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死とは何か さて死んだのは誰なのか みんなのレビュー
- 池田 晶子 (著), わたくし、つまりNobody (編)
- 税込価格:1,650円(15pt)
- 出版社:毎日新聞社
- 発売日:2009/04/07
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紙の本
真善美。
2009/04/26 11:55
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:豆象屋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今年も又、桜の季節が巡って来た。やきもきして池田晶子の新刊を待つ4月5日、予想ではあまり良くないはずのこの地方の天気が、嬉しくも好転した日曜の朝、私は急遽花見を思い立ち、弁当を買いに車を走らせたのだった。横に新刊書店があった。”予定では4月7日となっていたが”と思いつつ、なにかの予感を感じたか、念のため店内へ。あった!!
そうしてようやっと手にした池田晶子の最後の新刊の2冊目。季節について鋭く考察を巡らせていた池田さんからの、それは桜色の贈り物、とでもいおうか。
今回の新刊3冊のタイトルを考えていて、思いついたことがある。
”魂””私””死”。
いうまでもなく、池田さんがその少なくはない貴重な著作群のなかで、繰り返し繰り返し追い求めてこられたテーマである。著作といったが、それは日々の思索、宇宙を眺め、虚空を第3の眼で見通しながら、の結実としての著作である。そうしてこうして結晶の如く我々に3冊の本のタイトルとして象徴的で示されるこの3つの言葉は一体なんであろうか。
”池田晶子の真善美である”という言葉が、突然私にやってきた。真は死、善は魂、美は私。
とりあえず敢えて自分で当てはめて見るとこんなところか。勿論”考えて”読まれる方それぞれでその対象が変わってくるのは当たり前であるが。
池田さんが、生涯をかけて考え続けた、それは理想(イデア)の端的なる表象の語である、とそんな気がしたのである。
感想が長くなった。書評とは本来、本を読んでの内容の説明である、という当たり前からすると、こんなことを書いてどうなのか、と思うが、素晴らしいものの素晴らしさを、素直に素晴らしいと詠嘆するのが、まずはこの稀有の本を前にしたときの今の私の状況であるからである。
NPO法人、”わたくし、あるいはNobody”さん(法人だし人格か?)により”死”をKey Wordに池田さんの"魂の言葉”を再編成した1冊である。どこかで読んだ文も、初見の文も、”死”というくくりで再び”整列!”とすると、又、格別の味わいがある。思考のあわいに陶然となる。
もう、はじめの「聖なるものの行方」からしてダメだ。この短い文章の中で、宇宙とこの世と科学と宗教(いろいろな”わっしょいわっしょい”も含めて)、いわばこの世の全ての秘密が語りおろされている文章なのである。四聖と呼ばれる人物を始めとする地上に現れた突出した精神的唱道者が説いたものは、彼らの死後、多くは教団が形成され、教義が神聖化され”宗教”となった。彼らは自覚して、生と死の謎の意味を説いただけであるのに。本人でないとやはり分からない、と深く絶望するところである。釈迦は言った。私の考えであろうと鵜呑みにするな、自ら納得せよ、と。たとえ”ありがたい”私の教えであっても盲信するな、と。後進が陥る誤解を、それは見通しての教えだったのであろう。しかし、今の姿を見れば、"宗教”になっている。
池田さんは、宗教については全て分かっている、仮に教祖に奉られるようなことがあったら筆を折る、とおっしゃっていたと記憶する。釈迦と同じ事を言っている。見通している。科学文明のそもそもの発生理由に気づいて科学を行っているものがどれほどいるのか。そんな視点は私は池田さんに言われるまでまったくもって、気づきもしていなかったのである。最初の文章でもって、このように深くノックアウトである。しかし、しあわせな豪沈でもあるような・・・。
池田さんの文章を読んで、楽しいのは、自らを当たり前のように、特に意識することなく、客観的に表現できるところであろう。本編に入っている”付録”(この位置づけも楽しいですね)「いいわけ」は、又、伝説の池田さんの筆跡に身近に接することが出来る素晴らしい企画である。
思考に手が追いつかない、本人でも時々判別不可能である、という文章を手書きで読みつつ、所々なんだか良く「読めない」、この重層的な面白さ!!
