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珍しく図解雑学シリーズなのに、分かりづらかった。
理由としては文章が多く、図も様々な要素を入れており、すっきりまとまっていない。マルクス経済学を概観を見通すのは難しいが、もう少し整理した方がよいと思います。
他書で、マルクス経済学を学ぼうと思った。
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マルクス経済学の基礎が分かりやすく書いてある本・・・・だと思って手に取ったけど、実際は内容がぜんぜん整理されておらず、理解しにくかった。
社会主義的な考え方と資本主義的な考え方、さらには筆者独自の考え方がごちゃまぜになっていて、今読んでいる章がどの考え方に基づくものなのか分からなくなってくる。
もう一度、ちゃんとしたマル経の本で勉強しなおさねば。
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この図解雑学は適当に図書館でみつけた。 私は、イラストが邪魔して読みずらくて、内容は問題ないと思いますが、イラストそのものがぶっとびすぎて、イラストに目がいってしまい、文章を集中して読めないのです。
本書はイラストが読み応えあります。
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入門としてさっと読んだ。つまずくことなくスラスラ読めた。
多分著者の考えとマルクス自身の考えが混ざった本なのだろう。その区別ができるように、他の本も読みたい。古典は、こういうものを数冊読んでから読み始めればよいかと。
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マルクス経済学入門としてはとても良いと思う.
マルクス=資本家は労働者に対する搾取だー!を唱えるだけというのは非常に表層的であり,またその打開を目指した旧ソ連のような失敗例と言われるものも,マルクスに独自の解釈を与え,錯誤した,実現を試みた一手段に過ぎないものなんだなと思った,後半はやや難しかった.
「社会的なことの一人歩き」からの解放.というのはとても本質的なテーマだと思う.
一方で本書でも触れられていたけど,どこまでできていれば自由もしくは抑圧と言われるんだろう.ここの線引きはとても難しい.
資本家は商品を持ち,労働者は労働力という商品しか売り物がないというのはまさにその通り.
・マルクスの信念ー>社会的なとこの一人歩きからの解放、個人の抑圧の解放(自由)
・上部構造と土台(観念と現実・現場)
・人は自然に対して労働を投入し純正産を得て(経済活動)、それを消費して生きながらえる。
・利潤あるところには必ず搾取あり(マルクスの基本定理)
・剰余労働(搾取)と必要労働
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周りが政府03するから各自いやいや政府生産する時代が、権力者が実家に矯正する事態と同様に個人の自己決定の親がいたとするならば、不況で物価が下がって失業や倒産が相次ぐ自体もまた、個人の自己決定の侵害であると言えるはずです。
→違和感を感じる。好景気や不況は人間によって生み出されるものではあるが、それがコントロール可能であるかのような前提を感じる。
社会的なこと(国家、主義、主張、宗教、常識など)の一人歩き→順守の自己目的化・個人の抑圧
筆者の初めにがとても熱がこもっていて良い。
中央指令経済では、上位計画の遂行を下位者が自己利益のために歪めることを防ぐ動機付けの仕組みが必要です。
近代の資本主義経済は昔の村や職人団体などの身内共同体を壊して流動的で割り切った匿名の人間関係に変えることで発展しました。その中で共同体内での切りの取引や困ったときの援助がなくなり競争に負けて没落するほかない人々は多数出現したわけです。それ故資本主義に対する反発はまずは昔の共同体を取り戻そうと言う志向として現れてしまいがちなのです
しかし身内共同体の助け合いの裏には異質なものへの抑圧とか外部者への無関心や敵視があった事は忘れてはなりません。
資本主義のおかげで得をしている人はよく自由主義を名乗ります。そして自由の名のもとに市有財産を自分のため以外に使うことを拒否します。しかし子に対する反発はしばしば道共同体原理から出てきます。つまり、同じ国民だからある程度平等でないといけないと言うわけです。そして同胞のために個人の自由は抑制されるべきだとします。自由と平等が対立する図式は後から生じます
