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NHKのETV特集「死刑囚永山則夫」を観て、雑誌「創」により著者がこの著書を世に問うまでの産みの苦しみを知り、手に取った。著者の取材は丁寧に、地道に続けられた。永山則夫が獄中結婚した元妻、当時の裁判に関わった裁判官、弁護士、永山が拘置所で文通を続けた元死刑囚、そして最後に光市母子殺害事件で死刑判決を受けた元少年にまで取材は及んだ。その仕事は「死刑廃止」でも「死刑存置」でもない、被害者、加害者どちらの視座にも偏らない、はじめに結論ありきではなく、今まさに「死刑を問う」という姿勢に貫かれている。誰でもが裁判員となり、誰かを裁く機会がある今、誰かの理論に乗るのではなく、襟を正して自分自身に問うべきである。私たちは被害者にも加害者にもそして裁く側にもなりうるということを肝に銘じて。
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取り返しのつかない罪と取り返しのつかない刑罰
取り返しのつかない罪を犯すことはないと誓って言える人々でも、取り返しのつかない刑罰を選択せざるを得ない立場に立たされる。それが裁判員制度なのだということを知る。
そのとき改めて死刑存置か廃止かという議論が起こるのだろうか
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裁判員制度の始まった今、とても考えさせられる一冊となった。大変丁寧に調べられて、永山則夫の人生はもちろん、裁判官、弁護人の心情にまで踏み込んで、命の重さ、死刑という取り返しのつかない刑罰の在り方に光を当てている。
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極貧の中で育ち母にも捨てられた永山則夫は19歳で4人を殺し1審で死刑となる.その後獄中で勉強し,本を出版したり結婚したりと生への執念を見せ2審で無期懲役.しかし最高裁で再び死刑が確定する.その時の最高裁の判断が後まで永山基準として死刑か無期かの判断に使われるようになった.著者は光市の母子殺人事件の犯人にも面会に行き心境を聞いたりしている.裁判員制度が導入され人ごとではすまされなくなった死刑求刑について考えるためには役に立つ本だと思う.
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内容については他の方が書かれている通り。死刑制度のありようについて非常に考えさせられる。裁判員制度が始まり、死刑が求刑されるケースも出てきた今、読んでおいて損はない・・どころか、読んでおくべき良書だと思う。お値段が結構するのでまず図書館で借りて読んだが、丁寧な取材とアクがなく読みやすい文章、またそこから伺える著者の真摯な姿勢に敬意を表したく、また家人にも読んでもらいたくて購入した。
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死刑の基準「永山基準」。言葉だけは知ってたけど、どんな事件の裁判か全く知らず読んでみた。熱い。僕が生まれた頃、4人の無差別殺人を起こした永山則夫、獄中で想いを綴り出版した本に打たれて獄中結婚した妻和美2人の半生、最高裁までの判決の移り変わり、裁判官達の想い。特に奥さんの想いがすごい。壮絶な2人の生き様に驚くが、結局のところ知られるところとなった永山基準はただの因子であって、基準ではなかった。3回の判決が交錯したことからもやっぱり客観的に判断できるものではなく、生と死の堺を同じ「人間」が決めるというところの気持ち悪さが残る。裁判員裁判が始まったが、すべての死刑裁判がこれだけ徹底した調査に基づいて、そのうえで判断されるようになれば良いが難しいんだろうな。
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死刑の基準−『永山裁判」が遺したもの堀川恵子
日本評論社2009年発行
筆者は
1669年網走生まれ、元広島テレビ放送の報道記者、ディレクター
2004年退社現在フリーのドキュメンタリーディレクター
19490627網走生まれ 8人兄弟の4男
父は青森県板柳生まれ、腕の良いりんご剪定職人だったが博打に狂った
謝金で家をとられ網走へ
母は北海道利尻島生まれ
1954母が板柳へ帰る、置き去りにされた4人のこどもたち、父もいなくなる
5さいころ 網走から板柳へ移る
中2のとき ずっと家を出ていた父が岐阜で路上死
1965東京へ集団就職渋谷 西村フルーツパーラー
19690407永山則夫逮捕 19歳
19790710東京地裁死刑判決
19800607和美さんからのはじめての手紙が届いた
19801025和美さんアメリカから羽田空港へ
和美さん遺族への謝罪の旅、
19801212和美さんと面会室で結婚
198104行き倒れて入院していることがわかった永山の母に会いに行く
18810408ずっと恨んでいた母トヨに母の読めるカタカナで手紙を書く
ー以後1993年に母が無くなるまで手紙、季節の食べ物、お金など送り続けた
19810822東京高裁無期懲役判決
世論、マスコミは無期懲役判決を一斉に批判
19830708最高裁で差し戻し
19860403和美さんと離婚
19870318東京高裁死刑判決
19970801死刑執行 48歳
200903著者が和美さんと会う
永山則夫が処刑されて12年、裁判員裁判が始まろうというときに
著者は永山則夫が遺した膨大な手紙や資料を読み込み、
裁判官や弁護士を含めて、関係者に直接会ってゆく
