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リアル・シンデレラ みんなのレビュー

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みんなのレビュー96件

みんなの評価4.0

評価内訳

96 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

リアル・シンデレラは、自由を得て

2010/05/28 01:45

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:楊耽 - この投稿者のレビュー一覧を見る

童話「シンデレラ」について調べていた編集プロダクションのライターが、「シンデレラは幸せになったのか」と疑問を持つことに端を発するリアリズム小説です。
この疑問に意気投合したプロダクションの社長から、知り合いの女性「倉島泉」を紹介され、取材を始めます。
「幸せになったシンデレラ」とは、本当はこのような人の事を言うのではないか。
物語は、倉島泉の半生を描いています。

僕は、まず、次のような中年の無駄話を聞いて、疑問を持つ人に、この本を薦めたいと思いました。
例えば職場の昼休み、節電のために照明が落とされた事務所で、食後のおじさん二人が世間話をしていたと思ってください。
「今の若者は、車に興味が無いんだってさ。」
「俺たちの時には、学生時代にアルバイトをして、食費を削っても車を手に入れたもんだよな。」
「俺は、割りのいいバイトにありつけなかったから、就職して頭金を貯めて、ローンで4WDのクーペを買ったよ。」
「今は不景気だから、若者は車を買う夢が見られないのかね。」
「そうだな。俺たちは、なんだかんだ言っても、バブル景気を経験しているからな。」
「今の若者はそう言う意味ではかわいそうだよな。」
昼休みに聞こえてきそうな例を考えました。

車に興味のない若者は、かわいそうか。
景気さえ良ければ、今の若者でも車に興味を持つのか。
あえて、「それは違うよ。」と言うほどの事でも無いと思いますが、
このように、自分と価値観が違う人たちに対して、思いこみで哀れみを持つ人に違和感を覚える人がいれば、僕は、彼らにこの「リアル・シンデレラ」を読んでもらいたいと思いました。


僕は、この小説を読み終えた直後に「倉島泉は幸せだったのか。」「幸せになったシンデレラと言って良いのか。」と考えました。
僕が今まで漠然と考えていた幸せ=生活に困らない収入があり、結婚をして、子どもを設け、とりたてて裕福でなくても良いから、子どもが健康に育っている状態など=を基準にすると、倉島泉が幸せを得たとは考えられません。
倉島泉が幸せだったとすれば、彼女の幸せは、僕が今まで考えていたタイプの幸せとは、異なるタイプの幸せであるはずです。
それは、どのような幸せなのか。
それを考えました。

そして、それを考えている時に、上記のような例を想い浮かんだのでした。

若者が車に興味が無い理由は単純には、経済的余裕が無いからかもしれません。
または、別のもの(例えばケータイやPC)に興味があるかもしれません。
理由はどうあれ、それを以ておじさんたちに「かわいそう」と思われるのは違うと思います。
何故、違うのか。
それを考えるのは、倉島泉が幸せな一生を送ったことを即答できないのと同じように思いました。


今日で、読み終えてから五日ほど経ちました。
読み終えてから今日まで、「倉島泉の幸せとは何か?」とぐるぐる考えながら(日中はお仕事して、家に帰れば風呂に入って、飯食って、TV観て、歯を磨いて、寝ていたのですが、)過ごしていました。

そして、本日、ふと思い浮かんだので、ここに本の感想として、思い浮かんだ答えを書きます。


おそらく、それはイマヌエル・カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感なのではないでしょうか。
お金で買える幸福感は、欲望を満たすものであり、満たされた欲望は、自分の自由意志で得たものでは無く、逆に欲望の奴隷として行動した結果です。
自分の家族を得て、子どもが順調に育つのを見守ることからも幸福感が得られますが、その幸福感は、どんな生物にも共通の本能的な欲望に従っているものだと思います。

一方、倉島泉が得た幸せは、自分で願った行動規範に従った結果(物語では貂に願った三つの願いから)得られる幸福感であり、これは、つまり、カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感だと思います。
それは、人間だけが持つ理性による幸福感であり、
好景気の折りに、金で買ったものから得られる幸福や、
不景気でも家族と一緒にいられる幸福とは別の次元のものです。


