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自分にはあまり合わなかった。評価は人によりけりだと思う。
文章中の言葉や表現は、雰囲気があってよかった。第1部で語り手となる「わたし」が、終始はっきりとした目的や立場がわからないこと、噛み合わない会話をするのも独特。ちぐはぐな感じが、不安定な尼修道院の空気をうまく印象付けている。
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八日目の蝉のエンジェルホームを想像してしまいました
日本人が修道院の取材に行って
内部の人になぜ修道院に入ったのか
会話を進めて行く地味な展開ですが
第二部が
尼僧院長が修道院に入るまで
(結果出て行ってしまうけど)
のお話で第一部で本人から聞くことがなかった部分が
尼僧院長の一人称で進むので
サイゴまで読むとクリアになります
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読んでいる最中、時折原由子さんの“少女時代”のあの可愛らしいメロディーが、耳の奥で流れた。思春期の女の子たちが、頬染めながら泣いたり笑ったりといういかにも愛らしい曲。でもなぜ? だってこちらの登場人物は思春期なんてとうに過ぎた、というより甚だ過ぎた女性たちなのだ。80代の人だっているのだから。
なのに、不思議とあの曲がぴったりマッチする。
尼僧という言葉から想像していた厳格陰鬱な世界とはかなり違っていた。このお話の舞台、とあるドイツの尼僧修道院は、どこかミッションスクールの女子寮みたい。尼僧たちが皆それぞれにキュートなのだ。
ここは独身女性の集まり。離婚歴ありの人もいれば子供のいる人も、退職後第二の人生のために住んでいる人もいる。いろんな経歴の人が、同じ敷地内のそれぞれ独立した住まいでそれぞれの暮らしを営んでいる。一応の規律はあるけれど、自分が好む暮らしと、この小さな修道院の運営を存続させるため、それぞれに微笑ましい駆け引きなんかをしながら日々を送っている。
クラシック好きな人、映画好きな人、読書好きな人、庭の手入れを愉しむ人、お茶に凝る人、哲学好きな人、内外問わず噂が好きな人、異性に心弾ませる人…いろいろな尼僧たちが、とにかく愛らしく生きているのだ。
一番の魅力は、何といっても多和田さんの文章力。ドイツ語に堪能な彼女らしく、ルビはドイツ語読みでふってあり、ドイツ語の音が、魔法のようにこの作品に独特の雰囲気を与えている。尼僧はドイツ語で“ノンネ”というらしいけれど、ページの中にノンネの文字が出てくるたび、どこか禁断の匂いもしたりして心浮き立ってくる。
そして、タイトルにあるキューピッドの“弓”。矢ではないところが、まさしくこの作品の味噌といえるかもしれない。
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多和田葉子の本は不思議な匂いがする。このスタイルは誰にも似ていない。いままで読んだことがない物語が展開される。舞台はドイツの修道院、主人公は日本人、どうやら誰かがいなくなったみたい。主人公は、いろんな人生を味わってきた末、最終的に修道院に入った修道女たちに対して、日本人的な名前をつけて区別していく。そのおかげでドイツが舞台の割りには、読者は日本人的な価値観で登場人物と向き合うことができる。修道院という、閉鎖的なコミュニティ。しかしその精神はずいぶんとおおらかで、おそらく外部の女性よりも彼女たち修道女のほうが解放されているように見える。その中に含まれている日本人の部外者としての客観的な視点。知らない世界がここにある。
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芥川賞受賞作以来読んでみた。やっぱりこの人はわからない。
修道院と恋愛と弓道の関係が面白いといえば面白い。
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芥川賞受賞作品って最近おもしろいのがなかった。
しかし、これは本当に良かった。
2回読み直した。大変何気ない事なんだが、日頃ひっかかっていること、生きる違和感のようなものが、とてもよく表現されていて、大きな哲学的問題にいきつく。本当に人生の選択の自由はあるのか。周囲に流されつつ生きる自分にとってもつきつけられた問題でもある。
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(2011.01.25読了)(2011.01.20借入)
多和田葉子さんの作品は、新しいものが発表されるたびに話題になります。そのたびに、読んでみようかと思うのですが、いまだに一冊も読んでいません。
神さんの本棚には多和田さんがいっぱい積んであるのですが、いつでも読めるものは、いつまでたっても読まないになってしまうので、図書館から借りてきました。図書館の本は、期限付きなので、期限内に読んでしまうしかありません。
多和田さんの小説は、難しいらしいという先入観があったのですが、この本に関しては、特に難しいことはありませんでした。
