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修道院における「断食」は、減量法を越えてスピリチュアルへの道を拓く
2011/08/05 16:11
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツのカトリック修道院で年二回開催されている「一週間の断食セミナー」に参加した、42歳のドイツ人雑誌編集長の記録である。
著者によれば、西洋のカトリック世界では、修道院の内部を除いてすっかり世の中から忘れ去られていた「断食」が、近年は復活傾向にあるという。資本主義世界の目まぐるしい生活に疲れ果てた現代人が、スピリチュアルなものに癒しを求める志向がその背景にはあるのだろう。
本書を読んでいると、中世以前にはキリスト教の伝統のなかに「断食」が位置づけられていたことがわかる。初期キリスト教の砂漠の修道士たちの精神をうけついだ中世ヨーロッパのベネディクト会修道院では、謝肉祭で肉を断った復活祭まえの四旬節の40日間は「断食」をすることになっていたらしい。
興味深いのは、インドを含めた東洋的な精神世界があふれている現代の西欧世界に生きているのにかかわらず、著者が東洋の「断食」修行法にははいっさい言及せずに、キリスト教とくにカトリックのコンテクストのなかでのみ「断食」について語っている姿勢である。おかげで、東洋的な解釈に染まった「断食」ではない、本来のカトリックの修道生活における「断食」を読者が追体験することができる内容になっている。
物質的な何かを捨てることによって、別の精神的に価値あるものを得る。肉体の欲望をコントロールすることによって、精神的に純化された境地に近づく。これは現在の日本でも流行の、禅仏教やヨーガの教えにインスパイアされた「断捨離」に通じるものがある。不要なものを捨て去り、食を断ち、目から入る雑情報を断ち、耳から入る雑音を断てば、自然と五感がフルに働き、感覚が鋭敏になってくる。より精神的な境地に近づくことになる。
著者のように「7日間」ではないが、じっさいに、日本の仏教寺院の断食道場で「断食」を体験したことのあるわたしにとっては、共感するものとそうでないものがあるのを感じたのは、わたしが西洋人のカトリック教徒ではないからだろう。キリスト教の信仰をもたない者には、読んでもいまひとつピンとこない点もあることは、正直に書いておきたい。
とはいえ、たんなるダイエットを越えた、「断食」のもつスピリチュアルな側面に関心のある人、「断食」を活字をとおして追体験してみたい人は読んでみるといいと思う。そしてできれば、修道院なり仏教寺院で「断食」を体験してみることをすすめたい。
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現代人にとって断食なんて、ダイエットの一環ぐらいにしか、
あるいはインドのヨガのイメージ、なんでしょうね。
キリスト教においては、神以外のものは、自分の体からすべてとりさることといったらいいでしょうか。
まさに今、復活祭を迎える四旬節。
大事なものはいったい何かを見つめるための「断食」なら、心も体も、すっきりとダイエットされるかもしれません。
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断食日記かー。
断食を始める前も重要なのね。
p101断念し、与えることにある…
113肝臓の温湿布
断食とキリスト教が実は関係性が深い事がわかった。
私も一度、一週間ぐらい断食してみたいと思う。
年に二回ぐらいできたら良さそうだ。
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キリスト教でいう「断食」の主眼は全身の新陳代謝の活性化と、そして心と魂の活性化にある。断食は、病気が作り出す具体的な疾患(たとえば胆石)はとり除くことはできないが、まだ、進行中の多くの症状を改善することはできる。
断食をしている人は物事を以前よりはっきり見ることができる。また必要な場合には、回心して新たな方向に向かうこともできるため、結果として何かに依存している状態から解放されていく。それどころか、断食という小さくも重厚な歩みに導かれると、私たちはしだいにこれからの人生に対しても、新たな可能性をおぼろげに感じられるようになる。断食している人がこの新しい経験によって、どれだけ変化するかは個人によって異なるが、どれだけ変化するかは個人によって異なるが、いずれの場合でも、きっと重要なヒントを与えられるだろう。
カロリー摂取を抑えながら少量の食べ物をとる「部分的な断食」の場合、逆に飢餓感が生まれるケースが多い。これに対し、完全な断食の場合は数日後には食欲がなくなってくる。その結果、断食治療を継続することが非常に楽になる。その場合も重要なことは十分な量の水分を取ることだが、一般に厳格な断食のほうが、少量の食べ物をとる部分的な断食よりずっと快適でたやすい。現在はさまざまなスタイルで、制限された食物やカロリーの少ない食べ物をとる断食治療があるが、多くの場合、完全断食にくらべて挫折する人が多い。
断食によって、外部からの栄養摂取ではなく、体内からの栄養摂取に切り替わる。「摂取する」ことを中心とする生活から「排泄する」ことを中心とする生活に移行する。
「断食と祈りは、私たちが自分の心を神に開いて見せる手段であり、神は私たちを過去の全ての罪から清めてくれる。」
