紙の本
「ああでもない、こうでもない」とまるでソクラテスのように考えることの素晴らしさ!
2009/10/10 10:27
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは著者が毎週木曜日の4時限に明治学院大学国際学部で行った「言語表現法」の13回の講義の実録ライブ収録です。軽薄な実用書のようなタイトルで損をしていますが、内容的にはその正反対の著作であると断言してもいいでしょう。
よしんば誰がどんな名講義を13日間どころか13年間行ったとしても、受講した学生に名文など書けるわけもないのですが、そんなことは百も承知の上で高橋の源チャンはユニークな授業を行っています。
ではそれはどんな講義だったのでしょう?
著者はまず学生に著者が好きな文章(ソンタグの遺書、斎藤茂吉の恋文、日本国憲法前文、カフカの「変身」、バラク・オバマやハーヴェイ・ミルクの演説など)を読んでもらい、それから何か課題(自己紹介、ラブレター、「憲法」や「演説」を書くなど)を出して学生に文章を書いてもらい、その文章について学生とともに話し合いながら、お互いにああでもない、こうでもないと考えはじめます。
それらの素材やこれらの講義自体をダシにして、「書くこと」や「話すこと」にとどまらず「生きること」をめぐって、「ああでもない、こうでもない」とまるでソクラテスのように「考えること」自体が、この授業の狙いなのでしょう。
言葉という重宝な道具を上手に使いこなして「考えるすべを見出すこと」、そうして本人未踏の知られざるどこか遠い世界の果ての果てまで思惟の旅を続けることが、この「言語表現法」講義の遠大な目標となっているようです。
そうしてこのユニークな講義の実況中継を読む私たち読者は、著者が設定したその簡単な仕組みからもたらされる、もぎたての果実を味わうような思考のみずみずしさとおいしさを追体験することができるのです。
それからこの本(講義)のもうひとつの楽しさは、行き当たりばったりの即興的な自由さです。くだらないシラバスにとらわれない、ジャズの演奏に見られるような奔放な思索のインプロビゼーションです。
たとえば源チャンの第9回目の授業は、思いがけないトラブルに見舞われ、休講を余儀なくされます。彼の2歳9か月になる次男が急性脳炎の疑いで救急車で病院に担ぎ込まれたからです。
医師から「小脳性無言症」と診断されたキイちゃんは、小脳に大きな損傷をこうむり、それまで自由にしゃべっていた言葉が突然出なくなってしまいます。
そして、息子の「発語機能」が損なわれたのは、著者が文芸雑誌に連載したキイちゃんを主人公とする小説の物語の中で、キイちゃんの言葉を奪ったからだ、となじる妻の詰問が、なんと10回目の授業で源チャンの口から淡々と紹介されるのです。
「あなたがあんな小説を書くからよ! いますぐ小説をハッピーエンドにして! キイちゃんに言葉を取り戻させて!」
しかしまるで小説を地でいくこの実話は、あるささやかな奇跡が起こることによって、その絶望的な悲惨さがいくらか明るい方へと向かいます。それは源チャンが次男の大好きな童話を読み聞かせているときに起こりました。
「ちんぷく まんぷく あっペらの きんぴらこ じょんがら ぴこたこ めっきらもっきら どおんどん」
源チャンが魔法の言葉をささやくと次男は、「けたけた、げらげら」と笑いだしたのです!
この長谷川摂子の童話「めっきらもっきらどおんどん」が、いったんは失われた言葉の力を取り戻す光景は劇的で、その昔、同じ脳に障碍を持つ私の長男が一度は失われていた発語を取り戻した折の無上の感激をはしなくも思い出しました。
源チャンは「ふつうに」生きていくことができなくなるかもしれない息子の将来を思って戦慄するのですが、「彼がどんな風になっても支えていこう。これからはずっと彼をわたしたちの家の中心にして暮らしていこう。彼の生涯を支えられるだけのものを、わたしはなにがなんでも作り出していこう」とけなげにも決意します。
そしてこのとき、不思議なことに将来への恐怖とともに、「大きな喜びのようなものを」感じるのです。
源チャンは、その喜びとは、これまでこの世の中の主流を歩んできたいわば「右まきの人」が、世の中の主流をはずれた「弱い人」や「少数派の人」「左まきの人」の「横に立つ喜び」であると定義するのですが、この尋常ならざる喜びこそは、不幸のどん底で呻吟しているはずのわれら地底人が、はるか地上を仰ぎ見るような斬新な視角をあたえ、この世にあって一身にして二生を経るような複合的な生きがいを与えてくれる得難い特権に他ならないのです。
我田引水して急遽同病を憐れむわけでは毛頭ないのですが、このたびの高橋源チャンの原体験は、彼の今後の作家活動にとって大きな飛躍の源泉となるに違いありません。
ぐあんばれ源チャン!
