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紙の本
誰が本当の悪人なのか?
2010/09/09 23:15
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タール - この投稿者のレビュー一覧を見る
上巻ラスト近くでやっと約束を交わした祐一と光代が初めて出会うところから始まる下巻は、上巻でその人となりを充分浮きあがらせた周辺の人物達を主要な二人に絡ませながら急展開を見せていく。
祐一から殺人を告白された光代が、祐一を励まし自首させるため警察署前まで行きながら、「何かが決定的に終わろうとしている」感覚に襲われ、『逃げ切れるわけがないのに』「一緒に逃げて!」と叫び、『幸せになれるわけがないのに』「私だけ置いてかんで!」と祐一に懇願し泣きじゃくる場面が下巻の山だ。そして切なすぎる二人の逃亡生活が始まる――。
ところが、始まったと思ったら次の頁はもう最終章なのだ。メインストーリーが「殺人を犯した男と彼を愛した女の逃避行」であるにも関わらず、二人の逃亡生活を含め、出会いの瞬間からみていっても二人の場面は少ない。けれど、あっけないように感じながらラストまで読み終えた時、全てが腑に落ち、そして唸った。この作家はやっぱり手ごわい、と。
吉田修一の作品を読むのはこれがまだ3作目なのであまりどうこう言ってもいけないかとも思う。でも、最初の「最後の息子」ははっきりいってどう受け取ればいいのかわからず終わってしまったし、「パレード」では衝撃を受けはしたがどうにも感想を持ちにくい作家だなと感じた。そしてこの「悪人」では、つい右往左往してしまう心地を持てあましながらも、少しはわかってきたのかなという気がしたのだ。
吉田作品を読んでいて右往左往させられてしまうのは、登場する「現代の若者たち」の行動描写に、予測も分析も許されないまま対峙させられるからだ。気がつくと、どこかわからない遠くへひとりぼっちで放り出されている自分を見つける。それはまるで「何考えてるかわからないヤツ」と親友に評された祐一のような男に遭遇した時のように、理解したいと念じて頑張れば頑張るほどますます相手のことがわからなくなっていく虚無感に似ている。「悪人」が教えてくれたのは、こうした突き放し方からこそ「人」の中に潜む混沌とした精神世界がほぼ正確に映し出されるということだった。
「人の気持ちに匂いがした」――淡々と突き放した描写の中、ある意味で本当の悪人として描かれる立場にいる増尾をよく知る鶴田が今回はっきりと言ってくれていた。人の気持ちの匂いに気づくことができるかどうか。すなわち人の感情そのものを肌で感じることができる人間かそうでないか。わかりやすく言えばそれが「本当の悪」の境目になりえるのだと。「1人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなくなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなぁって」。それに気づけば、どんな理由だろうと人が亡くなったことを笑うなどできるはずがない。気づけないまま人を傷つけ自分が傷ついても気付かずにイラついている多くの人。それが現代の病巣をなすのだろう。
「誰が本当の悪人なのか?」帯にはそう記されているけれど、この物語にあるのは悪人でも悪でもなく、単なる「人」であり、人が行う「行為」だ。人の気持ちの匂いを本能的に求め続けたにも拘わらず、悪の行為を通してしか救われようとしない祐一が、ひとりよがりな男のようにも、底知れぬ愛を持つ人にも感じられる。光代の叫びが心に痛く残った。
紙の本
本当の「悪人」は誰なんだろうか。私には無責任に影に隠れたまま当事者に石を投げつける人間たちこそが「悪人」だと思えて仕方ない。
2010/07/31 17:36
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みす・れもん - この投稿者のレビュー一覧を見る
読み終えた今、思うのは・・・。
直接の加害者も、間接の加害者も、確かに罪を犯した。人の命を奪ったのだし、奪うきっかけを作ったのだし。
だけれど、本当の「悪人」は、一番の「悪人」は、この2人じゃない。そう思う。
本当の「悪人」は、匿名で被害者の遺族や加害者の家族のもとに、誹謗中傷を続けた見えない人間たちだ。その行為には「悪意」以外の何物も見いだせない。恐らく、自分の快楽・自己満足のためだけに人を傷つける。そして、素知らぬふりで誰にも責められることなく暮らしている。そういう人間が一番の「悪人」ではないのか。
裕一の本心はどうだったのか。誰にもわからない。けれど、その心の中にあるのは「悪」だけではないはず。殺人を肯定することは絶対にしてはいけない。それは許される行為ではない。わかる。それはわかるんだ。でも・・・。
裕一に温もりを求め、失いたくないがために一緒に居続けることを望んだ光代を責められるだろうか。心に何の曇りもなく、ただまっすぐに責めることができるだろうか。
被害者をもてあそんだ男。彼もまた本心はどうだったのだろうか。その中には「怯え」がなかっただろうか。そして、それを隠すために軽々しい態度をとっていたのではなかったのだろうか。それは傍目から見て決して気持ちのよいものではない態度だ。腹立たしさも感じる。しかし、彼の心の中もまた、「悪」だけではなかった気がする。
冒頭に書いた通り、本当の「悪人」は、人を傷つけ喜ぶ傍観者たちではないか。自分たちは罰も受けず、罪悪感も持たず、ただカヤの外で他人に石を投げ続けている。それこそが「悪」ではないのか。そう思えて仕方がない。
紙の本
悲しみがいっぱい
2016/03/10 23:04
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:おさる - この投稿者のレビュー一覧を見る
九州の舞台の作品ですが、
娘を失った父親の悲しみや日々を真剣に生きることのできない若者達や
どこかに悲しみを抱えた人達が登場する。
何かを失うことも悲しいが、得ることがないことも悲しい。
悲しみいっぱいの世界を灯台の元で感じてください。