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紙の本

においの文学論的社会学

2009/08/15 13:17

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る

草原に挑発的な表情に見える半裸の女性が寝転んでいるのだろうか。

左手を上げて頭の後ろに置いていて、黒々とした腋の下が見える。

右手は胸の下に置かれ少し体をそびやかしたような感じ、
伏し目がちの目はこちらを見下ろしているよう。

鼻の穴が黒々と描かれているのが妙に気になってしまう。

作品にあわせて書かれたのだろうかと思ってしまうような表紙の絵は、
東京国立近代美術館が所蔵している萬鉄五郎『裸体美人』の部分である。

著者がにおいについて考えはじめたのは1990年頃だそうだ。

においが、どういうふうに人々に意識され、
それが社会的にどんな意味を持つかが気になり始めたのだという。

ここで取り上げられるのはいいにおいではなくて、
よくないにおいの方である。

本書は、東中野の包(パオ)において、
『パオ文化講座 においの心性』として
2007年11月の日曜日の午後に4回に渡って行われた講座の内容に、
修正加筆したものである。

元が講演なので、聞きやすさが読みやすさに
つながっているような印象である。


第1章 「臭」から「匂」へ
 1 明治の「自由」と悪臭さわぎ
 2 そもそも江戸のにおいとは
 3 異文化との出会いとにおい
 4 においへの新たな関心と展開

第2章 2つの大戦後
 1 時代の子―芥川龍之介
 2 においを見つめた川端康成
 3 戦争と死臭、そして焼け跡のにおい

第3章 1960年代と言う転換期
 1 においのデカダンス 川端康成再考
 2 腋窩のにおい―三島由紀夫の美学
 3 不条理な状況へ―大江健三郎の場合

第4章 においを削除する今
 1 身体の細分化、市場化
 2 厄介な身体の今


「誰が何を/どこをくさいと言ったのか」から、
社会が見えてくることが興味深かった。

  こうやってある地域を「臭気」「悪臭」をもって発見していく、
  そういうとらえ方が明治の20年代を主にして生まれてくる。

  これはまさに、貧民をにおいで作っていった
  と言っても過言ではないと思います。

  においが脳を直接刺激し、好悪を明快にする、
  そしてまたにおいを嗅ぐとそのイメージが鮮やかに浮かぶ、
  その働きが社会的規模で展開されたのです。

  (p.22)


  西鶴にも、ほかの文献にも、
  においと下層の人々を結びつけるものは見当たりません。

  江戸時代には、下層のものの身分が
  当事者の承認もなく定まっていて目でわかり、
  だから上層にまぎれることはないのです。

  わざわざ下層のものを下層であると言挙げする必要がなかった。

  そのことがいいことか否かは、また別の問題です。

  その秩序が崩れたときにこそ、下層の発見が必要になります。

  江戸の体制、人々の関心が大きく変わったからこその、
  明治10年代以降の、においによる下層の発見があったわけです。

  (p.27)


「下層を作っていく」というにおいの働きとはちがった特徴として、
下々のものが上の階級のものをからかったりする笑い話もあるが、
くさいにおいを蔑むときには、
それを女性に一方的に押し付けていると著者は語る。

ジェンダーにおいては一方的に男が上で女が下であるという関係を
においが表す働きをしているというのである。

くさいところは下層であるという捕らえ方は、
中世から江戸期を通して人々を脅かし、
においの感じ方に大きな影響を与えてきた
「地獄はくさいところであるという観念」が
影響しているのではないかという考察も興味深かった。

貧困者の集住地区や異文化をくさいという人々の生活の場は
くさくはなかったのだろうかというとやっぱり当然くさかった。

江戸も明治もにおっていたとその不潔ぶりが延々と出てくる。

そして、深くも恐ろしい考察が続く。

  「誰が何をくさいというのか」は、においを言挙げする時代の中で、
  やがて深く静かに転換していきます。

  下層の発見では、少なくとも「そこにあったにおい」が、
  「そこにはないにおいがあると言われる」ようになるのです。

  (p.52-53)

「においというのは、意味するもののほうがにおいと結びつくときに、
意味されるものを呼び寄せるというか、勝手に作り上げる力を持つ」。

「おまえはくさい」は、対立関係やいじめを
言語化するメッセージともなりうる。

文学作品の中におけるにおいの表現においては、
その作品を読んだことのある人の方が楽しめるかもしれないが、
全然読んでいなくても、引用と解説が豊かで楽しめた。

きれいなシーンかと言われるとそうではなく、
生々しいシーンばかりなのである。

たとえば、においが、
「今存在しないものの存在を証かすという
「不在の在」を示すという働きである」
というと聞こえはいいけれど、
要は、いなくなった女の残り香を
女の残していったものを嗅いで味わっているようなお話。

文学作品ならばよいが、自分がされたらどうか・・・。

微妙である。

といって、その人がもう永遠に会えない相手なのだとしたら、
そうしたい気持ちがわからないわけではない。

においの世界は非常にプライベートな領域なのだと思う。

こっそりそんなことをしていたとしても、
書かれていると恥ずかしいような世界。

ある一定以上の距離でなければ
味わえない知り得ない世界の描写と関わってくる。

描写が苦手なばかりではなく、私はにおいに対する耐性があまりない。

きれいごとだけでは済まされない関係というものを、
自分はもっと味わう覚悟が必要なのかもしれないと思った。

私自身も「社会的ににおいが消されようとしていた70年代」生まれを
象徴する存在なのかもしれない。

消臭、無臭、人工的なにおいの付与と、商品開発は、
においの撃退に向かって、着々と進み、
身体は市場として細分化されているという。

においが身体との密接なつながりで考えられなくなってきたと。

それでも、「私たちの身体からにおいをなくすことはできません」
という言葉が重い。

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