私の体は断食治療のあいだ、自分自身の体内を治癒している。病んだ細胞を回復させ、健康な細胞を新しく作るのに必要なエネルギーを、自分の体内に貯蔵している栄養からとるわけだが、断食している体は食べ物を消化する役割から解放されている。力や瞬発力、忍耐や思考力は、食事によって左右されるわけではない。
断食によって、体内の毒素が排泄されるだけでなく、精神的な「大掃除」が自分の中で起こっている。
断食は人生のテスト版のようなもの。それは人間が投げやりな態度におちいることを食い止める。投げやりとは、つまりどんな精神的苦闘もやめてしまう態度のことだが、断食がそうならないようにしてくれる。
「断食によって私たちは自分自身にもっと近づく」「誰もが心の中に自分の歴史を抱えている。断食によって私たちはいつもより敏感になり、自分のなかに降り積もった余計なゴミにあることに気づく。そこで私たちは自分の罪や傷と向かうようになり、逆に自分自身を受け入れるチャンスも生まれる。」
「多くのキリスト教以外の「聖者」は、自分を神にひとしい人間にまで高め、自力の救いを得るように説くが、キリスト教の修道士は人の向上が神の恵みによってしかできないことを確信している。修道士は謙虚に自分を神にゆだねたもの。」
「あなたは自分に近づかなければな���ないし、自分に立ち向かわなければならない。でも、決して自力で自分を救うことはできない。本当の救いには、救世主の力が必要。」
「断食は自分の今の状態を知るのに役立つ。正しい断食をしている人は、自分が不完全な断片的存在でえあることを自覚し、救済と許しが必要であることを感じる。」
七つの大罪「1高慢 2貪欲 3色欲 4暴食 5憤怒 6嫉妬 7怠惰」「それは私たちに自分の欠点をあきらかに見せつける。そして自分のことをもっとよく知り、自分が歩むべき道を知る手助けとなる。最終的には、自分自身とも、また、他人ともふたたび関係をよくすることができるように、自分を改善するのに役立つ。」
カトリック教会の暦には、毎年イエスの受難を忍び、節制と断食を行う期間として40日間の四旬節がある。その初日は「灰の水曜日」と言われる。四旬節は空になる時期。
「人間は、個人としての存在の中心にある人格、この私以外の何者でもない。いつかそういう掛け値のない自分、「私」を自分の源である神様にお返すため。権力、影響力、名声、富、そういったものはみな人を実際に強めるのではなく、むしろ感性を鈍くし、力を弱め、心を冷たくする。」「断食によってものの本質を見抜く眼力がつく。」
「私たちは自分の人生をより高い神の力の委ねることで、依存状態になるのではなく、心が軽くなり、本当に自由になる」
「断食は、手を離すこと。結局、私たちの人生はこの手放すことに行きつく。望むと望まぬにかかわりなく、いつか私たちは自分の生命を神へお返ししなければならない。」
とりすぎたものを手離す。みずから進んで行う断食によって、疲労が回復されるだけでなく、実際に満足感も大きくなる。「所有すること」から「あること」、所有から存在へ人生の重点を切り替える。
「自分自身の強欲と一緒に自分を埋葬してしまう」
断食は必然的に感謝の心を生む。断食をすると、自分が自分で作ったのではない、さまざまなものによって生かされていることに気がつく。自分の人生が神の贈り物でであることを悟る。
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断食の意義は、ダイエットだけではない。そのことをよく知り、考えることができる。キリスト教的な見方は割り引いて考えることが必要だが、その奥に眠る意義をくみ取ることに、意義があると思う。精神的にシェイプアップできるという感じか。
以下 注目点
・断食をすると日常の習慣というしがらみから自由になれますよ。
・「なんでも探したいものを探しなさい。だが、今あなたが探しているところではないところを探しなさい」聖アウグスティヌス
・修道院の断食期間でも飲み物は飲んで良かったので、ビールが発明された。
・教皇ピウス五世 チョコレートを飲むものは断食の掟を犯していない。
・ドイツの司教会議 断食日にはただ一度の満足できるだけの食事と二度のちょっとした補足的な食事が許される。
・断食の主眼は、全身の新陳代謝の活性化と心と魂の活性化。
・他人と断食について語ることはできるだけ少なくしたほうが良い。それは、何よりだらだらした議論を避けるためだ。
・ほとんどの人間にとって、今までと同じ用な食生活をするほうが、ずっと大きなリスクにさらされている。
・断食の第四原則、自分にとってためになることを行うこと。体が要求することを見つけること。良書を読み、趣味に打ち込みましょう。
・これまでに感銘を受けた本を持って行き、毎日決まった時間にその一説を読んでみよう。
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キリスト教の信者でもないのだが、どういうわけだか子どもの頃からキリスト教に魅かれる。特に修道院に魅かれる。そういうわけで、自然と手にした本。
著者は7日間の断食を修道院で経験する。断食を通して、修道院の様子や断食の歴史、断食によって得られるもの、自身の変化が綴られている。
7日も断食できるのだろうか!と思いながらも、試してみたいなと思う。確かに達成できたら、私は何かしら変わっていることだろう。