著者の誠実な読み込み、調査や関係者と会ったときの言葉から
永山則夫やその母、その父、獄中結婚した和美さんの姿が浮かび上がってくる
また裁判官、弁護士など関係者のの経歴、人柄、考え方も見えてくる
特に和美さんとの出会いから無期判決までの奇跡的な経過
その後の差し戻し後の別れへといたる経過など
無罪判決
殺人という罪、贖罪、人が人を裁くことの重さ、死刑というものについて深く考えさせる本でした
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【死刑制度のこと、一度は考えてみてほしいです】
今、日本では「死刑容認」が約8割と言われています。そんな中、裁判員裁判開始後、死刑判決の際によく聞くようになったのが「永山基準」です。本書では当事者である永山死刑囚の死刑までの日々を含め、基準ができた背景について詳しく書かれています。
遺族の立場になれば、凶悪犯罪に憤りを感じ、「死刑止む無し」と思うのも仕方ないかもしれません。でも、受刑者の立場や彼らが受ける死刑の実態、制度自体に目を向ける人がどれだけいるでしょうか。自分はこの本を読み、執行を待つ死刑囚の心境や刑場の雰囲気などを知ってこの問題に興味を持ちました。
冤罪の可能性、そして更生の可能性もある中で市民が判断しないといけない現状。その意味でも感情先行で「知る・考える」ことを置き去りにするのではなく、この本を通して少しでも死刑について知ってもらい、身近な問題として捉えてほしいです。
(2011ラーニング・アドバイザー/教育 TAKEDA)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1389779&lang=ja&charset=utf8
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永山裁判、永山則夫についてはすでに多数の著作が出ているが、まとまったものを読んだのは初めてだった。それにしても、いわば論じつくされているこの題材を対象としたこの本を「新製品」(猪瀬直樹)たらしめているものは何か、という関心で読み進んだ。
一つには、永山の大量な遺品に直接アクセスしたことが大きいだろう(5年前に通信社の記者である知人にそのことを知らされたという話は出てくるが、具体的にどのようにアクセスしうるに至ったのかについては書かれていない)。そこに含まれる1万5千通にものぼる書簡が、随所で引用されている。また入手方法は明らかでないが、本人の肉声を収めた録音テープというのも、インパクトの大きい新たな材料である。
もう一つ、永山が獄中で結婚し、その後、最高裁への上告後、離婚した和美さんへの直接取材も大きい。著者の和美さんに対する共感が、取材の成功につながっているという印象を受けた。
本書のタイトルは「死刑の基準」である。読み進む中で、このタイトルと話の中身とにはギャップがあるのではないかと感じた。本人の書簡や録音テープをもとに永山の生い立ちや永山裁判を描き直すことには新しさがあるだろうが、そのことが、「死刑の基準、『永山基準』とは一体、何なのか」(9ページ、プロローグ)という問題意識とが最初、私の頭の中では結びつかなかったのである。
光市母子殺害事件の裁判を通じて、著者が改めて「永山基準」という言葉に出会ったこと、そして「その名に使われた元死刑囚、永山則夫、まさにその人の手つかずの遺品が手の届く場所にあ」り、「私はこのテーマに向き合い、徹底的に調べてみようと決心した」という、取材に着手するまでの流れはよく分かる。しかし、永山の生い立ちや永山裁判のディテールと、永山基準がどうつながっているのか、読むまではピンと来なかった。
しかし、通読してみて、いわば一人歩きする「永山基準」への著者の疑問や、それを解くにはこの「基準」が生まれた背景にまでさかのぼらなければならない、という著者の戦略がよく理解できた。遺品にアクセスできる、という取材上のアドバンテージと、死刑の基準という問題意識をうまく結びつけて結晶させたところに、この物語の成功の鍵があると感じた。
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永山事件を自分は知らない。生まれる前に起きたからだ。死刑に対しては絶えない議論がある。作者は犯人の人間にスポットwpあてて、議論の出発点にしようとする。
九州大学:立池
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先に読んだ『永山則夫』が、本人の録音テープを元にその生い立ちを丁寧に追い、犯行に至るまでとその後をまとめながら、より永山則夫という人物(直接の取材でないだけに、残されたものからの推察、分析の範囲を超えないことは致し方ないが)に迫り、さらには彼を犯行へと走らせた要因となるものを探ろうとした作品であったのに対し、本作は、永山の獄中書簡なども交えながら、裁判の記録やかかわった司法関係者への取材をもとに、タイトル通り、永山裁判がもたらしたものについて、司法の在り方について、問いを投げかける作品となっている。
永山のテープが発見されてから先の作品をまとめたものと思っていたが、本作を書いていた時点で、録音テープの存在は明らかになっていたようである。テープの中身を本作執筆にあたっても参考にしたか否かについては触れられていない。
自分は司法については全くの素人であるので、難しいことはわからない。
ただ、本作をはじめ、司法の在り方について問題を投じている作品を読むにつけ、常々感じるのは、人が人を裁くことの難しさ、である。
何より、人が人を裁くことなど、一体全体、本当にできることなのだろうか?
