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10代から20代にかけてのソンタグの日記。進学、結婚、出産、パリへの留学、女性との関わり合い。自分の考え、誰かの言葉、読むべき本や観た映画のリスト。人は何故、そこまでして知性を求めるのか。書くことによって、生まれなおしている。
ソンタグの息子のデイヴィッドが編集。日記には続きがあるらしく、2巻、3巻と続くようだ。日記は続く、そして人生も。繰り返して読みたい。
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スーザン・ソンタグの本を初めて読んだ
(日記を読む事を本を読むと表現していいかは疑問)
すごくおもしろかった
30歳までの日々の思索と読書リストその他
あまり論理的でもなく、感情的にもなりすぎない(私見 あきらかに感情的な部分も多数ある)のと、書かれていない生活も多分にある そこにこそ彼女の感情(勘定!?)が読み取れる
すべてを肯定的に受け入れることはできないけれど(あたりまえ)共感してしまう 女でよかったね
『私の欠点 いつも遅刻する 嘘をつく、しゃべりすぎ 怠惰 拒絶する意思の力がない』
一緒に買ったサルトルの『嘔吐』の新訳版はまだ読んでる途中
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スーザン・ソンタグが生前につけていた日記とノート類が、公刊され始めた。『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(河出書房新社)は、彼女の14歳から30歳という、まだ書き手として世に出る前、つまりソンタグがソンタグに〈なる〉前の物語である。思春期の少女の、将来への希望と性欲のめざめが赤裸々に書かれている。
本書の責任編集を担当しているのは、彼女の一人息子であるデイヴィッド・リーフであり(彼自身の著書『死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々』というノンフィクションの邦訳あり)、また彼は、本書の中でスーザンの腹から誕生し、母の愛を受け、また両親の離婚とその直後の母のオックスフォード留学によって、母との別居を強いられた幼少期を送っている。そして、多くの読者がすでに承知しているように、このころのスーザンはレズビアンとしての自覚にめざめ、苦しい恋愛にかなりエネルギーを消費している。才能はあっても、まだ成熟していないころの母の書き綴った赤裸々な告白を、死後に公表するにあたり、息子はいかなる傷を受けるのか。実際に息子は、「本書の刊行は決して私が望んだことではない」と序文で述べている。
しかし、この息子の受けるであろう傷は、本書の潜在的な主題そのものではないか、という気さえしてくる。スーザンは、自分が優柔不断で、相手からの愛を求めてばかりで、他人に嫌われるのを恐れてその場を取り繕ってばかりいる気弱な俗物であるという自己嫌悪を、何度も何度もノートに書き綴る。峻烈な作家であり、毅然たる批評家であるソンタグが現れるのは、まだ少し未来のことである。
彼女は本書のなかで、自分が恋人の日記を盗み読んでしまい、恋人が自分のことを蔑視していることを知ってしまう。そして、日記というものは自分が今そうしているように、いずれ家族や恋人に盗み見される運命にあり、また潜在的には盗み見されることを前提としたテクストであるかもしれない旨を綴っている。こうした看破は、ある種老人的な、永井荷風的な意識でもある。
とにかく、死の2年ほど前まで丹念につけられていた日記は、母の日常を秘匿することをあきらめた息子の手によって、今後もぞくぞくと陽の目を見ていくにちがいない。
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20世紀後半を代表する知識人の1人、スーザン・ソンタグの14歳から30歳までの日記というより、雑記ノート。ソンタグの個々の言論には必ずしも同調はできなくても、作家であり活動家であることをはじめとする自己矛盾への葛藤を隠そうとせず常に強靭な意志で世界と対峙しつづけようとした彼女の姿勢には、その死後も勇気づけられているし、傍らから支えられていない日はない。日記という私的領域に踏み込む作業には大変なエネルギーが必要で訳者の木幡和枝さんは途中で体調を崩されたこともあったようだ、とおっしゃっていたのは今福龍太さんだったか松岡正剛さんだったか。「自分を主人公に見立てた個人の物語以上のものを、自分自身の生涯以上のものを、重視している」という17歳のソンタグの言葉と、「『日記』というものをはじめて翻訳し、他者のプライヴァシーに踏み込む行為。その冒険を精神面、知識面で後押ししてくれたのは、本書に登場する広範囲にして厖大な著述の訳者や紹介者たちであり、今はなき方がたを含む先輩や友人たちだ。この長距離ランナーたちの群とともに走ってきた実感は心強かった」という「訳者あとがき」とが呼応して美しい。「性的な欠乏感と知的な『欠乏感』は似ている」とは30歳のときの言葉。
