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私の書かなかった本 みんなのレビュー
- ジョージ・スタイナー (著), 伊藤 誓 (訳), 磯山 甚一 (訳), 大島 由紀夫 (訳)
- 税込価格:4,950円(45pt)
- 出版社:みすず書房
- 発行年月:2009.9
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紙の本
この本を読んで、もう少しジョージ・スタイナーを読んでみようという気持ちになった
2010/06/20 16:40
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の「妬みについて」においてジョージ・スタイナーは、歴史上の人物の研究を通して、人々がもつ根深い感情の秘密を掘り下げようとする。私が面白いと思ったのは、著者がそのどちらに力点を置いているのか巧みに曖昧にしている点に対してだった。
スタイナーは、ダンテと同時代の詩人にして学者のチェッコ・ダスコリ(もちろん私にとって初めて聞く名前)がダンテの卓越性と名声に対し、やみがたい妬みを感じていたことに関心をもつ。チェッコは『神曲』に激しい批判をしたことで知られる。
著者は今から7世紀も前の、翌朝、焚刑に処せられる彼の心のなかを「全精神を動員して想像する」。
ここは見事だ。その最後は次の文章で閉じられる。《焼かれることになるのは彼の生きた肉体だけではなかった。著作のすべてが薪の山に放り込まれるはずであった。ダスコリに予見しうる限りでは、すべて手稿のままである自分の膨大な仕事の結果は何も残らないであろう。すべては灰と化すであろう。叙事詩の傑作、未完の『アチェルヴァ』も、痕跡を残さずに消え去るであろう。一方で、ダンテの『神曲』は永遠の命を約束される道の途上にいた。……チェッコは人生最後に残された洞察力と集中力の瞬間において、自分がダンテの至高の天才と名声を妬むライバル、多少とも軽蔑される同時代人であり続けたことを知る。この認識がもたらした苦悶はおそらく、少なくとも一瞬のうちは、言語に絶する激痛をもたらす差し迫った死の予感よりも、よりいっそう残酷であった。》
スタイナーはその少し前で、彼の想像のなかでだが冷たい夜の牢獄のなかのチェッコに、蝋燭の炎に指を近づけさせ、翌朝の最初の痛みの予行演習をさせようとする。
そのような肉体的な苦痛の想像以上の苦痛としての「妬み」を、歴史上の人物の心理のなかに見る著者は、批評家というより、『ウェルギリウスの死』を著わしたヘルマン・ブロッホのような小説家に近い。
スタイナーは小説もこれまでに書いているが、この「妬みについて」においては批評家が創作者に抱く「妬み」にもふれる。《偉大な批評家は偉大な作家よりも稀だといわれてきた。一群の批評家たちは、散文スタイルの力で革新的な問題提起により文学そのものにじりじり入り込んだ。しかし、根本的な事実は変わらない。たとえどんなに優れた批評論説でも、不朽の詩や小説との差は何光年も開いている。》
スタイナーは人間の陋劣な、あるいは凡庸な心理を論〔あげつら〕おうとする、たとえば「通」の人ではない。いわば陋劣でも凡庸でもない。それより彼は、《天才の作品がしばしば人々に認められず嘲笑される可能性があることが、批評家の立場の身を引き裂かれるような曖昧さを増大する》といった言葉によって、自身をあるレベルに置こうとする。
文脈からいうと、ここは天才(シェイクスピアのような存在でもあり近い時代の畏敬すべき人でもあろう)に対して、みずからを《オクスブリッジの成績評価記号で言えば「β++」》の《二流の頂点》という格下へ位置づけているとみなされよう。もちろん私には実感できないレベルだ。
スタイナーは、「一流の作品が認知され正当な扱いをされるように求めて苦闘する」正直な、多くの人の列に自分を置きたくないのだと思う。「脚注のなかで言及されて永遠の命を授かる」だけで満足したりしなかったりするレベルには自分がいないことなど当然だとみなしているだろう。
こうした物言いが一種の自慢話に近くなることを知っている著者だからこそ、この「妬み」論=チェッコ・ダスコリ論の難しさも分かっているのだ。このエッセイが「それは私にはあまりに切実すぎた」という言葉で閉じられるのは、突き詰めていくと、誰と誰が彼の現実の妬みの対象であるかを述べなくてはならないからかもしれない。
このエッセイが素晴らしいのは、これが7冊の書かなかった本のうちの1冊についての文章であるところ自体にもある。
スタイナーはチェッコ・ダスコリについて色々研究し、想を練り、書物にしようとしたかもしれない。またその書きたかった核心には、チェッコのダンテに対する気持ちがあるところにも気づいたかもしれない。だがスタイナーは妬みという感情を中心に一冊の本を書くには、何か憚りがあることが分かった。つまりそれは一冊の本にするには、あまりにもなまなまし過ぎる。かといって、ひとつのエッセイとして何かのきっかけで書くには、あまりにもそれは自分にとって一冊の書物にするにたる内容をそなえている。
そうしたためもあって、ここに収められた各エッセイには尋常ではない密度があり、簡単に読み飛ばしにくい。
だがスタイナーには意外にサービス精神があるのかもしれない。たとえば「エロスの舌語」はお堅いイメージの彼らしからぬ自慢話すれすれの性的エピソードに満ちているが、「本章は危険域に達している」という最後のつぶやきが示すように、これは本にするには著者が最も嫌うプライヴァシーの露出そのものである。だがあえて彩りとして加えたのかもしれない。
総じてスタイナーには、私的なことを書くときの書き方や抑制の仕方にある流儀が感じられる。多くのイニシャルの女性が登場する「エロスの舌語」はスタイナーとしては空前絶後の露出と言えるのではないだろうか。
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