本書では資本主義批判の経済学といっても身内共同体原理ではないだれも所属や身分にかかわりなく扱う近代の開かれた人間関係原理を把握評価する軸。個々人の暮らしの事情にを根拠にして社会的(主義主張)なことの一人歩きを批判する軸。この二軸から話を組み立てる��とを思ってマルクス固有の特徴と考えマルクス経済学の入門書を名乗る根拠とします
マルクスの立場は自由主義の徹底
身内共同体原理
社会主義は働く者の解放が目的の社会的な思想だったのにそれには中国でおびただしい普通の働く人々がその思想の名のもとに殺されてしまいました。
階級とは所得の格差や形式上の財産所有の格差の事ではありません。社会的なこと、を決める人と決められる人との分裂がその本質です
日本の平安時代の生産は都の公家の荘園で農民が働かせるれる仕組みでこの土台に対応した上部構造が公家政権でした。しかしそのもとで新たに田舎の現地の有力者が開墾管理する農業が発達します。彼らは名義的に公家に土地を寄進して事実上の所有権を守るために武装して武士になります。彼らにとってはこの土地所有を保護しそれをめぐる紛争を公平に裁判する上部構造が必要です。しかしこの土台が発展して武士階級が台頭しても公家に権力がある上部構造はなかなか変わりません。結局そのギャップが十分行き着いたところで鎌倉に武士の政権がうち建てられました
→上部構造・土台というフレームワーク
社会的観念と現場。この乖離が上部構造の変革を促す。
「俺は現状で抑圧されているぞ」という主張は重要で、もっと良いやり方が見つかる可能性がある。(不運、わがままもありうるが )
身内集団原理は取引を「くうか食われるか」と見るので市場批判端のが筋が通っています。取引を不正と見て忌避し「富は他人を食い物にした結果だから力で奪ってみんなに配るのは正義」と考えます
万事につけて幸集団原理の発送に立つのが力です。「国家=家共同体)の場合はまさしくそうですがその他の美美内集団の場合も同じだと思います。だから自称左翼の多くは本当は右翼なのだと思います。
逆に新古典派にせよケインズはにせよ普通のまっとうな経済学は本質的に美内集団原理の発送に立たないのでどんなに純粋資本主義思考はでもよーくではありません。二次集団原理の発送に立たないもののうち世の中が支配するものとされるものに分かれていると見て支配されるものの側に立つのが左翼なのだと思います。
人間は自然に対して労働を投入して、取り出した生産物を自由に処分することで生きている。
人間はこの労働を多くの人でつながりやって行う。
人間社会と言うのはお互いの欲求を満たすためにお互いに労働しあっている関係だと見ることができます「人と人との依存関係」と言うことです。
市場社会では人と人との依存関係が物と物との交換関係に投影されて現れます。支配従属関係も物の交換関係の形をとります。
原始時代のグループ社会から古代文明の時代も貢献時代もどこでもありとあらゆる人間社会の本質はこのように把握できます。資本主義経済も人間社会の1種である以上根本的な正体はこれと同じです。
(年貢で5割の収穫を取られる場合)各自の年々の労働時間が1000時間なら、そのうち500時間は自分のための必要労働、500時間は殿様のための剰余労働といえます
資本主義を批判する思想運動社会を広く指すのが社会主義でその1種として共産主義があるというのが1番無難な捉え方だと思います。
マルクスの基本定理→利潤の存在と労働の搾取が同じである。(置塩信雄が1950年代に数学的に厳密に証明)
各部門で見る得られる利潤は投下資本に比例するのでありその部門の常用労働に比例するわけではありません。社会全体の上行が投下資本に比例して分け取られとなるとみなせるわけです。搾取とは個々の資本家の仕業ではなく資本家階級全体の共同作業なのです。
昔の殿様や規則等は大体は自分の消費欲のために庶民を搾取していました。だから彼らの胃袋の大きさに合わせて作者は限りがありました。しかし近代の資本家は4歩の自己増殖のために増殖してあげる機会様の番頭に過ぎずこれがうまくいったら作詞のおこぼれに預かれるだけです。だからこの作者は人間の胃袋の限界などはるかに超えてほうっておけば限りがありません。いろいろな方法で搾取を強める力が常に働きます。
→悪いのは人間ではなくシステムであるということ
産業革命が最初に起こったイギリスでは当時女性や子供が毎日13時間とか15時間とか働かされていました。→19世紀半ばのイギリス工場法により労働時間を10時間に制限
人々は何かものを買う手段としてではなく自己目的として貨幣を欲しがるならば言っていた花柄を全部を手放さずに花柄のものを持つ人がたくさん出て売りの総額が街の総額を上回ることが起こりえます。これがデフレです(貨幣価値の上昇)
→貨幣物神崇拝