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その時が来たら死ななければならない。
だが、体が健康でいるうちは楽観的に生きようとする。
来年の計画を立てる。
淡々といつもどおりに日常を過ごす。
だが、死と闘わず。
のた打ち回って、命尽きるまで生きない。
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これも終末ものであるが,人間精神の勝利を歌う.若干センチメンタルでもあるが死を扱うぶん,シェイクスピア的な荘厳さがある.コンサバ.
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冷戦時代、核戦争後の世界を最期に残されたオーストラリアを舞台に描いた名作 SF小説の新訳。大好きな小説で、ちょうどオーストラリアに向かう空港の書店で見つけたので再読。やはりいい。単なる戦争批判でもなく、最期の時を迎えた人類の生き様を淡々と描く。ほとんどパニックに陥ることもなく、人を愛し、家族や友人を思い、死を迎える。人間の愚かさと人間の精神の貴さの両面。しみじみとした読後感は変わらない。人類の滅亡する様を描いた悲しいはずの小説なのに、僕は最期を迎える人間達の矜恃、誇り、愛情といったものにすごく救われた気分になる。開高健氏がよく色紙に書いていた「明日、世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植える」と言う言葉を思い出す。今回も涙。
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局地紛争から発展した全面核戦争によって、北半球の世界は致死量をはるかに超える放射能が覆い、やがてそれは人々がわずかに生き残る南半球のオーストラリアに忍び寄りつつあった。その最期の時の数ヶ月間、人々はどのように生き、そして死に向き合ったのかを描いた、SFの傑作。
今となっては第三次世界大戦による人類滅亡など、非常に可能性は低くなったけど、この小説が描かれた当時はまだキューバ危機も起こる前夜で、東西両陣営が競って核兵器を増強していた時代。この小説に描かれていた危機感は非常にリアルな恐怖だったんだろうと思う。
残り僅かになった自分達の人生を、少しでも充実したものにしようともがき、楽しみ、そして死に直面しつつも冷静に受け入れていく人々の姿に、自分も同じ状況になったら今日何をするのか、真剣に考えさせられる話でした。自分はとりあえず、ヨーロッパや香港・台湾を旅行して、あと、英語とテニスがしっかりできるようになるまでは死ねない・・・。
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東日本大震災の余震がおさまらない中、東電原発事故はますます状況を悪くしている。放射能汚染の怖さが胸を塞ぐ。学生時代よんだ、この本を再読。こうして迎える人類最後の日など来ることの無い様、改めて原発不要論!!
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ネヴィル・シュートの1957年の作品です。私が高校生の頃(1965年)、初めてこの小説を読みました。最後にはなぜか泣けてしまいました。SF小説を読んで泣いたのは、この作品が初めてでした。その後、2度、映画化されましたが原作ほどの感動は無かったように思います。放射能汚染の危機が迫るこの時期に、たまたま書店でこの文庫の新版を見かけて、もう一度読み返してみようと思い、購入しました。やはり、泣けました。おすすめの一冊です。
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あんまり翻訳っぽくない。
無駄に恐怖をあおるだけじゃないのがいい。
・・・でも最初に読んだ日は眠れなくなった。
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放射能によって人類が滅亡を迎えようとする世界を描いているのにパニック小説じゃないんだなあ。人生は永遠じゃなくて、誰でも死へ向かっていることは確かなはずなのに、なぜ人は絶望しないで生きていくことができるのか。静かに考えさせられた一冊。
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最初は極めて普通の日常が描かれる。だれもパニックになってはいない。まだテレビ時代ではないので、世界から届く情報はほとんどない。しかし、まるで桜前線のように放射能前線が次第に南下しているということだけはみんな知っているのである。北半球のどの都市も、タワーズ艦長の赴く原子力潜水艦の調査ではほとんど従容として全員死を受け入れたように思える。年が変わってやがて三月ごろになると、みんな九月には死んでしまうだろうと分かってくる。誰もそれから逃れようが無い、という前提でこの小説が書かれている。登場人物たちは誰一人われを忘れてパニックになったりはしない。それぞれのやり方で死んでいくのである。
現代はおそらくそうではない。おそらく極めて早いスピードで情報が飛び交い、僅かだが確実に生き延びる知恵が人類共通のものになり、大パニックが起きるだろう。
だからこのような小説や映画はもはや過去のものなのだろうか。そうではない。そうではなかった。
