紙の本
意外だった
2016/07/29 01:24
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けy - この投稿者のレビュー一覧を見る
私はデカルトについては知識でしか知らず、「座標を生み出した偉大な数学者」や「全てを疑った末にわれ思う、故にわれ在りと言った哲学者」といったすごい人というイメージしかなかった。しかし、自伝風のこの本を読むととても慎重な人だったんだなという印象を受けた。偉人であることに間違いはないが、偉そうな感じがせず、遠い雲の上の人というイメージは無くなった。
また、デカルトは地動説派だったことや、ガリレイさんが罪に問われたのにビビって論文を出すの止めたこと、医学に興味津々だったことなど面白い話がたくさん書かれていた。また、全編がアブストラクトみたいなものなので、網羅的にデカルトの学問が知れたのも良かった。
文自体は硬い感じがあるが、中身は柔らかいので、興味があったら読んでみて欲しい。
紙の本
近代以降の哲学の基礎となった名著を丁寧に解説してくれます!
2019/01/25 14:54
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、近代以降の哲学の基礎となった「私は考える、ゆえに私はある」という思想を収めたデカルトの『方法序説』の内容を丁寧に解説した作品です。デカルトは、すべてを疑うことから出発し、結果として上記のような有名な言葉を残したのですが、その過程では様々な苦難に遭遇します。その苦難とはどういったものだったのでしょうか。同書では、そうしたデカルトの哲学思想に対する研究姿勢のようなものまで教示してくれる非常に興味深い一冊です。
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「我思うゆえに我あり」、それは学問において迷ってしまった時に帰るべき座標なのかもしれない。この書は、学問を多くの者に開くことがその発展を促し、そして人々の幸福に役立てる実践的なものにすることを導くものであるように思った。学問は他人から学ぶより自分で発見しなければ自らのものと出来ない。そのためにはきっと「我」に立ち返らなければならないのだろう。
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平易で読みやすいな。そう思ったのは、「我思う、ゆえに我あり」の論じられた本書への先入観から。
対象者が専門家ではなく万人向けとされている。デカルト個人の半生や学問に対するスタンスが説かれている。学問のススメ的な佇まいもある。「私は~」という文章が多めであり、哲学書というよりも思索的エッセイのよう。著者の思い、その誠実さが伝わってくるようでもある。自己啓発書的な側面もあると感じる。
「我思う、ゆえに我あり」とのデカルトの到達点は当時センセーショナルだったろうし、今もなお、私たちに多くの示唆を与えてくれる。しかし哲学という物語はここで終わらない。後の哲人によってその都度取り沙汰され、勘案されてゆくのだから。このことは『ドラゴンボール』においてレッドリボン軍を壊滅させた孫悟空がそれでも冒険を止めなかったことに連関しないか。知は戦闘力でもってその多寡を数値化できないわけであるが、それでも人々は知を、知の在り方を、その堅固さを求め続ける。戦闘力ではない、何か別の度量衡を模索したりもする。
驚くべきは本書の発刊年が1637年ということ。日本は江戸時代、島原の乱と同年。この時期にここまで現代に近しい考え方を有していた人物が西洋にはいたという事実。
また仏教的・東洋的な箇所がある点も興味深い。「極端なものは好ましくない」とするのは中庸の考え方に通じるし、「万物は変化する」との論は諸行無常を連想させる。
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すこしでもトマス・アクィナスなどを読むと、デカルトがいかに清新な思想だったかがわかる。デカルトは『方法序説』を「物語」といっているが、読み返してみると、既存の学問に満足できず、9年放浪し、ドイツの路辺で「方法」に思い至ったところは、『ジャン・クリストフ』のような「魂の彷徨」という感じである。ちなみに『方法序説』では、明証性・分析・総合・枚挙の4つ規則を普遍学の基礎として真理を発見ようとする。日常生活については「慣習に従う」「決心を曲げない」「運命より自己に勝つ」ことをあげる。デカルトは社会生活では保守的なんであるが、科学ではハーヴェイを引いたり、実験を計画したり、なかなか革命的だった。
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まず、ルネ・デカルトについてであるが、彼は1596年にフランスのトゥレーヌ州生まれの哲学者、数学者であり、近世哲学の祖とされる人物である。また、経験論者として知られるフランシス・ベーコンと対比されて合理論者の典型として引き合いに出される。この「方法序説」は1637年、彼が四十一歳の時の著作である。彼の代表著作には他に「省察」、「哲学原理」、「情念論」などがあるが「方法序説」はそれらの先駆けとなっている。この「方法序説」は一般に「私は考える、ゆえに私はある」というセンテンスで有名であり、これは近世哲学の第一原理とされ、デカルトの思想の重要なもののひとつである。だがこの著作には他にも重要な思想が含まれており、その中には我々に対して未だ訴えるものもある。
