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失われた歴史 イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった みんなのレビュー
- マイケル・ハミルトン・モーガン (著), 北沢 方邦 (訳)
- 税込価格:3,520円(32pt)
- 出版社:平凡社
- 発行年月:2010.9
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紙の本
イスラーム文明の黄金期を「ロスト・ヒストリー」として詳細に紹介した、「文明の衝突」論とは一線を画す一般読者向けの歴史物語
2010/10/05 14:52
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「イスラーム文明の黄金期」を正当に評価すべく、米国人作家によって英語圏の一般読者向けに書かれた、400ページを越える大著である。
米国の職業外交官として約10年間のキャリアをもつ著者は、その後長年にわたって異文化理解とリーダー養成を目的とした平和財団を創設し主催してきた。だが、本書のテーマであるイスラームの専門研究者ではない。
著者が意図しているのは、政治学者ハンチントンに代表される「文明の衝突」論とは一線を画す議論を、史実に即して一般読者向けに展開することにある。
現代社会を主導してきた文明が、ここ数世紀にわたって西洋文明であった以上、イスラーム文明の黄金期の知的遺産が、西欧文明に吸収されたものも、そうでなかったものも含めて、「失われた歴史」になっているのは、ある意味では仕方がないことだろう。
しかし、いまやそのことに気がつかねばならない、というのが著者の問題意識であり、本書に一貫している主張である。あたかも古代ギリシア・ローマの時代から一貫して西洋文明が東洋文明に対して優越的であったかのような錯覚を抱かせてきた西洋近代、しかしそれは事実に反するものなのである。
著者のコトバを借りれば、「発明、大きな諸思想、寛容、多文化共存」といったすぐれた特性をもっていたのが、広い意味の「黄金期のイスラーム文明」であった。著者が人物を中心に詳細に描き込んでいる叙述を読むと、近代西欧における科学的発明の多くが、実は先行するイスラーム文明の成果の継承や発展に過ぎないことが理解される。あるいは、20世紀も後半にいたって、はじめてその先駆的な意味がわかってきたような事例も多々あることを知ることになる。
黄金期のイスラーム文明は、先行する古代ギリシア、ローマ、ビザンツ(=東ローマ帝国)、ペルシアの知的遺産の集大成である。アラビア語への翻訳をつうじて集積された膨大な知は、イスラームの文脈のなかで、数学、天文学、医学、その他諸科学の高度な発達となって大きく花が開いた。たとえば、『ルバイヤート』の詩人として知られるオマル・ハイヤームが、数学者・天文学者としての卓越した業績を達成していることを、本書では知ることができる。
中世後期以降の西欧文明は、これらイスラーム文明が達成した知的遺産を、アラビア語からラテン語に翻訳することから出発したことを強調しておくべきだろう。中世においては、イスラーム文明と西欧文明のレベルはきわめて落差の大きなものであったのだ。
しかしこの「失われた歴史」は、米国の一般読者だけでなく、日本でもまだまだ一般常識になってはいないようだ。アルコールやアルジェブラ(代数学)といった英単語がアラビア語起源であることが、雑学として知られている程度であろうか。
明治以降、現在に至るまで西洋文明の圧倒的影響下にある日本はもちろん、キリスト教文明が強固な米国では、9-11テロのこともあり、米国では偏見に充ち満ちた見解が、逆に燃えさかっている状況だ。つい先日も米国では、『聖典クルアーン』(コーラン)を燃やすと公言して物議をかもしたキリスト教牧師がいたことがニュースになっている。
著者は、本書の出版が、「潜在的な地雷原に足を踏み入れることになった」と述懐している。米国の状況を考慮にいれると、ムスリム(=イスラーム教徒)ではない米国人の著者の、勇気と良心を賞賛すべきであろう。
ではなぜ、この黄金期のイスラームの「高度文明」が没落したのか? なぜ高度な知的遺産がすべて後世に継承されないまま「失われた歴史」になってしまったのか? この本を読んでいてつねにつきまとう疑問である。しかし、著者はこの問いには直接答えることはしていない。読者によっては大きな不満と残るであろうが、西洋中心史観の陥穽に落ちることを避けたかったためだろうと推察している。
臨場感を出すためであろう、過去形をいっさい使用せず、現在形を使用する文体については、好き嫌いが大きく分かれるだろう。また、現代と過去を合わせ鏡にして場面転換させる手法は、映画ならまだしも、活字としては読みやすいとはいい難い。
正直いって私の好みではないが、著者の意図は、あくまでも歴史を「現在」として捉えようということにあるのだろう。その後の歴史的展開から遡って過去の歴史に審判を下すのではなく、科学が、思想が、芸術が生成する現場で、「現在形」で叙述するという姿勢だ。この文体を使うことによって、歴史には別の可能性(オルタナティブ)があったのではないかということを示したいのだろう。
ただし、引用された諸学者たちの発言の典拠が示されていないので、検証しようがないのは玉にキズだ。また、これらの引用文が、なぜか例外なく擬古文で訳されているのは、正直いってうっとおしい。
とはいえ、本書の守備範囲は、狭い意味のアラビア世界には限定されない、広大なイスラーム世界全域をカバーしたものだ。イベリア半島も、トルコも、ペルシアも、中央アジアも、インドもすべて、イスラーム文明の及んだ範囲として捉えており、その文明圏において、イスラーム文明が達成していた知的遺産を「ロスト・ヒストリー」として語っているのだ。これが本書の大きな特色である。基本的な史実は押さえているが、この本の内容はどちらかというと、日本語でいう「歴史物語」に近い。
その意味では、大冊だが読む価値のある内容の本であるといえよう。
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