かつて睦田真志氏は、池田さんとの往復書簡で”字が良く判別できない”と思わずポロッと書いてしまっていたのがほほえましいというかなんというか、だったのだが、その彼の幸せな戸惑いを、追体験できるこれは好企画なのである。
そして圧巻は、酸素を吸入し、自宅で執筆し、輸血で(そんなそぶりをおくびにも見せず)笑顔でサイン会を乗り切り、あまつさえその翌週に医師たちへの講演を予定している。ギリギリで体調がどうしようもなくなり、文字通り語り下ろした講演内容である。まるで瀕死の巫女の宣託、のように。
それは死因はあっても死はそこにはない、と語っていた池田さんの全く自然な態度なのだ、と頭では理解していても・・・・。堪らないものがある。
池田さんはあまりしゃべるのが苦手、というふうにおっしゃっていた。しかし約束したことや原稿の入稿はきっちり守られたという。この語り下ろしにも、そんな思い、義務感ではなく、それを”私が”行わなければならない、という使命感と、何かに突き動かされる思いがあったように思う。
それは大きく”人類”、ソクラテスが意図せず行っていた”2000年後の人類”に向けての言葉を発している、という自覚であったかもしれない。
本書を購入された方は、まずカバーをめくって見ることもお勧めする。池田ファンにはおなじみの、ダンディ君(たぶん初代)と並んで微笑む池田さんがいる。
この本を4月5日に購入した日、本屋ではこの本は平積みされていたが、その中で最後の2冊のうちの1冊であった。解っている人はここにもいる、という思い、そして”出遅れた”という池田ファンとしては一抹のくやしさを記しつつ、レビューとさせて頂く。
長々と失礼しました。
紙の本
「考える」とは何か
2009/05/22 08:14
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
彼女は「考える人」であった。
本書は、2007年2月に亡くなった文筆家池田晶子さんの、未発表原稿や書籍未収録原稿を三つのテーマにして編まれた三冊のうちの一冊です。
日常の言葉で「哲学」を語り、「哲学エッセイ」という分野を確立した池田晶子さんですが、本書は同時刊行された他の二冊と比べてその色合いがもっともよく出ているといえます。
書かれている内容は「死とはなにか」「私とはなにか」といった、それぞれにたいへん重いテーマですが、それを読ませ、ともに考えるという池田さんの個性がよく出た文章が続きます。
「私は知らないことを知らないと思う」といったのはソクラテスでしたが、私たちが「哲学」というものをイメージした時、この言葉のようにわかったようなわからないような議論の繰り返しを浮かべます。
原語を理解しないものにとって、原文が理解不能のものなのか、日本語訳が混乱をきたしているのかわかりませんが、少なくともすっと理解できるものではありません。それでいて、この学問は人間の本質を解き明かそうという気配だけは持ち続けます。
池田さんは、「この国に、原語「愛智学」(フィロソフィー)が、「哲学」と訳され輸入されてまだ百年ちょっと、(中略)、わけもわからずに人々は、哲学とは、「人生とは何ぞや」ということを、難しい言葉で「悩む」ことなのだと思い為すに至った」(157頁・「いたって単純」)と見ています。それが「安心」であったと。しかし、「悩む」と「考える」は全く違うものと断言します。
では、「悩む」と「考える」とはどう違うのでしょう。
池田さんはこう書いています。「悩まずに考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか」(同頁)。
今回池田さんの本を立て続けに読みましたが、私たちがいかに言葉に縛られているのかがよくわかります。確かに「考える」ということも、言葉の組み立てですが、もっと違った「言霊(ことだま)」がなす行為ではないでしょうか。
「言葉には、万物を創造する力がある。言葉は魔法の杖なのだ」(224頁・「言葉の力」)というのは、中学生の教科書に所載された池田さんの文章ですが、ここで使われている「言葉」は多分に「言霊(ことだま)」であったと思います。
池田さんが言い続けた「考える」とは、「言葉」に対応する「言霊(ことだま)」のようなもので、だからこそ、多くの人たちが彼女の「考える」を理解、共感できたのではないでしょうか。
そして、「当たり前の不思議に気がついて、それを考えながら生きる人生と、当たり前を当たり前と思って、それを考えることをせずに生きる人生とでは、人の人生はまったく違ったものになる」(219頁・「言葉の力」)といったような、池田さんの文章にどれほど勇気づけられたことかと思います。
◆この書評のこぼれ話はblog「ほん☆たす」で。