現在の日本は、残念ながら不景気です。
そして、周囲の国では、戦争が起こりそうな不安があります。

でも、それらとは全く無関係に、僕たちは、幸せになる事が出来る。
リアル・シンデレラ=倉島泉の一生から、僕はその真実を学んだように思いました。


ところで、僕は、努力しても倉島泉のように生きることは出来そうもありません。
それほど、彼女は善人を通り越して聖人のように見えるほどですが、
彼女が得た幸福のように、景気が良くても、悪くても、健康でいても、病んでいても、
幸せになる事は出来るのだ。

この小説から学んだ事は、小さいながらも僕に幸福感をもたらしたように思います。
幸せは、自分の中にありました。
忙しい人や、日々の生活に疲れを感じている人、
普段つまらないなぁ。とぼんやり感じる人にも、是非読んで欲しいと思います。
また、これから社会に出る人、勉学にいそしんでいる皆さんにも読んでもらいたいと思いました。

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紙の本

シアワセの基準など、自分で決めればいい

2010/09/09 08:46

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:カフェイン中毒 - この投稿者のレビュー一覧を見る

あるライターが、『シンデレラ』について調べ始めたとき、
世界中に広がるこの物語のヒロインは、いったい幸せだったのかという疑問を抱く。
多くの女性の憧れであり、まさに勝者の人生とされているからこそ、
シンデレラ・ストーリーという言葉が存在するのだが……。

ヒロインである倉島泉(せん)は、母親に疎んじられ、
美しく優秀な妹とは、あからさまな待遇の差で育った。
多くの人の目に彼女は、可憐な妹とは違って、愛想のかけらもない女の子に映っている。

しかし、彼女は万人にわかやすい可愛さを持っていないだけであって、
大人にも同世代にも、そして年下にも異性にも、彼女の魅力に気づく人はきちんと存在するのだ。

彼らにとって泉は、他に類のない女性であり、
それは単に女っぽくないだけで、じつは垢ぬけているとか、
求めるものが他人と違い、傍からはわかりにくいだけだとか、
整った顔立ちをしているうえに、とても豊かな心を持っているとか、
ひとりの時間を楽しむことのできる人だとか。

他者に媚びて生きるわけでもなく、
といって、嫌な噂を立てられて傷つくことがないほど鈍感でもなく、
しかしそれを己の意志で克服する強さは持っている。

幸せの基準が、自分の中で出来上がっており、それが揺らがない。
とてもむずかしいことなのに、泉はそれを貫いているのだ。
彼女の本質に気づき、それを魅力として捉えることのできる人たちは、どこか彼女に似ていて、
少なくとも彼女の妹のようなタイプに惹かれる感性を持ってはいない。

わかりやすい美人に惹かれるというのは、けっして悪いことではないと思う。
ただ、最初からそこにしか目の行かない人というのは、
傍に泉のような魅力的な女性がいても、まったくそれに気づかない。
とてももったいないないことではないか。

泉の魅力が地味に描かれているだけで、
対照的な妹が、魅力のない薄っぺらな人間に見えてくることに驚いた。
姉妹仲が悪いわけでも、妹を貶める描写があるわけでもないのに……だ。

その違和感は、泉を語る妹のひと言で明らかになる。

「姉はかわいそうな人です」

彼女には、泉の豊かさや美しさが、理解できないのであって、
自分の持っている小さな物差しで測りきれないものには、憐みしか覚えないようだ。
そういう人物が、幾人か出てくる。
いや、むしろ描かれてはいない大半の人は、泉のことをそう見ていたのだろう。

泉が味わっている幸せな世界は、ときに鼻の奥をツンとさせるほどに美しく悲しい。
泉のことを評価する人が現れると、こちらまで嬉しくなってしまう。
泉は鈍感なのではない。
孤独も理不尽さも知ったうえで、己が満足する幸せを掴もうとしただけなのだ。

姫野カオルコの作品で、胸がつまったり、大笑いしたことは幾度もあるが、
こんなふうに涙腺を刺激され、そのくせとても幸せな気持ちにさせられたのは初めてだった。

シンデレラと、倉島泉。
もし片方の人生を選べと言われたら、物語を読み終えた今、躊躇なく泉の人生をなぞりたい。
そこまでの覚悟がなくても、せめて泉の魅力に気づく程度の人間ではありたいと思うのだ。