作中、永山と関わった人物、また幾人もの司法関係者の言葉が引用されているが、そのどれもが、結局死刑という判決を受け、執行された永山則夫という人物、はたまた同じように不遇な家庭環境で育ち困難を抱えた人物をそこから救い出すことのできる手立て、その本質に迫っているものに思えてならない。
司法の場は、仇討の場ではない。犯した罪を罰するのに見合った量刑を決める場である。その量刑は、ある要素を満たすと自動的に決まってくるような機械的なものではなく、一件一件それぞれに判断すべき材料があり、情状があり、様態がある個別のものだ。
では、唯一無二の、人の命を奪ったら、その罪を償うにはどうすればいいのか。加害者の命をささげれば、奪った命は戻るのか?殺したいほど憎いと思う遺族の心は晴れるのか?罪の重さも実感できず、自暴自棄なままの加害者を死刑にすることが、他人を殺めたことの償いとなりうるのか?
おそらく正解はないのだろう。家族を殺されたことなどない私に、軽々しく答えを出せるような問題では決してないことくらいよくわかっている。
ただ、罰するだけで何かが解決するのだろうか。同じような因果で犯罪を犯してしまう人物をなくすことはできるのだろうか。この社会で、本当にするべきことが何か他にあるのではないか。
修復的司法という考え方を取り入れることは難しいのだろうか。
そんな思いにとらわれないではいられないのだ。
ただの傍観者の戯言でしかないのだろうか。
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【死刑判決に拍手と歓声?】
2009年4月、光市母子殺害事件の、高裁での差し戻し判決。広島の元同僚から聞いた、判決当日のようすを聞いて、著者はことばをうしなった。
▼判決当日、広島高等裁判所のまわりには、判決を待ちかねる報道陣のテントや中継車が所狭しと並び、傍聴券をえられなかった市民たち数百人が敷地内に残っていた。せめて判決を聞いてから帰ろうということであった。死刑判決であれば、主文は最後に言い渡されるから、午前10時過ぎには結論が分かるのだ。
法廷では主文が後回しになった。記者たちが判決を生中継で伝えるため、お決まりのスタイルで法廷からダッシュで玄関先へ飛び出してきた。「主文は後回しです、死刑判決が濃厚です!」と興奮のまま大きな声で繰り返した時のことだった。まわりにいた市民たちから、拍手と歓声があがったというのだ。(p.7)
著者は、裁判が進むなかで、具体的な争点や死刑と無期を分ける法律的な論争などがまったく聞こえてこないまま、世論が日ごとに被告人に対する"死刑コール"の様相を濃くしていくことに気持ち悪さを感じてもいた。
【永山則夫が書簡に記した"生きた言葉"】
永山則夫は膨大な書簡を遺している。1970年代後半から、手紙を書く際にカーボンで複写を取ったり、別の便箋に控えを取ったりしていた自分が出した手紙と、受け取った手紙をあわせ、その数は1万5千通をこえる。「永山は、二つの言葉を使い分けて生きていた。社会を糾弾するための、"たたかう言葉"、そして、自分自身の本音を語る"生きた言葉"である」(p.18)。その"生きた言葉"を、著者は多くの書簡の中にみる。
▼永山の「本音」と「心情」が交錯する書簡は貴重な材料である。それら膨大な書簡からたどることのできた関係者の証言や、永山事件にかかわった元裁判官たちの証言は、これまでの永山則夫像を覆し、永山裁判の隠された真実を明らかにするものとなるだろう。(p.22)
この本は、永山書簡とその周辺の人びとの取材を通して、死刑の基準のように言われてきた「永山基準」が、どういう経緯で判決として書かれたか、またその後の運用のなかで当初の意図とはずれたかたちで普及してしまったことを明らかにしている。
【控訴審の無期懲役判決】
永山則夫が起こした事件の控訴審に臨むにあたって、船田光雄裁判官は、「死刑」という判断を下す際に裁判官、ひいては裁判所がどうあるべきかを示す決意があったと思われる、と著者は書く。弁護団との事前打ち合わせで、船田裁判官が「石川鑑定」(*同じ著者の『永山則夫 封印された鑑定記録』に詳しい)を細かく読みこんでいることを確信し、同時に最初から死刑だと決めつけてこない姿勢を感じ取って、弁護団は情状をメインにする審理をしようと考えた。