この著作の序文において、六つの段落に分けて読むことができることを作者が説明しており、第一部では「諸学問についての様々な考察」、第二部では「著者が探究した方法の主要な規則」、第三部では「この方法から引き出された道徳の規則のいくつか」、第四部では「神と人間精神との存在を証明するのに用いられた諸根拠」、第五部では「著者が探究した自然学の諸問題の順序」、そして最終部では「自然の探究においてこれまで以上に前進するために必要と思われる事柄、および著者が筆を執るようになった理由」が語られる。
この著作を読んだ後での世界の見え方は読者の思考体系に影響を与えるに十分であると思う。
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前半は深く考えることが重要であると気づいたきっかけや発見した「方法」、そして「我思う故に我あり」に至る経緯など。そして後半は自然学についての諸問題として主に生物について述べている。特に機械・動物・人間の違いについては現代のAIに繋がる問題提起がなされており先進的なものの見方をしていたことが伺える。一方で意見の公表については非常に慎重であり、ガリレイ事件を主な理由として『世界論』の公刊を取りやめたりもしている。ただ、公刊することで巻き込まれるであろうつまらない議論によって考える時間を盗られるのを嫌ったことも明かしており、どちらかと言えばこちらが本当の理由のように思える。哲学書に分類される本書であるが、哲学書というよりもデカルトの自伝という感じで、学問に対する思いや真摯さが伝わってくる。
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デカルト、面白い
色々と無理はあるんだけど、まさに自分で一から全ての体系をつくりあげようとした、そういう姿勢と、驚くべき成果、一人で全部やる、という無茶苦茶な態度だから成立する世界観、など、否定すべきものではなくて、これはこれでやはり価値があるのだ
否定するものになったとしても、アリストテレスが否定されていくなかで万学の祖となったように、デカルトも、こういう一個人があるからこそ、それ以降が相対化できたんだ
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デカルトの自伝のような感じだった。
この考えに至るのに、どのような経緯があったというような内容。
デカルトは、謙虚なんだなーと感じる部分もあれば
自分より厳格で公平な人に会ったことないと言う箇所もあり、
そんなところも面白く感じた。
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教養として、一度は手に取って「読んでみた」と言ってみたかったので、読んでみた。「考えるがゆえに我あり」の言葉は、実はこの方法序説の中でもさらに序説にあたる部分だと初めて知った。当時の哲学という学問は現代に比べて幅広く、自然哲学(科学)も範囲内に入っていたはず。デカルトはなんとなく他の哲学者(科学者)を見下してる感が匂う。
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「我思う故に我あり」の名言を辿りたく、手に取った
内容としては正直、難解過ぎてよく分からなかった(特に後半)
ただこれでも、随分わかりやすく日本語化、そして解説が付けられているのだと思う
実際、本文訳は本書の1/3程度で、もう1/3がその解説、残り1/3が参考文献等の紹介であった
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先に同出版社から出ている「省察」を手にとったのだが、難解であったために挫折。まえがきで「序説」が学者に対してではなく万人に向けて書かれたものとして説明されていたので、こっちを読んで見ることにした。原文はラテン語ではなくフランス語で書かれたようで、「省察」よりも親しみのある印象を受けた。
「序説」そのものは短いテキストだが、本編と同じ程厚さの解説がある。今回読むにあたっては、1部を読んでから1部の解説を読んで2部に進むという流れをとった。特に4部の解説が印象的。神の証明に対するトマスアクィナスとの違い、「省察」と「序説」での神の証明の踏み込み具合の違いについての説明がわかりやすかった。5部では冒頭から突然心臓の仕組みの説明を始めるなど、面食らうこともあったが、現在にも完全に解決したわけではない問題がとりあげられている。真らしいものによって名声を得るのではなく、真なるものを見つけようとする。万人のための学問を自ら構築する。デカルトの学問に対する熱意が感じられる素晴らしい本だった。
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「私は考える、ゆえに私はある」が有名な本書
自分なりに噛み砕いた解釈では
要は
世界には真理があり、規則がある
それは神が世界をそのように作ったというしかないようなものである
どんな学問にも共通した真理、規則があり、一つずつ学んで、蓄積していけば、学んだことがない分野の問題でも理解し解けるようになる
これらの学び方は、本来この本により学ぶようなことではなく、自分で思考して得るものである
学問のススメってことなのかな、、