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紙の本

今の時代だからこそ書かれるべき物語

2010/05/22 14:03

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る


 編集プロダクションに勤める「私」はシンデレラのお話に疑問を持っている。主人公よりも継母など脇役たちばかりが目立って仕方がないストーリー。勤務先の社長・矢作も「私」同様、継母たちの意地悪に打ち勝つことを良しとするシンデレラの価値観に違和感を持ったといい、ある女性について取材してノンフィクションを書いてみないかと「私」に持ちかける。倉島泉(せん)というその女性を追う「私」は、幸せとは、美しいとは、そして善きことというのがどういうことなのかに思いを馳せることになっていく…。

 主人公であるはずの泉は、この小説にあまた登場する人々よりも一歩退いた感の強い存在として描かれます。親や周囲の男性の愛情も妹の深芳(みよし)にばかり向けられ、シンデレラ=灰かぶり姫に照らすように、野菜農園を自ら切り開いて泥だらけの泉は周囲に顧みられません。
 しかしシンデレラと泉とを画すのは、泉が自分をとりまく人々を見返すための何かを待っているわけではないという一点にあります。泉は偏僻(へんぺき)することなく、静かに己の分(ぶん)をわきまえたかのごとくに、やさしく人生を歩んでいくのです。

 小説全体を通して立ち現れる泉の確かな豊かさを思うとき、その豊かさを豊かさと感じるだけのゆとりが今という時代や社会に失われていることに思いが立ち至ります。
 前へ出ること、自分の幸福を実現すること、そのことに汲々とすることこそが第一義とされる今、人は肉食系を良しとし、そうではない人々を草食系と嘲弄する世界が広がっています。そこに身を置けないと思った者の中には自分を社会から遮断することでしか心の安寧が得られない人々もいます。

 そんな今へのアンチテーゼのように置かれた泉の物語は、読者に清々しさを感じさせないではおかない稀有な物語となっています。

 今の時代に書かれるべくして書かれた小説。
 そんな思いを強くさせる、すぐれた長編です。

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紙の本

内なる多幸感に包まれて

2010/04/15 12:32

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:かつき - この投稿者のレビュー一覧を見る

小さな編集プロダクションに勤める「わたし」は
社長の翻意により、
「倉島泉(せん)」という女性の本をつくることになります。
それは「富み善き美しきお姫様の物語」。

泉は登場せず、
彼女の周囲の人々から語られる泉の一生は
シンデレラのような幼少時から始まります。

継母のような意地悪な実の母親からの冷たい仕打ちや
存在感の薄い父親のもとで育ち、
ひとつ下の美しい、病弱な妹、深芳の影に
隠れるような女の子でした。

諏訪の旅館「たから」に生まれた彼女は
高校には、地元の名士片桐家の本宅(松本)に下宿しながら通い、
片桐夫人からお茶、お花、行儀作法などを学びます。

妹に嫉妬もせず、両親の不平等に憤りもせず
ただ淡々と人生を送る彼女には
どんどん不幸せなことが起こります。
自己犠牲とは泉のような女性のことですね。

しかし、彼女は不思議と幸せでした。

そして地元の人が深芳を褒めたたえるのとは反対に
この取材をする女性が勤める会社のスタッフはみな、
若い頃から泉を知っており、口をそろえて
「あの美しいお姉さん」と言います。

ある種の人々の心には、彼女はとても魅力的に映るのです。

彼女の何とも言えない魅力は
ひと言でいえば「平和な心の自立」であり
「内なる多幸感」でしょう。
そして、彼女におとぎ話の衣をまとわせて
姫野カオルコは読者の前に差し出します。

この物語のすごいことは、犠牲となる泉も
そして周囲の人々も誰も不幸にならないこと。

物語が終わった時、一瞬、
本当に泉は幸せだったのだろうかと考えました。
しかし、彼女は多幸感でいっぱいです。
幸せはその人の中にあります。
他人の評価にあるのではありません。