船田裁判官は、若い頃に携わった二つの裁判で、自分が無期懲役相当と思った事件が死刑になり、自分が死刑相当と思った事件は後に無期懲役に減刑されて確定するという経験をしていた。自分が思うのと反対の結果になったこの経験で、もし自分が裁判長であれば、それぞれの裁判は逆の結果になっただろうという��とに船田裁判官は疑問をもった。日本の裁判所で同じ事件を審議し、死刑になるか否かが問われるときに、裁く人によって結果が違うようなことで本当によいのかと考えたのだ。
有期刑での量刑の長短とは次元が違う。「死刑」か「無期懲役」かを争う裁判は、人の命がかかっている。ある裁判官に当たれば死刑で、別の裁判官に当たれば生きられる、これでよいのかと船田裁判官は考えたようだ。
死刑の原判決を破棄、無期懲役の判決としたその判決文で、船田裁判官は、そのことを書いている。
▼しかしながら、死刑はいうまでもなく極刑であり、犯人の生命をもつてその犯した罪を償わせるものである。…(略)…死刑が合憲であるとしても、その極刑としての性質にかんがみ、運用については慎重な考慮が払われなければならず、殊に死刑を選択するにあたつては、他の同種事件との比較において公平性が保障されているか否かにつき十分な検討を必要とするものと考える。ある被告事件について、死刑を選択すべきか否かの判断に際し、これを審理する裁判所の如何によつて結論を異にすることは、判決を受ける被告人にとつて耐えがたいことであろう。…(略)…極刑としての死刑の選択の場合においては、かような偶然性は可能なかぎり運用によつて避けなければならない。すなわち、ある被告事件につき死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあつても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定せらるべきものと考える。立法論として、死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあつても考慮に値するものと考えるのである。(pp.219-220)
*偶然性[=裁判所によって刑期に長短があったり執行猶予がついたりつかなかったりすること]
【高裁判決への批判、死刑コール】
永山の無期懲役の判決を受けて、法廷から出てくる和美さんを撮影しようとするマスコミに、和美さんは「どうか遺族の人々の心も分かって下さい」と撮らないよう頼んだ。「生きて罪を償うということは、私たちにとって助かったっていうことじゃなかったんです。命が助かったんではなくって、より重い『ごめんなさい』の始まりだったんです。愛する息子を殺されたご両親たちのことを思えば、喜ぶなんてできません。無期になったから嬉しいのではなく、生きるということの意味を、どうか分かってほしいという祈りだけしか私にはありませんでした」(p.226)という和美さんは、与えてもらった命を、永山と一緒に分け合って生きるのだと思っていた。
だが、週刊誌などでは船田判決への批判が続く。著者は、当時の新聞や雑誌に目を通して、まるで光市母子殺害事件の裁判での差し戻し審でマスコミがこぞって起こした死刑コールと同じだと思う。
司法においても、船田判決の衝撃は大きかったという。当時、東京高等検察庁の検事だった土本武司さんは「裁判官にあるまじき判決」だと思ったと語っている。
▼「…無期を下した船田判決は、その前提として、死刑にするにあたっては、誰がその衝にあっても、つまり、どの裁判官が当該事件を取り扱っても死刑ならば死刑ということでしょう。、そこまで表現をするということは、行間には死刑は廃止せられるべきである、俺は死刑の適用はしないということをいっているのと同じだと思いました」(pp.244-245)。
弁護団が確定を願った無期懲役判決は、検事上告され、最高裁に判断が預けられた。
【「原則は死刑不適用」のねじれた理解】
著者は、このとき永山事件が係属した最高裁第二小法廷で調査官として事件を担当した稲田輝明さんに会っている。最高裁判決に関わった判事はすでに全員が鬼籍に入り、当時を知るのは稲田さんのみ。稲田さんは、永山事件についての「判例解説」(最高裁の判例委員会の議論を経て出された正式な見解)を書いている。
永山事件の最高裁判決と、稲田調査官による判例解説を照らし合わせると、位相の異なる「総論」と「各論」が見え、その両者のねじれが、その後のさまざまな誤解をうんでいると著者はいう。