鏡明は解説でひさしぶりに「この作品を読んで、ほのぼのとした気分になったと言った。「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」と書いた。改訂新版が出た2009年ならば、たしかにこのような感想を持つことは当たり前だった。私もほのぼのとした気分で読んだかもしれない。(たった、2年前だけど、なんて過去のことに感じるのだろう)2年前の情勢とはつまりはこうだった。世界はさらに緊迫度が増している。当時では「核戦争だけ」が世界滅亡の危険要因だった。しかし、半世紀が過ぎて地球温暖化、水、食糧問題、そしてエネルギー問題と滅亡要因はますます多様化複雑化していた。この小説のように単純に滅亡を迎えることが出来るのは、むしろ幸福かもしれなかったのである。
そしてフクシマが起きた。私はもはや、他人事の風景としてこの「滅亡を迎える日常」を読めない。
(自分の知らないところで始まった原発ムラのミスのせいで)「どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」と絶望を叫ぶ子供たちの心像風景を私たちは知った。
(自分たちが去っていっても残る牛たちのために)どうしたら「1頭に付き1日半俵の乾草」を確保するべきか悩む酪農家を私たちは現実に見ている。
主人公の二人の男女はお互いに愛し合っている。けれどもけっして性的な関係を持とうとはしない。男性には北半球に妻と子供がいて、それを裏切ることが出来ないとお互い知っているからである。「もしこの先、ずっと人生があるなら、話は違うでしょうけどね。それなら奥さんを泣かせてでもドワイトを手に入れる価値はあるかもしれないわ。そして子供も作って家庭を持って、一生を共に暮らすの。そうできる望みがあるなら、どんな犠牲も厭わないわ。でもたった三ヶ月の楽しみのために奥さんの名誉を傷つけるというのはーしかもその先に何も残らないというのはーとてもその気になれないわね。」
……少し内容は違うが、人間は「誇り」をもてるのだ、ということを我々はこの五ヶ月いたるところで見た。
私は今回、鏡明とは違い、暗い気持ちでこの小説を読み終えた。「「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」。
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淡々と迫ってくる放射能に日常的な生活を失わず尊厳をもって最期を迎える人々が立派。自分がこうなれるか自信がない。
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久々のSFの名作を読んでいる実感を得る。
70年代のSFに付き、もはや古典?
「核廃絶」
「自己の職責を全うできるのか」
「どのような人生を終えることができるのか」
がテーマなのか。
任務途中で、放棄し、故郷付近で、故郷で全うするシーンに衝撃を受ける。
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4700個以上の核爆弾によって北半球は放射能に覆われ、生き残った南半球の都市にも徐々に迫ってくる・・・57年に著された本書は、冷戦の時代の核への恐怖を描いています。核戦争の脅威は薄れたとはいえ、形を変えて他にもある「核」の問題。これまでは、こんな陰鬱な話を手に取ってまで読む気はおきなかったけれど、なるほど「今」こそ読むべき作品でしょう。
この作品の舞台は、残された最後の都市メルボルン。美しいオーストラリアの土地を背景にして、目だった狼藉・略奪をはたらく者のもなく、ドラマティックな事件が起こるわけでもありません。確定してしまった数ヵ月後の終末に向かって人々は静かに日常を暮らしていこうとしています。(こんな姿は日本独特のように言われていますが、そうでもないのかもしれません)
確実に迫ってくる脅威のなか、日常生活を送ろうとしている人々にも狂気がだんだんと透けて見えてくる描写が凄すぎです。
抑えた筆致で淡々と描かれていく世界は、説教くさい訳でも重苦しい訳ではないのですが、心にしっかりと残ります。
傑作。
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いつ面白くなるのかと期待しながら読んだが、最後まで面白くならなかった。何も起きない日常がただダラダラと続くだけで、そこには問題意識も小説的な発展も皆無。潜水艦を登場させる意味がどこにあるのかまったくわからない。そこにあるのは「あきらめ」ているけど怖いことから目をそらし続ける小市民の姿があるだけ。日常と地続きの無力と絶望と静かな狂気がそこにはある、と言いたかったのだろうか。
それにしても小説としては何ひとつ見るべきところはない。
こんなつまらない小説がなぜ名作なのだ?
発表当時はテーマが斬新だったのかな?
現在では日常だよ?こんなの。
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寂しい物語との紹介があったが、滅び行く運命にある人々の日常を丁寧に描写した傑作だと思う。解説にあるとおり、死を目前にした人間の高潔な生き様が印象に残る。
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淡々とした描写が心を打つ。
描写されないが存在を暗示させる多くの荒れた人々と描かれる人々とのコントラスト。