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紙の本

堂々たる生き方です。もし、こんな人がそばにいたら、近づくか離れるか、二つに一つ、でないとこちらが潰される。でも、偉大な人は皆こうしたものかもしれません。

2011/07/13 20:49

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

姫野カオルコ、あまり読んでいません。私の場合、なんていうか名前で躓いてます。最初に、〈姫〉っていう字で引く。次に〈カオルコ〉っていうカタカナで後ずさる。それと、いってはなんですが姫野の本て、どれも250頁くらいで装幀が安っぽい。総合判断としてジュニア小説、もしくはラノベ作家。ということで、ランキングが圏外になってしまう。

もう、完全にイメージだけで決め付けるんですから、滅茶苦茶なんですが、そういう理由で読んでこなかった。たまたま『桃』っていう作品を読んだのは、その装幀が新潮社装幀室風の雰囲気のいいものだったのと、偶々読む本が少なかったから。ただし、読んで十分楽しみはしました。でも、追いかけさせるだけのものは感じませんでした。

では、なぜ今回、この本を読むことにしたのか。第一は装幀です。オフィスキントンの装幀力というよりは、カバー画の力。ああ、いいなあ、って思いました。確認したら
          *
装画 Paul Delvaux"Chrysis"
Paul Delvaux Foundation,St Idesbald,Belgium
info@delvauxmuseum.com
          *
とあります。いやあ、魅力あるはずです、だって美術界の有名人じゃありませんか。これで目を引くことが出来ないなら、それは客が悪い、って言ってもいい。つまり、顔がよかったっていうこと。第二の理由、それがボリューム。400頁超えしてます。長篇イノチの私としては、この分量で及第点。つまり、グラマラスなところに引かれたわけです。カバーと頁数、人にたとえれば顔とスタイル、要するに面食いなんですね、わたし・・・

で、ようやくお話の内容です。出版社のHPには、この本について
               *
不況日本に暮らす現代人にこそ知ってほしい、倉島泉の人生を。
新たなるドキュメント・フィクション。

童話「シンデレラ」について調べていたライターが紹介された女性、倉島泉。

長野県諏訪温泉郷の小さな旅館の子として生まれた彼女は、母親に冷遇され、
妹の陰で育ったが、町には信州屈指の名家「片桐様」の別荘があり、
ふとした縁で、松本城下の本宅に下宿することになる。

そこで当主の一人息子との縁談がもちあがり……。
多くの証言から浮かび上がってきた彼女の人生とは?
               *
と書いてあります。早速、読み始めて思ったのが、これっていわゆる三代もの? っていうことです。いや、なにも厳密に三代である必要はないんですが、一人の人間に焦点を合わせながら、半世紀以上にわたるある一家の歴史を描く一種の大河小説かなと。無論、小説は多かれ少なかれ時間を扱うことになるわけで、それが短ければ事件中心になるし、長ければいやでも時代を描くことになります。

ただ、私はこのところそういう本をいくつか続けて読んでいる。まず桜庭一樹の『赤朽葉』があります。勿論、その発想の元となったG・ガルシア=マルケス『百年の孤独』もある。阿部和重『ピストルズ』だって、無理矢理仲間にすることもできる。角田光代『ツリーハウス』もそうです。伊集院静『お父やんとオジさん』を、同じ姿勢で読むこともできる。ああ、流行なのかな、なんて思いました。

話の中心にいるのは、倉島泉です。1950年4月29日、長野県諏訪温泉郷の小さな旅館の子として生まれた彼女は、なぜか母・登代に冷遇されて育ちます。それに拍車をかけたのが美しい妹・深芳の存在です。母親は勿論、周囲の目もその美しさに魅了され、褒め称えます。それは妹を増長させ、深芳は姉を軽んじるようになるのです。ただ、泉にはそれを苦にする気配は全くありません。

そして、泉は町にある信州屈指の名家、片桐様の別荘で大奥様・片桐華子にその賢さを認められ、松本城下の本宅に下宿して学校に通うことになります。それは母・登代にとっても妹の深芳にとっても許しがたいことです。しかも、華子は泉に思いもかけない申し出をします。とはいえ、泉はそれを喜ぶことも無くただただ恐縮するばかりです。それがさらに母と妹の怒りに火を注ぎ・・・

その後も泉の人生は、周囲の力によって翻弄され続けます。馬鹿にされ、裏切られ、捨てられる。普通の人であれば、叫びだし、掴みかかり、そして絶望する、そんな状況に陥りながら、泉は笑顔を絶やさず、淡々とそれらを受け入れ、母や妹、夫のために尽くし、旅館を再生させ、そして望む人があれば、それを気前よく、というか当然かのように譲っていきます。夫、評判、財産さえも・・・。