最高裁判決は、死刑の適用には慎重でなければならないと、高裁での船田判決の精神は肯定している。そのうえで、9つの量刑因子として「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等」をあげて、やむをえないと認められる場合には死刑の選択も許される、としている。
最高裁も高裁も、基本的に「原則は死刑不適用」で「例外が死刑」という主張だ。稲田調査官は、9つの量刑因子についても、従来から死刑判決にあたっては慎重に判断すべきとされてきた因子で目新しいものではなく、それらと基本姿勢を改めて明文化したにすぎないという。
そのうえで、1983年の最高裁判決は、個別のケースとして永山の事件を差し戻した。
▼永山事件の最高裁判決は、「基準」という言葉そのものを明示したわけではなかった。しかし、その後に行われた死刑事件の裁判の審議においては、最高裁判決の「各論」、つまり破棄された永山事件と比較検討して結論を導き、判決文には九つの量刑因子を掲げた「総論」の表現を引用するという手法が多くとられている。そのような運用が続くうちに、九つの量刑因子を満たせば死刑にゴーサインを出せるその根拠として「永山基準」が存在感を強めてきた。
【高裁の無期懲役を破棄差し戻し】
永山事件の後、高裁で無期懲役とされた判決を最高裁が破棄して差し戻した、3番目の事例が、光市母子殺害事件だった。広島高裁の差し戻し審では死刑判決が下された。
これは、「永山基準」を引用しながらも「特に酌量すべき事情がない限り、死刑を選択するしかない」としており、「原則は死刑不適用」から「原則は死刑」へと、永山基準の精神を覆したと指摘する専門家も多いという。さらに18歳になって間もない少年であったことは「死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえない」と、少年事件を扱う基準を大きく踏み出すものになったという指摘もある。
1997年、最高検察庁は、被害者が1人で、高裁で死刑が無期に減刑された事件を5件連続で上告した。うち4件は棄却されたが、1件は高裁に差し戻した。これが高裁無期を最高裁が破棄した戦後2番目の事例で、「被害者が一人でも死刑が下せる」という実績作りとなったと著者は書く。
1997年以降の厳罰化は、死刑適用の拡大にもみてとれる。1997年に出された死刑判決は9件、それが2007年には46件、2008年には27件となっている。
▼「死で償う」という言葉がある。しかし「死刑」は、被告人に"更正(ママ)"は求めていない。反省しようがしまいが、償おうとしようがしまいが、ただ殺す"罰"である。社会に不都合な存在を抹殺し、永遠に葬り去ることで、私たちはそこから何を学べるのだろうか。(p.338)
【人を裁くことのこわさ】
稲田調査官は、九つの量刑因子だけを取り出して「永山基準」と呼ぶのは、判決の精神を理解しないものではないかと語っている。現在おこなわれている裁判員裁判で、死刑判決にあっても「多数決」で運用されていること、つまり9人のうち5人が死刑だといえば、他の4人の異論があろうと死刑が下されることも、死刑の選択には慎重であるべきだという精神を理解していないのだろう。
稲田さんは「逆に自分が裁かれているような気持ちになった」と後に刑事裁判官を辞めている。真実を知っているのは被告人だけであって、裁判官である自分が読み上げている判決が正しいのかどうか、人を裁くことが怖くなったのだという。
* * *
裁判員裁判が始まり、裁判員をあまり長く拘束はできないと、審理は迅速におこなわれるようになっている。そこで「慎重であるべきだ」という死刑選択が、本当に慎重におこなわれているのかと疑問に思うし、多数決のようなことで死刑判決が下されて本当にいいのかと思う。
著者の取材に応じてくれた、永山の中学校時代の同級生で学級委員長だった佐川克己さんは、判決が死刑に戻ることが確実と予想された東京高裁の審理で、「永山が、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるのだったら、同級生だった自分としては、何かできることをしたい」と永山側の証人として東京へ足を運んだという。
「…(略)…逮捕されてずいぶん経ってから、新聞なんかに載るようになった写真が一枚あるでしょう。拘置所かどこかで撮ったんでしょうけど、ちょっと上を向いた感じで、少し誇らしい感じで明るい顔をしている写真。あれを見てね、ああ、良かったなと思ったんです。監獄って所は死刑を待つだけの暗いところかと思ってたら、彼の場合はそうじゃなかったんだよね。まあ、本来は人を更正(ママ)させる場所だからね。
