘のエステルも後期の傑作『娼婦の栄光と悲惨』で重要な役割を演じる)。この中篇はその高利貸を主人公に据えていて、意外に人間的な面を覗かせる(人間的、というのは、ひとつの高利貸という職業的な機能を体現しているだけではない、という意味で、情け深いとかいう意味ではない)。その彼にも論理があり、ある種の美学のようなものさえ持っていると感じる。そうしたことが若者の視点で描写されるものの、堕落した貴婦人の今わの際にある夫の遺産への執着は鬼神のごとくでいっそう凄まじい。金銭欲の怪物と言われた老ゴプセックが、夫の臨終の間際に演じられる修羅場の前では色褪せるほど。バルザックの面目躍如の傑作。もうひとつの『毬打つ猫の店』は既読。ちなみに水声社の訳よりもこなれているように感じた。
紙の本
バルザックは偉大だった、あらためてそれを教えてくれます。なによりものの見方が現実的で、お金に対する見方もたんなる綺麗事には終わりません。読み物として出来がいいから今読んでも少しも古びない。それにこの文庫版、解説がいいです。これだけでも論文が書けちゃうかも・・・
2009/08/15 18:05
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
本には表題の二作品が収められています。目次を紹介がてら簡単に内容を書けば
・ゴプセック:結婚相手の資産状態に疑問を抱く人間に、相手が決してそういった人間ではない、むしろ裕福な人間であるということを、高利貸しゴプセックと貴族の乱れた恋愛模様から説きおこしていきます。
・毬打つ猫の店:ただまじめに慎ましく暮らす商家の二人の娘、一人は出遅れ気味の魅力はないけれど実直な長女、一人は何も知らない美人の次女、彼女たち二人をめぐる男たちの思いと、姉妹の運命を分けた結婚についてのお話。
訳注
化石と手形 バルザック的創造への道案内として 芳川泰久
となります。で、最後にある芳川泰久の「化石と手形 バルザック的創造への道案内として」という解説が、実に上手にバルザック、あるいは今回のに作品についてまとめているので、分量はそこそこありますが、是非読んで見てください。あまり本筋には関係ないのですが、私がこの解説文で思わず肯いてしまったのが、
*
本文中の挿絵・扉絵は、七一頁のゴプセックの版画については Le club fran?asis du livre 版全集に、その他の版画はすべて Club de l'Honnete homme 版全集に依りました。
*
と書いてあるところです。本来ならばこういう記述は、目次の後ろあたりに出版社が入れるものだと思います。私は銅版画の頁にぶつかるたびに「また岩波はこういうものの来歴を記載しないつもりなんだろうか?」と思いながら、本のあちこちを探してしまいました。出版社の手抜きを訳者があとがきで補っている、そういう感じがします。
で、お話の内容に戻りますが、一時代前は芸術家は貧乏と決まっていたのに、洋の東西を問わず、彼らと結婚すれば楽に暮らして行けると思う資産家がそれなりにいたというのが不思議です。太宰治に関する本を読んでいると、どうしてこんな男に資産家が娘をやるかな? なんていう場面にぶつかります。惚れてくっつくならともかく、作家だから、という理由で娘を差し出すなんて、変!