清貧、というのとは違います。献身、とも違います。無欲が近いかもしれません。とはいえ、一部の老人が最期に行き着く達観としての無欲の世界にいるわけでもないのです。彼女にとって、生きること、働くこと、知恵を絞り工夫すること、そして人がそれを心地よく受け容れることが、喜びなのです。それも、殉教者に見られる欲得ずくのものではなく、ただただ楽しい。

ただ、姫野は、泉のそういう天性のものが周囲を変えていくという安直な物語にすることはありません。周囲は、泉の力を認めながら、自分たちを変えようとは決してしない。そういう意味では、泉は孤独です。ただ、それすら彼女を不幸にはしない。いや、泉の中には幸せということすらないのかもしれない。ただただ自然に生きているだけです。そういう生き方ができたら、と思わずにはいられません。

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シンデレラストーリーとは?

2010/07/10 11:22

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:banchi - この投稿者のレビュー一覧を見る

よく女性の成功や幸せを俗にシンデレラストーリーと呼ぶけれどシンデレラって本当に幸せだったんだろうか?

本当の幸せとは?

そんなことをじんわりと考えさせてくれる深いいお話しでした。

物語は小さな編集プロダクションで有名な童話を翻案小説にしてムック本として出版する企画の中でシンデレラってどうなん?彼女って本当に幸せだったんだろか?ってところから始まります。

そのプロダクションの社長が言いました。「おれ、幸せっていうのは・・・・、泉(セン)ちゃんみたいな人生だと思うんだよな・・・」

泉ちゃんとはその昔プロダクションを立ち上げたときに会計をしてた人の義理の姉らしい。

社長のひと言で泉ちゃんの一代記を書くことになりライターは取材を始めることになった。

ライターは取材を進めるうちに倉島泉(クラシマセン)に強い興味を覚えこんな人もいたんだと多くの人に伝えたいと思った。

話しはライターが取材した様々な人の視点をとおして泉ちゃんの人生が語られます。

泉ちゃんは長野県諏訪温泉旅館の長女として生まれました。
彼女が生まれる前日に母親の父が死に生まれた夜に母親の母が死んでしまい、母親はわが娘ながら不吉な子だと思ってしまいます。
その一年後に妹の深芳が生まれます。 深芳は生まれつき身体が弱かったのですが母親にそっくりな美人で聡明な少女に育っていきます。
母親は深芳を可愛がり自分にまったく似てない泉に冷たくあたります。

妹の深芳は「倉島さんところのあのきれいな・・・」と言われ、泉は「上の、きれいじゃないほうの・・下とは違って」と周りからは揶揄されました。

大人になっても女将の長女なのに旅館の従業員からは「あの畑女」「あの掃除のおばちゃん」と言われてしまうセンチャン。
昼間は畑を耕し、夜はラジオを聞きながらわらじを編んで、毎日をもくもくと生きていくセンチャン。

なんか読みながら僕の頭の中では宮沢賢治の雨ニモマケズの詩が浮かんでました。

不器用で自分の感情を表にだすことが下手で鈍感だと言われ、いろんな人に誤解されてしまう。
それでも周りの人の幸せを願い健気に生きていくセンチャンの人生。

こういう風に書いてたらセンチャンのどこがシンデレラでどこが幸せなんだろうって思われるでしょうが、でも確かにセンチャンは幸せだったのです。

うまく説明出来ませんがそれはこの作品を読めば誰もが納得することができると思います。

幸せって他人の目から見たもの見えるものじゃないんですよね。

人の目からは不幸にしか見えない人生でもその人が幸せなんだと感じたらそれは幸せなんです。

この作品はそんな幸せの価値観についてを読み手に教えてくれます。

センチャンが小学六年のときに秘密基地で会った貂(テン)に似た人に三つのお願いをします。

ラストでその三つ目のお願いが明らかになった瞬間、鼻の奥がツンとしました。

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2010/03/31 18:08

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2010/04/20 17:33

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2010/04/27 10:10

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2010/05/23 11:33

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2010/05/30 07:34

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2010/07/02 16:32

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2010/07/10 09:18

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