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「・・・人間の内心には如何に多くの薄情なものがあり、洗練された教養ある如才なさの中に、しかも、ああ!世間で上品な清廉の士とみなされているような人間の内部にすら、如何に多くの凶悪な野性が潜んでいるかをみて、彼は戦慄を禁じえなかったものである・・・」
別の本で、「everyone came out of Gogol's Overcoat」っていうセリフがあって。どういう意味かと気になって、読んでみた。
基本的にロシア文学は弱者へのまなざしにあふれてるのが特徴的だけど、これもまた然り。
どんないらんように扱われてる人も、彼なりにリズムを持って、必然としてそこにいるんですよと言われてる気がする。彼がいなくなれば、そこに空虚な穴があくんですよと。
変に憐れむわけでもなく、安っぽい救済を用意するでもなく、まなざしを向けるだけ。
そのまなざしを持てるか持てないかで、人間、結構変わりますね。
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この装丁ぴったりすぎて素敵すぎ!
ドストエフスキーに「我々は皆、ゴーゴリの外套の中から出てきた」と言わせたこの物語を、特にジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」を読んでからずーっと読んでみたくてたまらなかったのでようやく読めて嬉しいです。
不幸せな条件をたくさん持ってるのに静かに自分だけの幸せをそっと守っていてそれほど不幸じゃない主人公。それが大きな幸せを手にしたとたん今までの生活が少し崩れて、それを失ってしまったらもう絶望しかない。真っ黒に沈んでくような表紙の絵が物語をすごく良く表してると思います。
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ペテルブルクの厳冬下、下級役人・アカーキーは外套を新調することにした。生活を切り詰めてやっと手にした新しい外套。祝いの席の帰り、暴漢に襲われ奪われてしまう。役人に被害を訴えに行くが、無碍にされ、失意のうちに亡くなったアカーキーは、外套を求める幽霊になり街に現れる。
ロシアの役人の不親切さがよく描写されています(苦笑)留学前に読んで心構えをしておくべきだったな。
挿画はノルシュテインによるもの。アニメ化される予定があるのだそう。
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「アカーキイ・アカーキエヴィチを好きだから」
アカーキイ・アカーキエヴィチは筆耕の仕事一筋に生きる下級官吏。貧困の暮らしやその馬鹿真面目さを常々人々に嘲笑されている。そんな彼が一大決心のうちに新調した外套は、望外の喜びをもたらしたが…。
『外套』をアニメーション化したというユーリー・ノルシュテインの絵コンテを使った挿画入り。絵としては未完成であり、イメージがまだ出来上がっていないアカーキイ・アカーエヴィチほか人物の表情や、時としてその動きまでが描き出されるこの挿画は、作品の不条理さを伝えて秀逸。
仕事一筋、家族もなく、貧しく、人には嘲笑される。
「わたしをそっとして置いてください。なぜ、あなた方はわたしをいじめるのですか?」
そんな彼がやっとの思いで外套を新調し手に入れる。
彼の浮かれぶりが愛らしく、愛らしいほどにその後の展開が憐れをさそう。
外套一枚無くしただけで吹き飛ぶようなしょぼい男の人生。
こんなにも後味が悪い話なのになぜ何度も読んでしまうのか。
アカーキイ・アカーキエヴィチをなぜ嫌いになれないのか。
初読ではゴーゴリが「彼の人生を握りつぶすことをしなかったから」と思った。
再読して確信した。
ゴーゴリがアカーキイ・アカーキエヴィチを好きだからだ。
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【ドストエフスキーが「われわれは皆ゴーゴリの『外套』の中から生まれた」と言ったそうだ】と、訳者あとがきに書いてあった。
ロシア文学におおむねただよう雰囲気、閉塞感のなかに浮かびあがるほんの少しのユーモア。
たまたま最近読んだ、モスクワタイムスのフィルムフェスティバルの記事にも【The Russian soul is always a little sad】と書いてあった。
雪国生まれ雪国育ちのわたしがロシア文学に勝手に感じていたシンパシーのようなものは、万人にとっても確かに感じとれるもので(好ききらいは別にして)思いすごしではなかったということに気づけただけでも収穫だ。
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これは名作だ。外套がボロボロなのを気にして、新しい外套にしたら、なんか調子が狂って、自意識過剰になるという、ボロボロの外套の良さを再認識して、両方の着心地をうまく表現してる。