紙の本
次の参議院選挙に向けて、戦前の議会政治を巡る思想を振り返る
2009/09/15 23:06
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:FAT - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、日本の明治所期から昭和の立憲構想、議会制構想を巡る思想史の概観し、二大政党による政権交代という政治の在り方、内閣という組織と官僚機構(藩閥)の在り方についての、政治家(井上馨)と思想家(福沢、徳富、美濃部)の論陣を歴史的に分析するもの。
勿論、戦前「憲法」下においては、内閣総理大臣を任命し、行政執行を担う内閣を編成する「大権」が、形式上天皇にあり、議会との関係で「超然」とすることが、解釈上許容されるものであったのだから、そこでの議論と、議会に内閣総理大臣の指名権があり、内閣を構成する大臣の過半数が国会議員=事実上政党員でなければならない現行憲法下では、議論における前提が大きく異なっている。
しかし、選挙を通じて、議会多数を占める政党勢力が変遷し、その議会多数を占める政党勢力が「責任」内閣を構成して行政を執行するという在り方を、戦前憲法下でも短い期間ながら実現させてきたのは、本書で語られる思想家達の立論があったこともまた事実だろう。
そこで考えなければならないのは、責任政治、議会政治の確立に向けた知的営みが、美濃部に典型であるが、その政党交代政治の「堕落」という現実を突きつけられたときに、挙国一致内閣に一定の賛意を示し、「健全な」政党政治への回帰のための「一時的」逸脱へと吸い寄せられてしまったことである。
とすれば、今後の日本でも同じことが生じないとは言えない。
2009年9月初め、この国では、選挙によって選出される政治(家)と行政(官)との関係改革を掲げた政党が、選挙によって政権を獲得するという画期が生じている。
こういう時には、迂遠なようであるが、この国における「選挙による政治」の歴史を振り返り、その生みの苦しみを理解し、そして二大政党による政権交代が壊滅していった背景へと思いを至らせるのは、同じ過ちを繰り返さないために必要だと思う。
すなわち、今回の選挙を通じ二大政党による政権交代という歴史的画期が生じた今だからこそ、この政権交代体質の定着に向けて、二大政党政治が崩壊した歴史を真摯に学ぶ必要がある。そして、その前提として、戦前「憲法」下における議会=選挙勢力と、官僚機構=非選挙勢力との関係において、選挙勢力による政治を志向した思想家の思想的胆力を振り返り、「脱官僚」をスローガンだけに終わらせない、知的努力が必要なのではないだろうか。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は歴史書であるが、現在の政治状況を考えるためにこれほど必要とされる政治史の分析はないだろうと思えるほど予言的なものともなっている。日本の政治に閉塞感を感じている人は整理のためにも読まれたし。
投稿元:
レビューを見る
「まえがき」でも述べられているのように、明治から昭和における国家構想を「保守」「中道」「革新」に分けて分析する。そのなかでも「中道」派(=イギリスモデル)の分析に力点が置かれているが、これは「「中道」による格差の縮小は可能か?」という著者の問題意識に支えられているらしいことが「あとがき」で述べられている。
まず明治期の政治構想について西郷らの「新攘夷」派を「保守」(というより右か?)に、板垣ら土佐派による「下からの民主化」派を「革新」に、「上からの民主化」派を「中道」におき、相互に妥協不可能な「イデオロギー」として分析している。もちろん分析の焦点は「中道」である「上からの民主化」派である。ただこのあたりはその後の分析の前置きにあたることから、あまり厳密にカテゴライズしなくてもよいのかもしれない。「上からの工業化」派をどこに位置づけるかもイマイチ分からない。
次に「中道」派の主唱者・イデオローグとして井上馨、福沢諭吉、徳富蘇峰があげられている。このあたりの知識が全くなくなんとコメントしてよいかわからないが、徳富蘇峰の解釈に関してなんとなく、意外だなぁ、と思わせられた。それと井上馨に関する評伝が少ないので希少価値があると思う。
その次は明治憲法の解釈について都築・穂積、美濃部、北・吉野をそれぞれ「大権政治」「内閣政治」「民本政治」に分類して分析している。それぞれが「保守」「中道」「革新」に対応することが容易に読み取れるが、それ以上のコメントは全く知識がなく難しい。北の解釈がなんとなく新しいのではないか、、と思うが的外れかもしれない。
最後は護憲三派内閣以降の政治の動向について「中道」派(=イギリスモデル)の構想という観点から分析する。前半は民政党が「民本主義」(=イギリスモデル)に接近し政権を担ったこと、それにも関わらず「中道」的な政策を実現できずやがて支持を失っていく様子が描かれる。後半は岡田挙国一致内閣の再評価。当時の政治構想を「憲政の常道」「立憲独裁」「協力内閣」に分類し、岡田内閣が内閣審議会に結実する「立憲独裁」的(「中道」的な)政治構想を持っていたことを明らかにしたうえで、いわば「政党なきイギリスモデル」を模索していたものとして描かれている。
以下再読。若干批判めいた文章になる。
「中道派」として分析される美濃部達吉や民本主義に理解を示していた日本労働総同盟とその政党である社会大衆党がそれぞれ「円卓巨頭会議」構想や「国民経済会議」構想を練っていたこともまた、岡田内閣の(立憲独裁の)「中道」性の傍証となっている。
ただ、美濃部が「中道」なのか、吉野が「中道」なのか、、。「上からの民主化」=「中道」派=イギリスモデル=民本主義という等式を読み取らせる一方で、吉野を「民本政治」(=「革新」)として分析するのは一貫性に欠けるとはいえないか。
「中道」の分析をすると述べておきながら、「中道」の定義を曖昧にし、「内閣政治」や「立憲独裁」を「中道」とはっきと明言しないのは、その部分の批判をかわすためではないか勘ぐってしまう。
投稿元:
レビューを見る
井上馨-初期徳富蘇峰-吉野作造-美濃部達吉の政治思想を中心に岡田啓介内閣崩壊までをたどる。帝国憲法を民主的に解釈するか、大権的に解釈するか。政党政治をどう基礎付けるか、どう展開するか。政治の仕組みというのは作られて終わりではないことを痛感。
投稿元:
レビューを見る
2009年(底本1999年)刊。著者は東京大学名誉教授。
明治維新期~戦前昭和の岡田政権崩壊まで(関心事は自由民権期+旧憲法公布施行草創期)の政治史を
①対外膨張・強兵派、
②内地開発優先・殖産興業派、
③民権確立・立憲主義派
に区分し、関係者の意図と合従連衡の模様を、中心人物の書簡や当時のマスメディアの論調からの解読を試みる書。
先の三派と言えども内部の左右の色合いの違いは大きく、相当複雑なマトリックスを描き展開される論法はなかなか興味深い。
また鹿鳴館で(悪)名高い井上馨をここまでフィチャーしたのは意外だ。否、総理にならなかった長州の雄の、従来とは違う一面と新たな人物像が開陳されたのは印象的である。
加えて美濃部達吉。天皇機関説という至極当然の法学概念を発したに過ぎない人物だが、戦前の時代相の中、軍部との闘争関係ゆえに殊更持ち上げられがちであったことは確かだ。
が、そもそも議会軽視の美濃部の憲法理論の限界は、戦後憲法学からは勿論、戦前ですら明らかだった。
この点を吉野作造との対比で暴き出した本書は、それだけでも十分な価値がある。
このように、坂野らしい重厚な書であるのは確かだが、それにもまして政治史学の研究書を文庫化した岩波の心意気が本書に魅かれる所以とも。