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片山杜秀の本 4 クラシック迷宮図書館 続 音楽書月評2004−2010 みんなのレビュー

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紙の本

「音楽書」ではなく「映画本」を対象とした書評集というものを考えさせる

2011/03/19 10:14

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 片山杜秀による前著『クラシック迷宮図書館/音楽書月評1998―2003』とともに読む。前著が『レコード芸術』連載の最初の6年分、72回を掲載順にならべたのに対し(その他+3エッセイ)、本書は、2004年から07年までの48回分に加え、2010年まで複数の雑誌・単行本に寄せた音楽書書評・解説を収録している。
 熱心な読者なら、そうした連載を知っていたり読んでいたりしているかもしれないが、クラシック音楽への関心があるとはいえ私はそこまで熱心ではない。
 ただし同じ出版社から出ているシリーズ的な前2冊をすでに読んでいて、このマニアックともいえる著者には、それなりの関心をもっていた。その『音盤考現学』と『音盤博物誌』を読むことで、私はあの雨のなかの学徒出陣のバックに流れる音楽のことを知ったり、『ゴジラ』の映画音楽を作曲した伊福部昭が大阪城落城の映画(確か山田五十鈴出演・未見)につけた音楽がその「扶桑歌」に近いメロディらしいことを読んだりした。まったく知らなかった戦前・戦中の日本の作曲家によるクラシックへの興味をあたえられ、図書館で橋本國彦、大澤壽人、伊福部昭のCDを借りて、聴いたりもした。
 好奇心をかきたてられる書き手である。たとえば既知のベストセラー本や雑誌やその編集者などを紹介した本(『戦後出版史』)が一方にあり、もう一方に論じられている本のほとんどが私には未知である本書がある。そうすると性格的に、既知より未知、知っている本を紹介した文章より知らない本を論じた言葉へ触手がのびる。
 2冊の『クラシック迷宮図書館』で論じられている150冊にのぼる本のうち読んだ本は1冊、最相葉月『絶対音感』だけだった。
 とはいえ、それらの本を著わした音楽評論家や演奏者や哲学者そのほか、また論じられている作曲家のうち、いくらかの名は既知のものであるし、書評される本のタイトルから内容もある程度は推し量ることができはする。
 驚くのは、音楽あるいは音にかんする実に多様な本が出版されていることであろう。これと同じことを「映画」で試みた場合、これほどバラエティのある本を並べにくいのではないだろうか、そんな風に思う。
 
 著者には、そのとてつもない読書量と音楽にかかわる生半可ではない知識は別にして、特徴的な主張というか書き手としての個性を指摘できるところがある。ひとつは序文として配された、日本のクラシック音楽作曲家にふれた文章のなかにあるが、たとえばそこで秋山邦晴『昭和の作曲家たち』が批判され、日本の戦中政治性からの音楽の芸術的独立性が指摘されている。そして新保祐司『信時潔』が評価される。
 もうひとつは「あとがき」に書かれている、著者の音楽的な関心の起源を明かしているところだ。そこで著者は《みんな小学生のうちによくなじんだ》として、十数人もの日本の映画音楽作曲家の名を連ねている。彼らの多くが映画音楽以外の音楽もつくっていることを知り、関心がクラシック全体に広がってゆく。
 こうした指向性は一般的なクラシック・ファンとは相当に隔たりがあるような気がするが、一つはこの隔たりが著者を現在のクラシック音楽評論家のなかで、ひときわ突出させているのだろう。

 ところで片山杜秀とは逆に、音楽(あるいはクラシック音楽と限定すべきか)よりもはるかに映画に強い関心を抱いてきた私にとって、ある違和感を覚える言葉が前著のなかにある。
 ミシェル・シオン『映画の音楽』の書評のなかで著者は、音や音楽のないサイレント映画を見ることの苦痛を語り、それが死物であると書いている。
 現代の映画に馴染んだ感性から、サウンドのないサイレント映画がそう見えてしまうのは仕方がないかもしれない。ただ映画の歴史のなかで、映像表現の飛躍的な発展は、長さからいえば短いサイレント時代のなかでかちとられたものであることの意味が、ここからはうかがえない。サイレント期の表現の密度の濃さは、音がないゆえに生じたことも理由のひとつだと思うが、その凄さに比すると、現今の映画一般がただただ虚しい紙芝居的なものに見えるときが私には時折ある。
 音楽は映画の一要素でしかない。トーキー映画でも、音楽が一切ない素晴らしい映画がいくつもある。

 書評集の本を読むといつもそうなのだが、論じられた本のどれかを読んでしまう。今回は吉田秀和『名曲三〇〇選』だ。2年前に文庫になった本だが、書かれたのが半世紀前であることに逆に興味をおぼえたのだ。そのなかから今まで聴いたことのない曲を聴いているところである。またやはり吉田秀和『オペラ・ノート』評のなかでふれられているヤナーチェク『利口な女狐の物語』も聴き、面白いと思った。多数の「音楽書」そのものにはなかなか気持ちのひっかかりをもてないが、音楽を聴きたい欲望はある。
 

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