物書きがドイツの尼僧院に滞在させてもらいながら、そこで暮らしているいろんなタイプの修道女たちと交流する、という話です。尼僧院長が何らかの事情で、不在となり、尼僧院長代理が、次の尼僧院長を選ぼうとしているところでした。家というのは、人が住んでいないと朽ちて行ってしまうので、誰かが住み続けて後代に伝えて行こうという考えが優先されて尼僧院が経営されているというので、そういう行き方もあるのかと感心してしまいました。物書きは、尼僧院の住民に漢字の名前を勝手につけて呼んでいます。片仮名の名前がなじみにくいという判断なのでしょうか。尼僧院に滞在中は、自炊をすると書いてあったのですが、どこで、食料を買い込んで、どうやって食事を作り、何を食べていたのかは書かれていないのが残念です。
物語が一部と二部に分かれているのですが、二部の方は、いなくなった尼僧院長の話になっています。どうも日本人だったようです。結構奔放な女性だったようで、男関係が結構あったようです。男関係を清算して、尼僧院で暮らし始めていたのですが、新しい女ができたから別れようと言って別れた男が、気の迷いだったから、また一緒になろうと追いかけてきたので、やむを得ず、俗世に戻ったということのようです。
その男は、ドイツ人なのに、弓道を教えているというのです。
尼僧院の話は、実際に多和田さんが取材したことが元になっていそうです。
●長生き(17頁)
「修道院では、みんな長生きします。夫に腹をたてないですむからでしょうね」
●修道院(17頁)
宗教改革の頃には、良家の娘たちがここで生活し、週末には社交界に出て、結婚相手が見つかると修道院を出て行くという、そういう場所だった。彼女らは結婚すると、妻の役割を演じ、母の役割を演じ、そのうち子供も独立し、夫が死んでしまうと、また修道院に戻ってきた。
●熱心な信者(21頁)
布教という言葉を聞いただけで思わず首をすくめてしまう私は、どんな宗教であっても「熱心な信者」というものが怖かった。宗教というところまで行かなくても、例えば、こんにゃくを食べれば長生きすると固く信じて、まわりの人にもこんにゃくを食べさせようとするような女性が怖かった。
●寒さとの闘い(35頁)
「壁の石が寒さをため込んで、じっくりと部屋の中に吐き出し続けますから寒いですよ。外はかなり暖かい日でも、建物の中にいると寒さが骨にしみます。冬は今でも寒いですけれどね、昔はもっと寒かったです。よく零下20度以下の日が続きました。」
●樹皮の���音機能(44頁)
もしもいつの日か、科学者が樹皮に録音機能があることを発見したら面白いことになるだろう。植物だと思って安心して、人は樹木の下で口論したり、恋を告白したり、無防備に涙を流して独り言を口走ったりするが樹木はそれをすべて録音しているかもしれないのである。
●日本の朝食(96頁)
海に生えているどろどろした植物、目のあったところが穴になっている干からびた魚、腐らせた大豆にナマの葱を刻み込んだもの。(海苔と目刺と納豆でしょうか)
●教育の意味(101頁)
「子供だって悪いものをたくさん持って生まれてくるんですから、枝を切り落とすようにそれを切り落とさなければ、悪人ができてしまいます。それが教育の意味です。」
(いろんな考え方があるんですね。)
●天の待合室(164頁)
ユダヤ教徒と基督教徒とイスラム教徒の代表が一人ずつ、神様の家に呼び出され、待合室で待たされた。誰が最初に呼ばれるのだろうと考えただけで、三人とも気持ちが落ち着かない。いらいらしながら黙って待ち続けた。もう待ちきれなくなって三人ともいえに帰ろうかと思った瞬間、神様が三人を同時に呼び入れた。神様は三人に「待っている間、何をしていたか」と訊いた。三人が「何もしないで黙って待っていた」と答えると、神様は「なぜお互いに話をしなかったのか」と言って怒ったという。
●選択の自由(186頁)
何語を母語にするのか、どんな町に生まれるか、どういう名前になるのか、本人は何一つ決められないというだけでもう、私の一生は初めから私自身のものではなかった。
●女性と宗教(190頁)
「女性と宗教は、堕胎の経験によってしか結び付かない」
著者 多和田 葉子
1960年、東京生まれ
早稲田大学第一文学部卒業
1982年よりドイツに在住
1991年、『かかとを失くして』で群像新人文学賞受賞
1993年、『犬婿入り』で芥川賞受賞
2000年、『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞受賞
2002年、『球形時間』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞
『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞受賞
(2011年1月28日・記)
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私の好きなハンブルクがや北ドイツという珍しい設定。中年へ向けて少し寂しい気持ちを共有した気分。後半の結末の先が知りたい。
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多和田葉子「尼僧とキューピッドの弓」(講談社