ありがとう君こそはわが聖なる愚者わが生きるよろこび 茫洋
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学生の頃受けたかった。
文学の自由について、自分を持つことの重要性について、世界との関わり方について、とにかくたくさん考えさせられ、たくさん感動させられ、心がジェットコースターに乗せられたみたいに笑ったり泣いたりであっという間に読み終わってしまった。
間違いなく幸せな読書の時間だった。
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こんな授業,大学で受けたかったなぁと思う。
けど,実は受けてた(受けられてた)のに気づけていなかっただけな気も。
人生っていいかも,と思える本だった。今年の5冊に入るかも。
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「13日間で「名文」を書けるようになる方法」ですが、もちろん通常理解されている意味でそんなことは起こりません。
13日間の高橋センセイの大学の講義をまとめたものですが、素敵ですね。13日間で「名文」の定義が変わってしまう授業です。
(ちなみにタイトルの「名文」はカッコで囲まれている上に白抜きされています。)
最初のうちは、確かに面白いんだけれども、きちんとした書き下ろしなりエッセイなりの方がいいなあと思って読んでいたのですが、進めるうちにとても味が出てきました。「自己紹介」、「ラブレター」、「演説」のそれぞれの意味を説明するところ、「女性」、「ゲイ」、「左きき」など社会的に"弱きもの"に関する講義などさすがだと思わせるところが随所にでてきます。
特に、講義の期間中に高橋さんの2歳の息子が高熱し「小脳性無言症」にかかるという事件についての講義は心動かされます。
よく考えて、自分の思い(言葉)をきちんと持つことができているんですね。
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高橋源一郎が明治大学で行った「言語表現法講義」の講義録。いわゆる「文章論」って授業ですよね。どこの学校でも必修科目になってたやつ。自分の「意見」を自分の「文章」に置き換えること。試験でもレポートでも小論文でも、社会に出てからでも、そういう作業は必要で、そういう「文章」の書き方の授業。でもまあ、当然、想像つくだろうけど、高橋源一郎先生の講義はそんなものにはなりません。「ことば」とは何か? 言葉を使って様々な問題を考えていく。そう、これはもはや「文章論」などではなくて、「哲学」の授業なのです。スーザン・ソンタグや高橋悠治や谷川俊太郎や斉藤茂吉や日本国憲法やオバマの演説の文章を通して、そして課題として生徒達が書いてきた色々な文章を通して、そこで語られる「ことば」を通して、「わたし」とは何か? 「世界」とは何か? そしてそれらをどのように生きていけばいいのか? を考えるような内容になっている。
これだけでも、相当にスリリングで感動的な内容なのですが、途中でとんでもない出来事が起こり、何だか、それまで抽象的に語られてきた「ことば」というものが、本当に途轍もなく私たちの存在に深く関与していることに気付かされる。そして、僕は泣いていた。これはぜひ誰しもに読んで欲しい一冊だと断言できる。
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おっきい本屋さんには売ってました。やりーぃ。
よかったです。
読み終わったあと、すごく文章が書きたくなりました。
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最近マイブームの講義収録本。
タイトルは微妙だが、中身はとてもおもしろい。当然のことながらこの本を読んだところで13日間で名文を書けるようにはならない。ただ名文というのは「良い文章」なのではなくて、自分の思いや気持ちを素直に表現して、読み手に伝えるものだということを学べる。
授業で取り扱っている題材、また、それに対する学生の発想もとても自由。特に憲法を取り上げた回は、生徒の発想力に驚いた。
書くということが嫌いだったり、苦手な方にはぜひ読んでもらいたい。必ず得るものがあると思う。
◆memo
二度読む価値のない本は、読む価値はありません
なにかを「書く」ために、もっとも必要としているのは「読む」能力だということ
この作者は、「情報」の少なさを逆手にとっているのです。というか、「情報」が少なければ少ないほど活性化する、私たちの「想像力」の性質について、熟知しているのです
逆説的かもしれませんが、「文章」を書けるようになるためには、できるだけ、他の「文章」に触れない方がいいのです。というのも、わたしたちの周りにある「文章」は、たいてい、社会的な「サングラス」をかけて、書かれているからです。「文章」を書けば書くほど、人びとは、考えなくなります。というか「見る」ことをしなくなるのです。まず、「部外者」として「見る」ことです
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「書き方」という名前のついた、「ものの見方と考え方」を教えてくれる本。1日目の授業に出てきた文章は、コピーして持ち歩きたいかも。
学生さんたちの文章もとても輝いている。涙が出た。
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まだ1日目を読んだばかりですが。
問いかけられる感がとても素敵です。
タイトルで引かずにぜひ中身を少し読んでみてもらえればと思う次第。
本のタイトルでひっぱってくる人と、これを読んでぐっとくる人、これを読んでなにかを見出して実践していく人が、ずれまくりそうな気もします。
ともあれ、自分としては
出される課題を自分で実践してみた上で
少しづつ読み進めてみようかと思います。
講義を受けるみたいに。
「名文」を書けるようになる必要性はそこまでないですが。。。
おすすめです。
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ホットエントリになっていたので読んだ。
メモ。
多すぎる情報は想像力を奪う。
そのことを、谷川俊太郎とAV女優の自己紹介を対比させつつ示す。
言葉とはコミュニケーションだ。
ということは効率的なコミュニケーションのできる言葉が名文なのか?
