紙の本
初のサルトル
2016/04/20 12:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kz - この投稿者のレビュー一覧を見る
実存主義を打ち立てる以前の作品だか、サルトルの思考が存分に盛り込まれていた。次は「存在と無」に挑戦したい。
紙の本
実存主義とはなんぞや
2019/01/27 19:42
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「実存主義」の哲学者、サルトルの小説。理解して読むのには骨が折れた。「存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ」と本文にあるように、サルトルは存在になど意味はなく(全く無意味)であり、そこにある(いる)だけだという。ということは、「人生の目的」などまったく意味のないことなのだろう。そのようなものに人生を縛られても、世の中は不条理で無秩序なのだから意味がないと。「実在は本質に先立つ」というサルトルの言葉は、人間は自由だからこそ己の行為に責任をもたなければならないということを意味しているということらしい。と、わかっているように書いているが実存主義とは何ぞやということをまだ私は理解できないでいる
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何が嘔吐なのかさっぱり分からない
2010/10/13 14:33
15人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔この本を白井健三郎という人の翻訳で読みかけて、途中で放り出したことがありました。なんでも実存主義という哲学が大流行の頃でした。
今度手にとったのは鈴木道彦という人の翻訳ですが、こちらは当世風にこなれた訳語のせいもあってともかく最後まで読みとおすことができました。やれやれ。
しかしなんと評していいのかしらん、まったく訳の分からん変態的な小説です。
サルトル本人が色濃く投影されているロカンタンというやたら神経質な青白いインテリゲンチャンが、図書館のコルシカ人やスープの中の蟹を見ては吐き気を感じ、池に投じようとした小石に触り、公園のマロニエの根っこを見ては、そのガッツリとした存在感に圧倒され、自分自身のみならず外界、世界全体に大いなる違和と不条理(この言葉も大流行したな)を感じ、「われ思う故にわれ絶対的に存す」のデカルト的理解を脱却して、「われ存す、故にたまたまわれ存す」の実存的悟りに超絶的にエラン・ヴィタール(生命的飛躍)を遂げたと、まあ恰好よくいえばそういう哲学的小説なのでしょう。
しかし道行く人や下宿のおばさんやレストランのお姉チャンが己と異質な外部のモノに見えたり、都市や群衆やはたまた図書館の本をアイウエオ順に読んでいる孤独な独学者に吐き気を覚えたりするっていうのは、糞真面目な哲学青年の誰もが一時的に患う麻疹のような病理現象にすぎず、主人公がいったいどうして吐き気を覚えるのか誰にも分かりません。男性なのに、妊娠でもしているのでしょうか?
昔小林秀雄がこんな小説を書いたことがありました。小林を思わせる自意識過剰のインテリ青年が、川を渡るポンポン蒸気船に乗り込んだら、誰か同乗者がいて、自分も彼らも揺れている。それを見ているうちに、自分(小林)は彼らと自分が、同じリズムでポンポン揺れるのに堪えられなくなってきて、ヘドが出そうになる。
確かそういうくだりがありました。これを読んだ中野重治が「なにがヘドだか、全然分からない」と書いていましたが、当時のサルトルも小林とまったく同じ病気に罹っていたのでしょう。
だから私もこう言いましょう。サルトルよ、お前さんのもったいぶって繰り返す嘔吐とは何なのか、私には全然分からないよ、と。
嘔吐とは、高等遊民の唐人の寝言であり、世間知らずのぼんぼんの白昼夢に過ぎなかったことが、有名になってからのサルトルにはすぐに分かったはずです。
それゆえに、親の遺産で食べている30歳の青白きインテリ小僧ロカンタンは、フランスの小都市で大革命時代の貴族ロルボンの伝記を書こうとして果たせず、おまけに恋人アニーに振られて、Some of these days You`ll miss me honeyのレコードを聴きながらブーヴィルに別れを告げる。
というのが、この余りにも有名な実存主義小説のエッセンスなのです。
あにはからんやマロニエのぶっとい根っこに存在の実存を見つけたり 茫洋
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30歳の独身歴史家、アントワーヌ・ロカンタン。
彼の身に起こった出来事や思想が、約1ヵ月間の日記という形式で綴られていく。
海で石ころを拾った主人公が感じた、突然の吐き気。
その意味とは?