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スーザン・ソンタグその人を知らないのに、どこかの雑誌の書評で見かけて以来、この本が心に残っていた。ひとつにはその装丁ー モノクロームの淡い階調のなかで、強い眼差しがひときわ印象的な彼女に、捉えられたのだろうと思う。
彼女の顔立ちや、(書評からイメージした)信条、態度に、なんとなく男勝りで直線的な人物像を頭に描いていたけれど、この若き混乱の日々を綴った文章を読むと、早熟ではあれ、まだコンプレックスに揺らぐ自己像を扱いかねている感じを受ける。
彼女がのちに作家、批評家としての「ラディカルな意志のスタイル」を獲得するに至る過程ー 醜くうごめいていた芋虫が、さなぎとなって内部で劇的な変態を遂げている、そんな生命の記録のようにして読んだ。この一篇に限れば幾分肩すかしではあったけれど、彼女の脱皮や飛翔のその時まで、今後の続刊から見届けたいと思う。
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大学生の頃、阿部和重『アメリカの夜』の解説を書いていた東浩紀が気になって、図書館みたいな友達に「東浩紀の本って面白いの?」って聞いたことがある。そしたらその友達は「くだらないよ。何より、東浩紀ってカッコ悪いんだよ。」と教えてくれた。私はすぐにグーグルで東浩紀の写真を検索して、案の定「何だコイツ」って思って、いまだに読んだことNAIしこれからも読むつもりはNAI。24歳のSSもこう書いている。“容姿の美醜は私にはとてつもなく、病的なほどこだわる問題”
これ、絶対に本当。
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この年齢になって、自分が走り書きしたものをみつけると、生意気にも恥ずかしかったり。
ソンタグのこの本も昔の自分をみているようで。
でもこの年齢だからこそのものが詰まっています。
若いときは 大していらないと思っても、大人になってこそこそ楽しめるようなものは、場所があれば取っておくのは、オススメだわ。
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とてつもなく頭のいい人の、表に出ない部分。
ちゃんと毎日お風呂に入ろうとか、好きな人と気持ちがすれ違ってばかりとか、この人は本当に生きて暮らしていたんだなと実感できる。
人としてのスーザン・ソンタグに興味がある人にお勧め。
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この14歳から30歳までの日記には、彼女の娘、妻、母、恋人としての葛藤が綴られていて、思い当たることも多かった。だが勿論それだけには留まらず、膨大な読書と思索と啓発の日々からは、珠玉の言葉も生まれ、読み手をも啓発に引き込む。正気を保つ為に感覚を鈍麻させて生きることもあった少女が、自らを危険にさらしてまで、神経を開放させようとする姿には、胸うたれ刺激を受けた。
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寝る前にぱらぱらと読んでいる。早熟な知性に驚いている。自分の性や恋愛を知と結びつけているあたり、格好いい。対人間で大きく揺れる心情が言葉に乱れとして表れているところがある。共感したりしている。
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半分くらい読んだ。背景を知らずに、断片だけを読んでも、見えてくるものはあまりない。ソンタグの他の著作をある程度読んで、その思想に触れた後であれば、おもしろく読めるのかもしれないが、まだ1.5冊しか読んでいないので、「よく分からない。何も掴めない」という感想のみ。17歳の時に、アントニア・ホワイトの『五月の霜』を読んだとの記述があり、少女小説も読んだのか、と親近感を持った。