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「君主制フィレンツェの都市改造」(野口昌夫)
13世紀初頭、フィレンツェの北方ムジェッロから出てきたメディチ家は有力な上層市民に成長し、政治家、銀行家、商社、芸術のパトロンとして、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ、コジモ・イル・ヴェッキオ、ピエロ・イル・ゴットーゾ、ロレンツォ・イル・マニフィコの四代に渡って黄金時代を築く。15世紀後半、反メディチによる内戦の危機やサヴォナローラの説教活動の開始など不穏な動きが起こり、ロレンツォの突然の死により、1494年にメディチ家はフィレンツェを追放される。その後のイタリア内の都市国家間の勢力争いを経て、1513年にフィレンツェに復帰、レオ10世、クレメンス7世という2人の教皇を輩出し、1529年にはフィレンツェ共和国を降伏させることに成功し1531年君主制を成立させる。
その後、1537年にメディチ家後継者となったコジモ一世(トスカーナ大公)と建築家ジョルジョ・ヴァザーリによって、共和国時代の都市構造から、君主制を象徴する都市への大改造が実施された。具体的にはパラッツォ・ヴェッキオの五百人広間(サローネ・ディ・チンクエチェント)の天井を11.7mから18.7mに改造、そこに至る大階段を既存建物の中に設置。君主制国家に向けた官僚機構の拡充と一極集中化の帰結として整備されたウフィッツ。これはパラッツォヴェッキオから都市軸を南に下ろすことで、共和国の象徴に敬意を払いつつ、それを超克した君主国家の新しい象徴の表現だった。その手始めとなるウフィッツは中世以来の細い路地が密集した街区をクリアランスして作られたため、建設工事が困難を極めた。
また、君主の威信を内外に示すため、アルノ側の対岸にパラッツォ・ピッティを整備し、息子フランチェスコの結婚祝典に合わせ来賓客を驚かすために6ヶ月という短期間で2つの宮廷を結ぶ空中回廊(コリドイオ)を建設した。