生まれてから逮捕されるまでずっと暗い陰気な顔だった永山が、逮捕されてから監獄で色んな人たちと出会って、初めてあんな明るい表情ができるようになったんだろうなあって、思えたんですよ。」(pp.48-49)
佐川さんがそう言った写真は、278日をかけた「石川鑑定」の最終日に、石川医師が撮影したものだ。このこと一つとっても、少年事件に向き合うこと、被告人に向き合うことには時間が必要だと思える。
「いっしょに生きよう」と永山に会いにきた和美さんの存在が永山の心を揺り動かしたことも、強く印象に残る。『無知の涙』を読み、永山と手紙を交わすようになった和美さんは、自分がこれからどう生きていくか、永山との文通を通して、自分の過去を整理し、生きる力を得ていった。
だが��自分を救ってくれた永山は処刑されて死のうとしている。幼い頃から親の愛も知らぬまま絶望と生きてきて引き金をひいた永山の姿は、一歩間違えば自分だったと和美さんは思う。「則夫の元に行ったのは、則夫のために何かをしようと思ったわけじゃなくて、"生きたかった"からなの。生きていきたかったの。与えられたこの命で、"一緒に生きていこう"と思ったの」(p.146)と和美さんはふりかえって語っている。
2人は20~30分の短い面会時間ながら毎日のように会い、話しきれないことは手紙で毎日のように送りあったという。和美さんがアメリカから日本へ来て一週間後の手紙で、永山はこう書いている。「ミミからの手紙を読んだ後、事件のことを忘れるくらい幸福感がありました。オレにも人としての感情があるのだなと強く思わせてくれました」(p.156)。
人としての感情をゆさぶられる、それくらいやわらかな心を取り戻すことのないまま、死刑送りにしてしまっていいのかとも思う。謝罪も償いも、そこからという気がするから。
(5/13了)
*途中、えらい誤字が多かった。変換ミスと思えない箇所もあり、謎。
p.149 閉塞館 →感
p.137 心を沈めた →鎮めた、あるいは静めた
p.147 初対面から永山は強行だった →強硬
p.156 家族のなかでたった一人親っていた長姉 →慕っていた
p.162 若干二八歳の →弱冠
p.172 主人裁判官として →主任
p.174 「盾の会」を主催 →「楯の会」、主宰
p.279 『死刑なんだよ』っておわなければいけなの? →いわなければいけないの
「更生」を使うと思われるところが、ほとんど「更正」になっていたのも気になった
p.49、p.163、p.206、p.330、p.338等
*『ウィメンズ・ステージ』 No.33(2012年8月)
堀川惠子さんインタビュー「死刑問題から見えてくるもの 社会が、家庭が、ゆがんでいる」
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永山裁判が死刑の基準といわれるのは「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき……極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。」という最高裁判決の一部を指す。実際には無期懲役と死刑を並べたとき死刑は「例外」のものであり、死刑にするにはよほど情状が悪くなくてはならない。死刑を選択する場合には裁判官全員の一致とどの裁判所においても死刑を選択するであろう罪状であることが求められるべき。死刑とその他の刑は別次元である。死刑は余程慎重になされなければならない。裁判員裁判が導入された今、他人事ではない。
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無知の知という言葉を、知った時、どうかんじていたんだったか、記憶が曖昧。永山則夫の生涯、和美さんの生き様に、人間が生きる事の難しさに思いを馳せた。
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永山裁判を担当した裁判官の話がすごい。自ら真相を探ろうとする裁判官もいたと知った。しかし、そういう裁判官を潰して行った裁判所組織の強烈さに、絶望を強めざるを得ない。
永山則夫が殺人を犯したのは事実だろうけれど、その人を死刑にしても何の益もないと思わされる。劣悪な家庭環境から脱せず、悪循環に嵌る子供を救える社会を作れなければ、こういう殺人は繰り返される。現代がそうであるように。