しかし、個人的な言葉、ある特定の人に向かってのみ書かれた言葉の方が遠くまで行き、長く残ることが多い。
それを今度は斎藤茂吉のラブレターで示す。
オバマの演説から、不特定多数に向けている言葉なのに、受け取る人にとっては自分に伝えられているような印象をもたらす言葉を示す。
(たしか2/8読了)
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明治学院大学の「言語表現法講義」という講義を書籍化したもの。
よくある”文章術”って感じのものではなくて、いろんなことを考えてみたり、書いてみたりしながら文章・表現について考える。深い。
メモして手元に残しておきたいような印象的な部分が多く、なかなか面白かった。
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なんだかふにゃふにゃした文章。
……とだけ書いてから他の方のレビューを読んだら、けっこう皆さんこの本に対して好意的。驚いた。
そこで少しだけなんで私がこの本にむかつくかを書き留めておく。
まずタイトルの胡散臭さは誰もが感じているようだが、これはまぁあの朝日新聞社だからね。
でも著者にだってこの書名を了承したはずだから、責任がないとはいわせない。
著者はこんなことを語る。
「わたしは、この教室に入る直前まで、なにも決めてはいません。そのドアを開け、あなたたちの顔を見て、それから、今日はどんな課題を出したのだっけと思いだし、それから、「そこ」を眺めます。
…中略…
だから、あなたたちは、誰かが、なにかについて「考える」様子を、目の前で見ることになるわけです。そして、それ以上に「教育」的なことは、存在しないのです。」
なんでこれから何を話そうか教授が考えている所を見せるのが教育的なのかは疑問だがおいておこう。
だいたい「なにも決めていない」というのが嘘なのだ。
実際、こうしゃべった後すぐ用意したプリントを配っているのだからw
小学生相手だったら嘘が方便と言うこともあるだろう。
先生が答を知っているとわかれば、ガキンチョは「教えてー教えてー」と自分で考えることを放棄する。
そこで「先生も答は知らないんだよ。一緒に考えよう」と嘘をつく。
しかし、中学生以上だったらそんな嘘はむしろ害悪だ。
「もちろんこの問題に対する私なりの考えは持っている。
しかし、今君たちにやってもらいたいのは自分で考えると言うことだ。
私の考えを理解したり暗記したりしてもらうということではない」
こう言えば良いだけの話だ。嘘は必要ない。
この著者の嘘の背後には、そう語る自己を演出する嫌らしさを感じてしまう。
「適度な緊張は集中を産みます。その緊張や集中は、あなたたちに、いろいろなことを教えてくれるでしょう。
それらは、あなたたちにとって、最上の教師になってくれるに違いありません。
わたしなんかより、ずっと優秀な教師に」
これも「自分の書いた文章を皆の前で読むことが勉強になるのです」
といえばすむじゃないかということはおいておいて。
ここで著者は「わたしは優秀な教師だ」といっている。
「私は優秀だが、そのわたしよりも」という意味だからね。
そんなことは自分でアピールすることではないだろ。
この著者はあちこちで
「わたしの授業は普通ではない。貴重なものだよ。つまり価値が高いんだよ。
わたしは型破りな凄い授業をしているんだよ」
と繰り返しアピールする。
いらんってそんなもの。
教育者は学生が能力を伸ばすことだけを考えていればいいだろ。
自分を一所懸命売り込むことはないってばさ。
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いろんな矛盾があるように感じたけど、それが正しいのかなとも思った。
少なくとも、自分のことを考えすぎないようにしようと思えた事は良いことだと思う。
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すばらしい本でした。
誰かが何かについて「考える」ところを見ること、今私はそれができてとても幸せなんだと思う。
「見る」ことをし続けているだろうか。見えなくなってしまいたくないけれど、見えないという感覚にさえ気付けなくなったらだめだよね。
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● 「本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。」スーザン・ソンタグ
● 重要なのは、そのことではなく、「右きき」の人びとは、自分たちが「右きき」であることに無関心だということです。もしかしたら、「右きき」であることに気づいてさえいないかもしれません。それが「多数派」であることの意味なのです。
● 「左きき」であるということは、「右きき」ではない、ということに気づくことだ、といっているのです。あなたたちが「男性」であるのか「女性」であるのかは、それほど重要ではありません。重要なのは、「左きき」の人びとがいる時、その「横」に立つことができるか、ということなのです。