図書館、居酒屋、街の通りなど、孤独な青年の思考が繰り広げられていく。
独学者との昼食。
かつての恋人との再会。
存在に絶望したロカンタンの思索がいきつく場所とは。
20世紀フランスの哲学者・小説家サルトルによる存在の不条理を描いた作品。
鈴木道彦の新訳。
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2度目の嘔吐。サルトル自身が、文学的に見れば自身の小説としては一番上手く出来た、と述べていたらしいが、その通りだと思う。しかし、小説から透けて見える「サルトルの哲学」(「存在と無」で語るようなもの)を理解するには、あまり向かないようにも思える。文学的な面が強すぎて、始めてサルトルを読む人には理解しづらいからだ。「水いらず」に収録されている「一指導者の幼年時代」から先に読んだ方が良いと思う。そこから、(「自由への道」→)「嘔吐」だろう。。
ところで、この小説には、まだ「アンガージュマン=関与」の用語はまだ出てこなかった。「アンガジェ=拘束」の語は出てきたが。そういう意味では、これだけを読んでサルトルを理解した!とは言えないように思える。だから、まだサルトルから離れるわけには行かない。次はいよいよ「存在と無」を読もうか。。
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実在論を描いた哲学的小説。
存在と非存在の間の瞬間を違和感として嘔吐という形で表している。実存は本質に先行する。意味もなくただただ存在してるだけ。
まだ僕にはこの本を読むのがはやかったようだ…
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高校生のころ、今から40年も前に読んで忘れられない感覚を覚えた。それはゴダールの映画に共通する感覚だ。新訳は少し違う味わいがあると思うのは、時間の隔絶からくるものが大きいのだろう。
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暗いきもちだったからなんとなく手に取ったけど、読了できず。この人がもともとおかしいのか、ひとりでいるからこんなにあたまおかしくなったのかわからないけど、当たり前のことがこんなにねじ曲がってみえるならもはや生きていけないと思う
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目立ちたがりで喋りたがりで知りたがりでおせっかいで、それで何が不幸って頭が良くて、でも結局したいことはそんなことじゃなかった、ただ慎ましく生きていければ良かったんだ。
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精一杯うんと背伸びして、アルベール・カミュの『異邦人』や、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、ジャン・ジュネの『泥棒日記』や、ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』や、アラン・ロブ・グリエの『反復』や、トマス・ピンチョンの『V』や、ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、不自然な行為』や、そしてこの本、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』などなど、誰も見向きもしないから綺麗なままの本をほとんど独占して読むことが出来た中学から高校にかけて,それにしても各々の学校の図書館に何故あれほどまでに尖鋭な現代文学の本が、私を待っていたのでしょうか?
それはともかく、『嘔吐』は、カフカの影響を云々されていますが、骨の髄まで徹頭徹尾そのころ芥川龍之介に影響されていた私の文学観では、主人公ロカンタンの吐き気をもよおすこの嫌悪感は、まさに芥川龍之介のペシミズムに通じるものとして理解されたのでした。
実存的存在などこれっぽっちも知らなかった中学生には無理もないことでしたが、その後ひそかにサルトルに少なからず入れ込んでいくにつれ、たとえ今ではもう誰もその思想性に注目しようとはしない流行遅れのような過去の遺物のような扱いをされようとも、私にとっては、思想や哲学をただ思弁的なものとしてだけでなく、現実の社会とのかかわりの中で見出そうとして批判して闘った人として、また1901年から始まったノーベル賞をベトナムの革命家のレ・ドゥク・トとともに二人だけ辞退した反骨の人として、深く記憶に刻まれたのでした。
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『私は この壁のそばで存在に傷ついている。』
『存在のなかで彼は立ち止まる、』
『欲望、嫌悪、彼は存在することに嫌気がさしたと言う、』
『すべては充満しており、至るところに存在があり、それは濃密で,重く、やわらかい。』
『ごく近くでありながら、何と余りに遠くにあり、若々しく,冷酷で、しかも澄み渡った』
『火曜日
書くことは何もない。存在した。』
自分が存在しているという不気味さに吐き気をおぼえる
わかるーなんていうのはちょっとあぶないけど
『Some of these days
You'll miss me honey』
そうだったらいいな
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孤立した人間×マロニエ(木の根っこ)×「存在は必然ではない。存在するとは単にそこにあるということなのだ。」というラディカルな気づき=『嘔吐』
『本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。そのことを理解した人もいるだろう。ただし彼らは、必然的な自己原因の存在を作り上げて、この偶然性を乗り越えようと試みたのだ。ところで、いかなる必然的なものも、存在を説明することはできない。存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることのできる仮象でもない。それは、絶対であり、したがって完全な無償性である。』
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主人公ロカンタンの日記形式で綴られた日常から、「存在」に悩む様子へ。
んー、私にはやはり難解でした。
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1970年代という不安定な時代に、高校生という不安定な世代で読んだ。不安を増長するような気もした。「嘔吐」が現代に受け入れられるかは解らない。自分の子供に勧める自信はない。
不安な時に、本を読むのでは安定できないかもしれない。運動したり、旅行するとよいかもしれない。
不安な時に,いろいろな作品を読むとなにか、ひょっとしたらつかめるかもしれない。
いろいろな本を読むことが大切だという意味で、お勧め1000冊に入れたい。
歴史に興味をもち、近代を理解しようと思ったときには、近代の代表作の一つにあげてもよい。
時代を理解するという視点で読んでみて欲しい。
人はそれを「実存主義」と呼ぶ。
実存主義という言葉は気にしなくてもいいかもしれない。
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好きな箇所
”ーところが今は、このサクソフォンの歌がある。そして私は恥じている。輝かしい小さな苦悩、典型的な苦悩が生まれたのだ。サクソフォンの4つの音。それが行ったり来たりする。まるでこう言っているようだ、「私たちのようにすべきだ、リズムに合わせて苦しむべきだ」。その通りだ!もちろん私もこんなふうに苦しみたい。リズムに合わせて、自分自身への媚びも憐れみのなく、乾燥した純粋さを伴って苦しみたい。しかし、ジョッキの底のビールが生ぬるかったり、鏡に茶色の染みがついていたりするのは、私が悪いのだろうか?私が余計な者であり、このうえもなく誠実で乾ききった私の苦悩が、ずるずると重たくなって、潤んだほろりとさせる大きな目、しかし醜悪そのものの目をしたゾウアザラシのように、だぶだぶの肉と広い皮膚を同時に備えるようになったとしても、それは私のせいだろうか?ー”(p.290)
読めば読むだけ、味が増す作品だと思う。
この本との出会いに感謝したい!