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胡錦濤・江沢民・汪兆銘・胡適などがその末裔である「徽州商人」の台頭と衰退をまとめた本である。スキナーによると中国は19世紀でも一つの流通圏ではなく、10の経済圏に分かれていたそうである。上田信氏によれば、圏内では銅銭、圏外との貿易には銀が使われたそうである。ちなみに「貿易」という中国語は国内貿易もふくむ。当然だが、それぞれの経済圏には大量生産できるものとできないものがある。塩はこうした商品の代表で、これを制したのが「山西商人」(陸路の商人)と「徽州商人」(水路の商人)であった。明の初期は現物経済の側面がつよく、長城のある北辺に軍糧を納入し、塩の販売権を入手、沿海の塩産地から買い付けて、高値で売りさばいた。この「開中法」という制度は前線にちかい商人が有利で、まず台頭したのが「山西商人」だった。彼らは同郷の官僚がモンゴルと和議を結ぶと(隆慶和議、1571年)、国境貿易で利益をあげ、1727年のキャフタ条約以降はロシアとの国際貿易も独占、四川に商圏を拡げ、チベットとの茶馬貿易も推進した。19世紀になるとロシアが直接中国内地で貿易を行うようになり衰退するが、「山西票号」という金融業に進出、全国に支店網を張り、遠隔地送金をおこなった。20世紀に入り、銀行が発達すると、山西商人は商業史の表舞台から消えていく。三国志の英雄、関羽が財神になったのは、山西商人が郷土の偉人を崇めたからだ。徽州商人の故郷は安徽省徽州府(黄山市)である。ここは長江を漢口に遡る水路、大運河を北京に北上する水路、広州に南下する水路にアクセスできた。徽州商人の台頭は15世紀末の「開中法」の改革にはじまる。新法では塩商は北辺に穀物を納入する必要はなく、直接塩産地の「塩運司」にいき銀を納入、塩の販売許可書(塩引)を受け、塩を仕入れて所定の地域で販売できるようになった。納入された銀は前線に送られ、軍事物資の購入に充てられた。つまり、現物経済の側面が弱まり、貨幣経済に転化したのだ。これで塩産地に近い商人が有利になった。塩は11の生産地ごとに販売地区が定められ、全国の塩の1/4の売上を占めていたのが揚州であった。徽州商人は蘇州・杭州などの江南デルタの穀物や、農民がつくる絹・木綿の流通も手がけ、茶・藍・漆・紙・墨といった山林産品も商い、大量に銀が投下された北辺にも進出、後期倭寇期には海上密貿易も行い、南京木綿・絹・景徳鎮の陶磁器を日本や東南アジア、ポルトガルに売った。許棟・王直・徐海など密貿易のリーダーは徽州出身である。長崎の寺にも徽州商人の墓があるそうだ。彼らは書籍も扱い、徳川吉宗の注文した『古今図書集成』1万巻を日本にもたらしたのも汪縄式という徽州(新安)商人である。清代になると軍事地帯の消滅とともに満州・モンゴル・ロシアの市場は山西商人に握られたが、徽州商人は揚州の塩、蘇州の糸や織物、四川の米などを長江を東西に流通させ、乾隆年間に最も繁栄した商人になった。揚州では塩の専売税を一括して納入する「総商」が現れ、「塩引」を「運商」に転売し、「引市」という相場もたった。学問・芸術にも投資し、清朝考証学は揚州の徽州商人がパトロンだった。考証学は多くの文献を渉猟するので金のかかる学問なのである。蘇州は絹織物���木綿の産地でもあり、日払出来高制で働く職人が多く、18世紀の蘇州には綿布のつや出し業者だけで450軒あり、ストライキなども起こった。漢口は長江と漢水の合流地で、北方にもアクセスできる商人の都であり、1704年には徽州商人たちが1万両を投じて「紫陽書院」という会館をたてた。紫陽は朱熹(朱子学の祖)の号で、朱熹の祖先は徽州の出だそうである。また、当地で消防隊・学校・自警団の設立など公益事業も起こした。徽州商人は手工業を産業化しなかった。江南デルタは耕地が開発されつくし、人口増が続いたので、農民は手工業で家計を補充しなければならず、つまり安い労働力に事欠かなかった。したがって、設備投資や労働の組織化、技術改良などのコストをかけるメリットがなかった。18世紀後半、イギリスで産業革命が起こり、インド産綿花やアヘンを中国に輸出、中国から銀の流出がはじまった。19世紀初には中国内地の開発が頭をうち、人口の急増から失業人口が増加、失業者が塩やアヘンの密売に流れ、銀の高騰とあいまって、塩商が損害を被った。絹や綿布も湖北・四川の生産が増加、長江を通じた貿易が縮小し、そこへイギリスの機械織綿布が入った。安くて丈夫な中国綿にはまだ競争力はあったが、国内外の資本で紡績工場がつくられ、しだいに市場を奪われた。徽州商人の衰退を決定的にしたのが、「太平天国の乱」(1851-64)で、徽州が戦場となり、南京・揚州・蘇州・杭州などの拠点が破壊され、多くの人命を失い、彼らの生命線である同郷ネットワークも寸断、再建は至難だった。そこへ「海の商人」寧波商人が台頭してくる。彼らは北洋海運をリード、南京条約(1842年)で開港された上海を拠点に金融業に進出、欧米資本の代理(買弁)として上海・漢口間の蒸気船による貿易を掌握、徽州商人は盟主の座を追われた。しかし、近代、徽州商人は主に茶商や木材商として残り、生糸や絹の商いも日本製品と競合しながらつづけた。意外だが、19世紀のアメリカでは紅茶より緑茶が消費され、当時のアメリカ人は緑茶にミルクと砂糖を入れて飲んでいた。この緑茶は徽州産であった。祁門(キームン)紅茶は19世紀末に開発されたもので、欧米市場で歓迎された。胡適の父、胡伝も父が茶を買いつけにいく間は店を任されていたが、学業が優秀だったので、科挙をうけ、初級試験に合格、北京で高官の幕僚となり、その推薦で江蘇省の官員となった。在任中に胡適が生まれたそうだ。全般に知らないことが多く、とても興味深い内容だった。清代の短篇小説集『三言二拍』に徽州商人の話が多く、いくつか書いてある。80年代から注目された「徽州文書」(14世紀〜20世紀の契約書が土地改革や文革をくぐり抜け残った)についても少し紹介されている。『士商類要』(1626年)という実用書(交通情報・健康法・風水・人生訓・天気予報をコンパクトにまとめたもの)も興味深い。徽州商人は中国人らしく宗族・同郷のネットワークを駆使し、500年もの間、中国の流通を担った。19世紀の徽州商人は3年に3ヶ月しか故郷に帰らず、「一世夫婦三年半」といわれたそうだ。12年で1年の夫婦、42年連れ添ってで3年半である。妻にも会わず、遠くまで出ていき、よく働いたのだ。