紙の本
生死の不思議、自然の不思議、宇宙の不思議、存在の不思議
2009/04/10 01:11
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る
『魂とは何か』、『私とは何か』、『死とは何か』を
3冊読了し、なんとなく、この順番で読んでよかった、ような気がしている。
3つのテーマはつながっているし、時間的にも同じ時期に書かれた作品群なので、どれが先でどれが後というわけでもないのだが。
「生きている」ということは、
当然「死んでいる」ということの反対です。
死がなければ生がないのだから、生とは何かを知るためには、
死とは何かを知らなければならない。
しかし、現に生きている私たちに、
どうして死を知ることができるでしょう。
死とは何かがわからないのに、
どうして生とは、生きているとはどういうことか、
わかっていると言えるでしょうか。
生きているとは、人生とは、いったい何なのでしょうか。
(中略)
そうして考え始めれば、当たり前に思っていたことが、
なんと驚くべき不思議だったか、必ず気がつくはずなのです。
気がついてしまったら、いよいよ深く考えるしかなくなる。
この不思議を放っておいて生きるわけにはゆかなくなる。
なぜって、この不思議は、自分がいま生きているという、
まさにこのことなのだから。
(p.28)
世界について、宇宙について、考えているのは、
経験しているのは、自分である。
自分でしかない、自分しかいない。
ゆえに、世界とは、宇宙とは、自分である。
宇宙は自分として存在する。
(p.41)
死がメインテーマとなっているテキストが集まっているので、
死を問うこと、生を問うこと、存在を問うことが同じことであることが、
はっきりと書かれているので、
他の2冊よりもすっきりしている、ような気がするのである。
彼女が行なった死への名づけは、どれも心に響いた。
生と死は、ゼロと1が違うように違うのでは、じつはない。
星雲や銀河が生成消滅を繰り返すのが、
この宇宙のありようであるように、
現象に断絶はなく、移行があるだけなのである。
(中略)
どうしてか存在する宇宙で、どうしてか出会えたように、
いつかまた出会えると思うことは、
素晴らしいことではないか。
(p.75)
そして、ここに行き着く。
生とは、死に対するところのものである。
死があるから生なのであり、生があるから死もあるのである。
ところが、物質ではない死は、無として存在しないものなのであった。
死が存在しないとなすると、当然、生もまた存在しないはずである。
しかし、現に我々は「生きている」。これはどういうことなのか。
つまり、「生」または「死」とは、それ自体が言葉だということだ。
我々は、言葉で、現象を定義しているにすぎないということだ。
動いている物のことを、とりあえず「生きている」と呼び、
動いていないもののことを、とりあえず「死んでいる」と呼んでいる。
(p.130)
生も死も言葉なのだと。
だから、彼女は、人間が言葉を話し、読み書きすることを、
本当に不思議なことだと感じ、
そして、「言葉の力」を信じている人だ。
中学3年生の国語の教科書に、彼女の「言葉の力」が収載されたときに、
テキストとともにイヌイットの伝説である
「魔法のことば」の訳と絵も載せられたのだという。
ちょうど1ヶ月前に図書館で
『おれは歌だおれはここを歩く アメリカ・インディアンの詩』という
本に出会い、表紙の絵に惹かれて借りて読んだのだ。
書評を書くときに、この本の中で一番心惹かれた作品を抜き書きしていた。
それが、まさに、「魔法のことば」だったのだ。
つながっている、気がした。
この本の最終章である、「死とは何か-現象と論理のはざまで」は、
彼女の最後の「講演」である。
病状が進行していたのだが、
この講演を済ませてから入院する準備をしていたのだそうだ。
ところが、呼吸苦が急速に深刻となり、
キャンセルすることになってしまい、
講演の内容を自宅で口述して入院した。
「「自分」の謎」そして、「謎の自覚」で、閉じられるこの講演。
彼女が追ってきたのは、ずっと、たったひとつの謎だったのかもしれない。
紙の本
言葉の大切さ
2020/07/17 12:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
死の恐怖を克服すること、そのためには自分が死ぬということを考えねばならない。
人間は、生きたいと思う。
しかし、死んでしまう。
という矛盾のなかで生きているのだから。
考えるとは、言葉で考えるのだから、言葉を大切にしなければいけない。
そういったことを、この本から教えて頂きました。