投稿元:
レビューを見る
日本基督教団が会議性の精神を無視し、「全数連記」を導入し、およそ半数に近い異なる立場の兄弟姉妹の提案を切り捨ている寡頭政治を強行しているという認識は、もはや動かしがたいと思います。その過程で、「聖餐」をめぐる立場の相違について、異常な方法を用いて、「戒規」処分を行ったことは歴史的な事実として、衆目にいずれ明らかにされるでしょう。現在、世俗の司法に判断をゆだねるという異常な事態を呈していますが。まこlとに慨嘆すべき事態です。涙をもって事態を見守る牧師・信徒は多いことでしょう。その渦中にあって人権を侵されたという原告北村慈郎牧師の著書であり、氏の神学思想を知る好著です。一読して共感を覚えると共に、同意できない諸点もあることが示され、その意味でも貴重でした。私自身は未受洗者の陪餐を認めることには同意してはいませんが、それは将来にわたって不動の論拠をもつという意味ではなく、きわめて牧会的な、宣教論的なコンテクストのなかでの判断です。したがっって、定言命令のように教会の伝統・慣習を受容するという立場ではありません。むしろ、教会の伝統も・慣習も、活きて働かれ、歴史に働かれる神によって形成途上にあると信ずるので、信仰告白も繰り返し告白され直して行くべきと考えています。そういう意味で、聖餐執行についての異見についても慎重で時間をかけた対話・対論を必要とすると考えます。北村氏の神学的判断を、聖餐執行についてだけをもって「戒規」処分とするという権威を、日本基督教団は、その成立の過程、状況からして、主イエスから無条件に委任されているとは言えないと思っています。異なる意見に真剣に傾聴し、共に活きつつ止揚された地平を模索すべきではないかと、思わされます。