無論、頂点に立つような芸術家たちは違うのでしょう。大学の教授となって国に抱えられ、暮らしは安泰というのはよくある話。作家だって、一握りの人気作家は常にいて、彼らの暮らしぶりも立派です。でも、そうでない限りは決して豊かではありません。ですからお金持ちになりたい、だから芸術家と結婚したい、とはなりません。
むしろ、人柄に惹かれるとか、その才能に魅せられるとか、そういうところから結ばれる。それが自然だと思います。でも、このお話はそうじゃない、それが案外、今、楽しく読める理由かもしれません。
それとバルザックのお金に対する見方がいいです。お金=汚い、とはなりません。高利貸しゴプセックの死の後の様子の描写から感じられるのは、なにより慈しみです。むしろ、努力しようとせず他人のお金を騙し取ろうとする貴族や、それに集る輩に対する視線のほうがよほど厳しい。どうでしょう、そういうあり方は『グレイト・ギャッツビー』を描いたフィッツ・ジェラルドなんかより遥かに健全だと思うんですが・・・
最後はデータ篇。カバー折り返しの言葉は
巨万の富を握り、社会を裏で牛耳る高利貸、
その目に映った貴族社会の頽廃。天使のよう
な美貌で、天才画家に見初められた商人の娘
の苦悩。私生活に隠された秘密、金銭がつな
ぐ物語の構造。斬新な視点が作家バルザック
の地位を築いた『私生活情景』の二作。
です。カバーは、もちろん中野達彦。
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高利貸しから見た貴族階級の破滅を描いた『ゴプセック』。
これはもうこれでもかというくらいバルザック的な小説で、大変俺好み。偏屈な高利貸しのゴプセック爺さんは、彼なりの哲学を持っていて、最後の最後までそれを貫き通す。この中心人物の造形のおかげで、醜い金がらみの話に卑しさを感じさせない仕上がりになっているのがいい感じ。ちなみに『ゴリオ爺さん』となかなか密接な関係にあるので、ゴリオを読んだことあると思わずニヤリとするシーンが結構ある。★★★★★
『毬打つ猫の店』
慎ましく育てられた商人の娘と、貴族の息子で芸術家の男との、身分違いの結婚の悲劇。
「人間喜劇」シリーズの巻頭に据え付けられる作品だけに、登場人物も話の筋もステレオタイプっちゃあステレオタイプ。もっと話を広げようと思えば広げられる作品だけに(脇役のエピソードを掘り下げれば文庫2冊は軽い気がする)、本当にバルザック理解の基礎になる作品かも。★★★
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やっぱりバルザックはこうでないと、という感じの作品。
特に『鞠打つ猫の店』は最初は一見普通の恋愛小説だけれど、後半からは全く異なった様相を呈してきて、非常にスリリングで面白かった。
登場人物たちの微妙なすれ違い具合が絶妙。
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『毬打つ猫の店』 1829年・・・風俗研究
『毬打つ猫の店』は、バルザックの風俗研究の1番目の作品である。すなわち、人間喜劇のなかの最初の作品なのだ。
もっとも、バルザックが構想した人間喜劇の当初の案では、4番目に位置する予定の作品であった。
現行の人間喜劇は、総序を含め90篇なので、未完作品や構想のみの作品たちは、バルザック逝去により日の目を見ることがなかった。
そういう事情で『毬打つ猫の店』が、人間喜劇の第一番目の作品となったわけで、人間喜劇を読む身としては特別の感情を抱いてしまう。
今回、岩波文庫より、『ゴプセック 毬打つ猫の店』が発刊されたのは嬉しいニュースだった。
『ゴプセック』は、以前に読み、こちらに(←クリックするとリンクしています)すでに書評を書いたので、今回は、『毬打つ猫の店』について書きます。
まず、『毬打つ猫の店』という店のネーミングはとても面白い。
でも、ヨーロッパにはこのようなユニークな名前の店は結構あって、たとえば、サン・ジェルマン・デ・プレでお馴染みのドゥ・マゴは、2つの人形という意味だし、ヴィクトル・ユゴー広場の近くにあるプティ・バトーは、小さな船という意味なのに、子供服のお店。