2010)は、ドイツ語と日本語で執筆している著者
の書き下ろし長編小説で、今年の宇治市「第21回
紫式部文学賞」受賞作。修道院を舞台にした静謐
さと艶めかしさが不思議な香りのコラボを放ってい
る。
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「キューピッドの矢」かと思ったが「弓」だった。そこがポイントなのかもしれない。修道院のドキュメンタリーのような文章。読んでしばらく経つので詳細を忘れてしまったが不思議な余韻が残っている。また読み返してみたい本。
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何か特殊な設定を持つ作品を書くときに、作家は取材を必要とすることがある。だが取材はしすぎるとその調べた現実から飛躍しきれなくなり、逆にイマジネーションを限定するケースも少なくない。ドイツの修道院に住む尼僧たちの人間模様を描く本作を執筆するに際して、作者は実際、修道院に一ヶ月間滞在したとのことだが、その現実が作者にとってあまりに魅力的でありすぎたためか、どうもそこばかり書き込みすぎてしまっている印象がある。
本作は前半約170Pを占める第一部と、後半約60Pの第二部に分かれるが、多和田葉子らしい文体の精度・密度を感じさせるのは、エピローグ的に配置された第二部の方である。それは単純に、第二部の文章には端々にまで作者の主観が入り込んでいるからで、逆に作品の大部分をなす第一部はドライに過ぎる。
第一部は、言うなれば『世界遺産』的情景描写+『世界ウルルン滞在記』的異国間会話を掛けあわせた、正統派ドキュメンタリー番組仕上げ。つまり取材力がものを言う作りになっており、もちろんフィクションとして加工されてはいるのだろうが、かなり現実感の強い描写と会話が続く。たしかにそれはそれで見慣れぬ世界を覗き見た気分で、ある種の(まさにドキュメンタリー番組を観ているような)魅力はあるのだが、それはフィクションにとってはまだ加工前の「素材」段階であるように思える。
今回、作者はまさにその「素材取ってだし」感をこそ表現したかったのかもしれないが、素材を生かすために文体から灰汁と旨みを抜き、プレーンな方向へとシフトさせてしまったのは、あまりに料理人(フィクション作家)の腕前が勿体ない。だが素材が良ければ良いほど、素材の味を生かす方法を考えるのが優秀な料理人でもあるわけで、そういう意味では修道院という素材が、やはり多和田にとって魅力的すぎたのだと思う。
だが何と言っても、ねじくれた情念と官能が渦巻く第二部は魅力的だ。問題は、この第二部のために壮大な第一部という前フリが必要だったかどうかという点である。もしそう考えるならば、第二部には何かしら驚きの展開が欲しいところだが、本作にそこまでのミステリー的強度はない。第一部は確かに、雰囲気作りや展開への事前情報という意味では機能しているのだが、それを第二部の中へと巧みに練り込む腕前を、多和田葉子は間違いなく持っているはずである。そのような形で全体を100P以内にまとめるか、あるいは第二部の文体ですべてを書き尽くしてあったなら、これは傑作になっていただろう。
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初・多和田葉子。
一番とっつきやすそうな物を選びました。ほかのを読んでいくと、どうなのかわからないけど…?
前半はエッセイ風。
ドイツのハンブルグにある、開かれた修道院に滞在して、取材する女性の視点から。
歴史ある建物を保存するのには、人が住むのが一番という理由から、尼僧院となっている。
教会の隣にあり、千年前にはカトリックの修道院だった。後にプロテスタントになり、今はさらに自由な雰囲気に。
信仰に関してはそれほど厳重ではなく、昔ながらのしきたりで修行しているわけではない。
修道院に入るには独身が条件。
たいていは夫を亡くしたか離婚したかした中年以上の女性が集団で安全に静かに暮らし、講演を企画したり、幼稚園の手伝いをしたり。個室で自炊したり、庭作りを楽しんだり。
週に1度の日曜日には礼拝、もう一度水曜日に集会を持つ。出て行くのも自由。
尼僧院長は、一戸建ての家に住める。
このとき、手紙で連絡を取った尼僧院長は急に出て行った後だった。
禅と弓道に興味があるといっていたのだが…
尼僧院長代理はしっかりした人のようだが、尼僧院長は別に募集して選ぼうとしている。
院長の仕事は経営者と同じなので忙しく、自分の研究をする時間が取れないからだそう。尼僧院に入ってから大学に通い、修士までとった人なのだ。
尼僧院の体制が面白くて、取材そのままのように読める。
個性的な人物が揃っているし。
漢字であだ名を付けていくのは、ちょっとユーモラス。「私」には親しみだけでなく距離感もあるのでしょうか。
女性同士の微妙なせめぎあい、あるでしょうねえ。
作者は、実際に一ヶ月滞在したそうです。
ただ、ひょっとしたら、実際より面白くしたのかなあと後で考え込んだけど。
第二部は、別な「私」の視点から。
最初は同じ人かと思ってしまうが、全く違う人生。
でも裏表のようなものなのかも?