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ひょっとしたら、近年最も貶価的に扱われている哲学者の一人ではないか。伝統的な心身二元論者の提唱者として「身体と独立して外界を知覚する精神」という意識モデル(デカルト劇場)を派生させたとダニエル・デネットから槍玉に挙げられているのは有名だが、そもそも近代人間精神のオリジネータの宿命として、のちに続く哲学者から軒並み批判の対象とされてしまう存在でもある。さらに卑近な例としては、方法的懐疑をピュロン主義的な不可知論と混同した浅い読み手からシニシスト扱いされてしまうことさえあるのだ。
ところが改めて原書にあたってみると、上記の見方とは異なる印象を多く受ける。まず心身二元論に関して言えば、確かに精神の身体からの独立並びに不死が強調されてはいる。しかし同時に「真の人間」たるためには「精神は身体により緊密に結合し、合一しなければならない」ともされているのだ(第5部末尾)。もちろんその合一の具体的仕方には全く言及がないがしかしそれは心身一元論者とて同じことだ。例えばデカルトの認識論を正面から「誤り」と糾弾し、情動に対する身体反応の知覚への関与を考察したアントニオ・ダマシオの理論も、その名の通り「ソマティック・マーカー『仮説』」であるにとどまり、実際に心身が協働する場やメカニズムに対する直接のインディケーションではない。いまだそのような場が見出されていない、つまり心身問題が解決されていないことから見ても、「心身一元/二元」の二元論(!)にはかつて見出されたほどの意味が失われているように思えてくる。
また方法的懐疑についても、全ては「疑いうる」とはされても、全ては「偽でありうる」とはどこにも書かれていない。本書を読めばデカルトの意識の中心にあったのはそのような「全てが偽かもしれない」グロテスクな世界ではなく、あくまでも「疑うことを可能とする」理由、根拠であり、そのような問いを可能にする場としての理性であったことが容易に読み取れるはずだ。
しかしこれほどまでに平易な本だとは思わなかった。学究書というより啓蒙書として書かれた本なので当然だが、もっと若いうちにサラッと読んでおくべきだったと後悔。岩波文庫版をaudibleでランニングしつつ聴いたが、それだけでも十分理解できる内容だった。
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これまで飲茶氏の著作に代表されるような、哲学に関する読みやすい入門書を好んで読んできたが、代表的な古典哲学の訳書も読んでみたくなり、まずは読んでも疲れなさそうなボリュームで、かつ近代合理哲学の出発点ともいえるデカルトの『方法序説』を選んでみた。ページ数では岩波文庫版が一番少ないのだが、単に日本語訳されたものではなく解説が充実しているものが良かったので、山田弘明氏訳のちくま学芸文庫版にした。
本書の特徴は、充実した解説だけでなく、読みやすさを意識した構成である。具体的には、要点が一目瞭然となるように、序文にしたがって訳者の判断で表題が付けられ、さらにそれをいくつかの節に分けたうえで小見出しも付けられているため、自分のような初めての読者にとっても非常に読み進めやすい。
50歳目前にして、デカルトに関しては、高校の倫理の教科書や哲学の入門書に述べられていること以外は全くといっていいほど知らず、『方法序説』の存在すら知らなかった。有名な「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」の言葉は知っていても、その真の意味するところやどのような経緯で生まれた言葉なのかなど、本書を読むまで知る由もなかった。
『方法序説』の研究や解説は数多くなされているため自分なりの解釈などは控えるが、本書を読んで率直に感じたことは、執筆時の若きデカルトの意外なまでの行動力と精神力であった。とかく歴史に名を刻む近代哲学者に対しては、内省的で内にこもりながら自分なりの哲学を構築していくイメージが強く、実際にデカルトも軍人として冬営地に留まった際、炉部屋にひとり閉じこもりながら存分に思索に耽ったことで、4つの規則(明証の規則、分析の規則、結合の規則、枚挙の規則)を導き出している。
しかしながら青年期のデカルトは、当時の学問に対して批判的な立場をとりながらも、部屋に引き籠もって同じ場所に留まって考えるだけでなく、長い時間をかけて旅をし、時には他国に移り住みながら自身が発見・構築した理論をひとつひとつ丁寧に検証していくという行動的な側面を持っている。しかも、4つの道徳的格率を己に課し、それらを頑ななまでに守り抜くという強い精神力(理性)を併せ持っている。
つまりデカルトは、自身が切り拓いた学問の地平を、実社会における実践知にまで昇華して役立てるものとするために、強固な理性を基盤にして意識を内と外に向けつつ思考を極限まで研ぎ澄ませたからこそ、「われ思う、ゆえにわれあり」という究極的な思考の境地に辿り着いたのではないだろうか。
『方法序説』においては、いわゆる「神の存在証明」や、後半に述べられている自然学の諸問題に関して、論理が飛躍し過ぎていたり、現代の常識からすると解釈が誤っていたりする部分があることは否めない。ただ自分の高校時代を振り返ると、カタカナ用語が乱発する倫理の授業は苦痛で仕方なく、単なる面倒くさい暗記科目としてしか捉えていなかったが、VUCA時代といわれる現代だからこそ、ブレない道徳観や格率に基づいて学問を再構築しようとした、デカルトの愚直なまでの姿勢に学ぶことは多いのではないだろうか。
改めて古典哲学を学��ことの意義を再認識できた一冊であった。