サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

e-hon連携キャンペーン ~5/31

hontoレビュー

ほしい本の一覧を見る

ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代 みんなのレビュー

予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー2件

みんなの評価4.4

評価内訳

  • 星 5 (1件)
  • 星 4 (1件)
  • 星 3 (0件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)
2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本

トルストイのアンナ・カレーニナ時代に比すべき、ゴダールのアンナ・カリーナ時代

2010/11/27 18:23

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この本を読みながらゴダールの映画を見ている。『気狂いピエロ』を見ながら、この映画を最初に見てから43年も経ってしまったと思った。私より前の世代なら、『勝手にしやがれ』を最初に見てから50年経ってしまったと思うだろう。
 ところでゴダールは自身の最盛期の作品群を否定した映画監督である。本書であふれるほど豊饒に語られている1960年代の映画、ゴダールはそうした映画を捨て、著者の言葉でいうと《映画の外に、映画以外の「どこか」に行って》しまった。
 とはいえあらゆる文献を渉猟しただろう著者によるこの本に、ゴダールによる明確な否定の言葉は引用されていない。なんとなく、私たちにそう思わせてしまった去り方だったのだろう。少なくともゴダールに過去の、60年代の自身の映画を懐かしんだり自慢に思ったりしている退嬰的姿勢はない。『気狂いピエロ』で頂点をきわめた後、次第にそこから離脱し、ある時期に至り一挙に自身が完璧に体現した映画的な豊かさを、トルストイ的とでもいう頑なさによって拒んだという印象はある。60年代末から70年代の政治的な映画それ自体が、『気狂いピエロ』的なものすべてを否定しているという感じがぬぐえないのだ。
 レフ・トルストイはゴダールと異なり、もっと後年にだが、自身の最盛期の小説群、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を否定した。1930年生まれのゴダールがそのアンナ・カリーナ時代の映画を否定したように、1828年生まれのトルストイはいわば彼のアンナ・カレーニナ時代の小説をまるごと否定したのだ。
 『アンナ・カレーニナ』のようなとてつもない小説に驚嘆させられるとともに、そのような豊かな文学的達成を否定した小説家のその後にも驚嘆させられる。『新潮世界文学辞典』のその箇所を引用するとこうなる。《特に九八年に発表した『芸術とは何か』では転向以前の自己の作品を含む、いわゆる世界の大文学を否定し、ストー夫人の『トムじいやの小屋』を絶賛するなど極端な芸術論を展開した。》

 二人の例からなんとなく想像できるのは、空恐ろしい映画や小説をつくりあげてしまったこと自体が、それからの反転を作者にうながすのではないかということである。
 本書では詩作を放棄したランボーとの類似にふれているが、《一九六八年の「五月革命」を契機に、ラジカルに変貌し、ついに商業映画と縁を切った》にしても、《映画づくりをやめたわけではなかった》し、《いったんは捨てた商業映画にまた復帰》もしたゴダールは、ランボーとよりは、以前とは別様なかたちながら文筆の世界にいたトルストイとの比較のほうが妥当であろう。
 それにしても本書には、ゴダールの、とりわけアンナ・カリーナ主演のゴダールの映画のごとき圧倒的な豊かさがある。『気狂いピエロ』にふれて著者はその《言葉、色、音が炸裂し、渦巻き、氾濫し、疾走する》さまを延々2ページ近く文章の流れを止めず、最後にセンテンスを変えることなくこう続ける。《……その他数え切れないほどの映画や絵画や文学の引用や言及がニーチェ的悦ばしき知識として、多彩に画面に流れ(イメージとして、言葉として、ギャグとして、パフォーマンスとして、アクションとして、メロディーとして)、そして色彩が、赤が、青が、白が、黄色が、黒が、作品のテーマを要約し、状況に注釈を加え、人物の行動を批評し、心理を告発し、それらすべてが相互の鏡となって存在そのものを反射するのである。》
 別なところでも長いセンテンス例があるが、そこには蓮實重彦の長文と異なって、「息せききって」(というゴダール映画への表現が何度か登場する)、対象である作品に沿う熱い自然さ、そう書かずにいられない何かが感じられる。

 とはいえ著者の書く姿勢、配慮には慎みと謙譲さがあり、これが傲慢ともいえるゴダールと著しく対照的だ。著者は自分より若い研究者や映画ファンの発見を丁寧に紹介し、また理論的な必要性から引用した文献がやや難しい感じになると気づくやいなや、「私にはほとんどちんぷんかんぷんながら」などと謙遜することを忘れていない。巻末に文献を並べる研究書的装いを拒否しつつ、的確かつ豊富な引用や言及は見事だ。訳者名をいちいち記す著者の言葉への責任感覚は、「引用」というものを大きな主題としたゴダールの映画を論じる本書にとって必要な配慮なのだろう。また横文字文献を一切引用しない。
 やはり素晴らしいのは、ヒロイン、アンナ・カリーナ自身とこの時代のほとんどのゴダール長篇の撮影をしたラウル・クタールへの二つのインタビューである。ゴダールへのインタビューではないところに、著者のゴダールへの位置というか距離が感じられて、この本の微妙な存在感をいや増しさせている。
 クタールとの出会いはカリーナとの出会い同様にゴダールにとって決定的だったと思えるが、そのクタールはゴダールについて《フィルムのこと、キャメラのこと、すべての技術的なことに精通していた》と太鼓判を押している。最近スター・チャンネルの無料放送で20世紀フォックスの素晴らしい広報番組を見て、テレビ放映の精度の良さと相まってのハリウッド映画技術の粋に堪能したのだが、そこでは技術は映画のエンターテインメント性に徹底して奉仕している。だがゴダールは、それとはまったく別なものに賭けた。現在の映画が全体的にハリウッド的なものに偏り、ゴダールを初めとする娯楽とは一線を画した1960年代的な映画的豊かさが失われているのは、その時期から映画を見始めたものにとって残念だ。


このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

2010/12/08 03:11

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2 件中 1 件~ 2 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。