バルザックもほかにも「糸を紡ぐ雌豚」や「緑の猿」という店の紹介をしている。
『毬打つ猫の店』は、布地を売る老舗である。この店は、老朽化した建物にあり、後ろ足で立ち上がり大きなラケットを握る猫の絵の看板があった。
店主はギョームという名で、先代から娘と共にこの店を貰い、堅実に切り盛りしてきた実直な男である。
彼には、二人の娘があり、二人とも商人の娘らしく本は殆ど読まないが、家事を完璧にこなし、倹約家で、慎ましかった。
彼女たちの愉しみは、内輪で開かれるささやかな集まりで、そこには香水商のセザール・ビロトー(のちに判事となり勲章を受けるが破産 『セザール・ビロトー』に彼の晩年までが描かれている)などが訪れた。
ギョームは、数人の店員を雇っていたが、その中で、ルバという男と長女を結婚させ、店を継がせる心積もりであった。
そのことをルバに伝えると、ルバは喜んだが、失望もした。なぜなら、ルバが好いているのは長女ではなく、次女の方だったから。
よくある話である。
長女より美しい次女を恋していたのはルバだけではなかった。
ある若者が次女を見初めていた。若者は画家であった。家もろとも美しい娘を描き、その絵は評価された。
若者の名はテオドール・ド・ソメルヴュー。名の表すとおり貴族である。
斯くして、長女はルバと、次女はテオドール・ド・ソメルヴューと結婚し、ソメルヴュー男爵夫人となった。
めでたしめでたしかと思いきや、バルザックの小説の幕はここから開く。
男爵夫妻は、純粋に燃え上がる1年間をこの上ない愛のもたらす恍惚と陶酔の中に終えた。
そして、1年後、この商人の娘は貴族の夫に飽きられてしまう。
教養がなく、社交界の礼儀作法も知らない妻の言動は、貴族の夫の虚栄を甚だしく傷つけることになってしまったのだ。
彼女は学ぶすべを知らず、ただ忍耐強く従順で献身的な愛により、再び夫の愛を取り戻せると思っていたが、無理であった。
しかし、この商人の娘は驚くべき手段に出る。
夫が夢中になっているカリリャーノ公爵夫人の元へ乗り込んだのだ。
カリリャーノ公爵夫人は、最も洒落たパリの女性のひとりであり、彼女が開いた舞踏会は話題となる。『ペール・ゴリオ』にもこの様子が描かれている。
訪ねたカリリャーノ公爵夫人の家にはデグルモン大佐がいた。公爵夫人にとって、男心を手玉にとるのは簡単なこと。
男は入れ替わりながら公爵夫人の戯れの相手となる。
面白いのは、このカリリャーノ公爵夫人と商人の娘とのやりとりである。
正直に自分の辛い身の上を語り涙する娘と、酸いも甘いも噛み分けた公爵夫人との会話は、夫のテオドールと同じように、彼女と違う世界に住んでいるということを感じてしまう。
商人の娘は、夫の愛を取り戻そうとしたが、果たせず27歳の若さで亡くなった。
一方、長女夫妻は、情熱的とか甘美とかそういう表現の日常はないものの堅実に店を切り盛りし、のちにルバは、裁判所の判事にも任命され、苦楽を共にした妻と添い遂げる。
この小説は、アフォリズム的要素が濃い作品だと感じる。
若い時の愛が、麻疹のごとき特徴を持っているということ。
生れや価値観の違いは、乗り越えがたき障壁になりうるということ。
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「ゴプセック」 けっこうどっぷりはまった。ゴプセックのセリフがしびれる。「詩を出版する人間だけが詩人だとでも考えているのかね」 世間の何者にも関心がなさそうなのに、発せられる言葉はなかなかきらびやかである。全文引用したいぐらいだ。名言集が作れそう。
昔はバルザックは「ふーん」という感じで宿題のように読んでいたけど、なぜか今回は沁みる。日常の中の仕事の話や、金の話に実感が湧くからというのもあるのかもしれない。「棚卸し」とか微妙に反応する(笑)。人物の観察、かちっとした比喩の豊富さが素晴らしいけれど「請求書」のような無味乾燥なものにまで、バルザックフィルターがかかってありありと見えてくるような気がする。
「毬打つ猫の店」の風景描写もなんかよかった。もともとスケッチのような題名がついていたらしいのは納得。視点の変わり方もなかなかよい。がっしりした古典名作を読んだな~という気分。
バルザックってかなりいろんな事が見えていた作家、という気がする。「プライバシー」に関する芳川泰久さんの引用や知見も面白かった。