若い頃から描かれているので、謎はほとんど無くなります。
夫との間に距離が出来て、他に女が出来た夫と別れて、尼僧院長に一度はなった女性が、夫が追いかけてきたために…
ドイツ人だが、弓道の師範という夫。
キューピッドと弓道はちょっとイメージが違うんだけれど。
その辺についても言及と考察があります。
何かのご縁のような、でもある。
前半の~男性がいなくてさばさば!という状態から、どろどろ~のケースへ戻るのが何というか。
熱っぽさ、もどかしさ、愚かさも生きている証?
多和田葉子は1960年、東京生まれ。1982年よりドイツ在住。
ドイツ語と日本語で小説を書いている。
1991年、群像文学新人賞。
1993年、「犬婿入り」で芥川賞。
発表するたびに何かの賞を受賞している才能溢れる作家です。
2010年の作品。
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松永美穂さんの『誤解でございます』の中に、多和田さんの『尼僧とキューピッドの弓』のモチーフになっている修道院についての記述があると教えていただき、読むのを楽しみにしていた本。
多和田さんの小説の語り手はいつもどこか道に迷っているような感じがある。しかし、迷っていることに対する不安感のようなものはそこにはないと思う。迷っている、という言い方がそぐわないのかもしれない。見も知らぬ街に放り出された人が、注意深く見るべきものを鋭く見て、感じて、自分なりの地図を作り上げていく、そのプロセスが描かれるのが多和田さんの小説の特徴の一つではないかと思う。だから、多和田さんの小説を読んでいる時は、一緒に冒険しているような気分になるのだ。言葉を使って未知の世界を切り開いていくような冒険。
今回、主人公が放り投げられた未知の街は、修道院の周辺である。「尼僧」という言葉がタイトルにあるのを見て、どこか多和田さんらしいなと思った。多和田さんに『聖女伝説』というタイトルの小説があって、その本に関するインタビューで多和田さんは「『聖女』という場所から見えてくるものを書いてみたい」というような意味のことをおっしゃっていたと思う。『聖女伝説』は「聖女」という言葉が喚起するイメージを丹念に追いながらストーリーが進んでいくうちに、「聖女」というイメージが通常持っているものからは微妙にずれていくような小説である。「聖女」というのは「聖女」である前に「女」なのであるから、という含みが『尼僧とキューピッドの弓』にもあって、「修道女」はそもそも「女」なのであるから、という縛りというかルールというかが、未知の世界に放り出されたまっさらな登場人物に課せられる。そういうルールをかぶせられているのにも関わらず、多和田さんの小説を読んでいるといつも「自由だなあ」と思ってしまう。日常のありふれたルールとは違う、言葉を突き詰めて考えだされた別の魅力的なルール(そしてそれは優れた作家にしか発見できないのではないか、と個人的に思っているのだけれど)へ飛び込んでいく果敢な雰囲気がそう思わせるのだろうか。
主人公が、修道女に会うたびに名前をつけていくところも面白い。「透明美」とか「火瀬」のように。『飛魂』もこういう雰囲気がある。漢字が誘発するイメージを巧みに使う多和田節も好きである。そこそこ物語性があるので多和田さんのものの中では読みやすい部類に入るのではないだろうか。『球形時間』とかのようなとっつきやすさを感じる。でも十分に、日常でぼんやりと運用していると狭くなりがちな日本語(日本語が狭いと言っているわけではないです、母語、とでもいうか)の枠から外へ出よう、という運動は感じられる。
多和田さんの未読は『雲をつかむ話』のみに。さてどうしようかな。
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多和田葉子さんの作品の中でもずっと気になっていたもの。タイトルが愛らしいです。
弓道の禅の精神?とプロテスタントの宗教性、の絶妙なコラボレーション。一部の語り手が多和田さんの分身なんでしょうか?
語り手が修道院にのめり込みながらも「プロテスタントの自由=性」とフト思うところ、目をひかれました。
また尼僧へ付けられるあだ名、ルビをふって欲しいくらいでした(笑)
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芥川賞ほか文学賞各賞をほぼ総なめにしている感のある多和田葉子氏であるのだが、残念ながら一作も読んだ事がなかったのでこの作品を買ってみた。読んでみるとさすがに文学賞を総なめにするだけあってお話の構築の技はたいしたものです。さてお話の面白さはというとぐっと引き込まれるというお話にはなっていないのだが、ドイツに旅した修道院を研究する日本人女性が観察する彼女が出会ったユニークな修道女たちとの日々、そのなかで知った官能の矢にいられ職をなげうった修道院長。
そして後半はその修道院長が日本人女性が綴った修道院研究の本を見つけるところから始まる回想。この作品もまた男女の関係構築の難しさを語って入るが、語りの方法が軽やかなので痛い気持ちにはならないところが救いか。純文学好きな人にはおすすめです。