落ち着いたワインレッドの表紙デザインもなかなかいい。
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19世紀フランスの作家バルザックが1830年に刊行した『私生活情景』からの二編。のちの『人間喜劇』では「風俗研究/私生活情景」に位置づけられる。解説によると、フランス革命によって人民に祝祭的空間として解放された街路が、ナポレオン帝政下に於いて官僚機構により管理され、警察機構の監視体制のもとに置かれることになると、そうした社会情況と軌を一にして私的空間が発達し、「私生活」という場面の切り取り方が可能になったという。
ここに描かれている「私生活」の姿は、その時代精神に相応しく余りに即物的で、美も幻滅と倦怠を経てそのガラクタの中に投げ捨てられる。
「ゴプセック」(1830)
『ゴリオ爺さん』のいわば後日談のような形になっているが、執筆時期は『ゴプセック』のほうが先である。『ゴプセック』には『ゴリオ爺さん』の登場人物が予め名前を出しており、またゴプセックも『ゴリオ爺さん』の中で名前だけ"再登場"している。
即物とは、何物かに超越していくことはない、常に内実無き自らの内に還っていくだけだ。何らの屈折も経ず、何らの屈託も無く。意識されざる即自であれ、対自ののちの居直りであれ、平板愚鈍な自己肯定とともに。
「この世には一定不変のものなど何もない、・・・。やむを得ず社会の鋳型という鋳型に自らを流し込んできた人間には、信念も道徳ももはや価値のないお題目にすぎないのさ。あとに残るものといえば、自然がわれわれに与えてくれた唯一ほんとうの感情、つまり自己保存の本能さ。きみたちヨーロッパの社会では、この本能は〈個人的利害〉と呼ばれている。・・・、ひとりの男がかかわるに足る確かな価値のあるただ一つのものとは何か・・・、それは、金さ」
「わし同様、仲間の連中もみなすべてを享受し、すべてを堪能し、いまや権力と金を、権力と金それ自身のためにしか愛さないようになっている」
「わしの金はすべて誰のもとに行くんだい」
「毬打つ猫の店」(1829)
芸術家という〈主体〉の傲慢、美という〈客体〉の悲哀。幸福な愛情の内に於ける陶酔的合一の束の間が過ぎ、主-格が分離してしまったのちに現れる倦怠と哀れ。あとに残るのは、虚栄と打算と欺瞞。
「わたくしたち女性は、天才を称賛すべきですし、見せ物を楽しむように彼らを楽しむべきです。でも、一緒に暮らすなんて! 断じていけません。なんてことでしょう! オペラ座に来ているのに、桟敷席を離れて、舞台装置を眺めて楽しもうとするようなものです、そうした装置のもたらす見事な現実感を味わおうとするようなものです」
ここにある【美】への視線はアイロニカルであるよりもシニカルであり、殆ど虚栄という無意味に堕している。
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ゴプセックは面白かった。人間の欲望やゴリオ爺さんその後がわかって。
だけど、猫の方は駄作?どこがいいのかわからなかった。
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バルザックの中編二作ですね。
「ゴプセック」は貴族の夫人の不倫話から高利貸しのゴプセックの立身出世の話に展開していく私生活を描いた作品です。
「毬を打つ猫の店」は化石のように頑なに昔流儀に拘る商社の一族の物語。娘と恋人の画家の切ない物語も絡めてフランスの市民生活を描いた作品です。
「毬を打つ猫」というのは、テニスをする猫が店の看板に描かれているのが、店の名前に成っているのですね。
バルザックは私生活を小説の題材に選んで、この分野の歴史を作り上げることに成功しました。
「ゴプセック」は次の作品の「ゴリオ爺さん」、「幻滅」、「娼婦の栄光と悲惨」に続く最初の小説ですね。
バルザックは作品集『人間喜劇』の最初の作品に「ゴプセック」と「毬を打つ猫の店」を選んでいます。バルザックにとっても重要な作品だということですね。
なかなか読み辛い作品ですが、人間模様を読み取れる作品だと思います。歴史背景の知識吸収にもなりますね。