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シュヴァイツァーの人生を、本人の言葉で味わうことができる。神学、哲学、音楽がそれぞれある程度の深みを持って感じることができる一冊。
何者に対しても、人生のうちに起こる出来事に対して真剣に取り組んでいったシュヴァイツァーの信仰のあかしです。
2011/4/15
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120511by日野原重明先生onBS麻耶
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決意:直接人間への奉仕。30歳までは学問と芸術。
「生命を得る者はこれを失い、わがためまた福音のために生命を失う者はこれを得べし」
奉仕。直接に人間に働きかける。 101-2
決意が更に強固に具体的に 106
something 108
イエスがわずらっていたという精神病… 130
その精神病が狂気でも幻覚でもないと証明… 131
倫理的世界人生肯定は、楽観的意欲と希望とをその内に持っている。これを失うことはない。ゆえに、この肯定観は、悲惨なる現実をそのあるがままに見ることを、断じておそれない。 285
『生い立ちの記』人間はもともと心の中にあらゆるよき力を燃料として持っており、生涯のある大切な時期に他人から火花を与えられてはじめて燃え上がる。 289
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自叙伝的哲学
国際平和のため医者になりアフリカへ
日野原氏を医科へ決断させた書
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地位と名声を捨て、赤道直下の原生林で医療と伝道に献身したシュヴァイツァー博士が、生い立ち、アフリカでの事業、そして愛と平和に捧げた半生を回顧する。名著待望のUブックス化。
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幼年時代、小中学校より大学時代まで
パリとベルリン 一八九八‐一八九九年
シュトラースブルクでの活動の最初の数年
聖餐研究とイエス伝 一九〇〇‐一九〇二年
大学教授、イエス伝研究史
史実のイエスと現代のキリスト教
バッハ研究、そのフランス語版とドイツ語版
パイプオルガンとその製作
原始林に医者となる決心
医学研究 一九〇五‐一九一二年
アフリカ出発の準備
医学研究時代の著作
第一次アフリカ事業 一九一三‐一九一七
ガレソンとサン・レミ
エルザス帰郷
病院の助医および聖ニコライ教会の説教者
アフリカの回想記
ギュンスバッハおよび外国旅行
第二次アフリカ事業 一九二四‐一九二七年
ヨーロッパの二年間、第三次アフリカ事業
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神学者として、バッハ研究者として、古いパイプオルガンを復活させる運動家として、赤道アフリカで活動した医師として、そして哲学者として・・・シュヴァイツァーの多彩な人生経験と思索が語られている。
彼の人生は、まさに「非合理」の見本のようなものだ。その思索にも、「非合理性」が満ちている。
例えば、彼のイエス観というのは次のようなものである。
(以下引用)「イエスを真に知るのは、他の意志の上に働きかける一つの意志を了解することである。人がイエスに対する真のあるべき関係は、イエスによって捉えられて放されぬ、という状態にほかならぬ。すべてのキリスト教徒の敬虔の念は、そのためにその人の意志がイエスの意志によって所有されている、ときにのみ価値がある。」(引用おわり、70頁)
「本物の」パイプオルガンについて、菓子屋と交わした対話というのも面白い(93-94頁)。そして、パイプオルガンに対する「愛」がうかがえる、次の言葉・・・
(以下引用)「由来パイプオルガンには、その平均して持続的に保つ音色のために、なにかしら永遠の感じがある。世俗の場所にあっても、単なる世俗の楽器にはなりきれぬのである。」(引用おわり、100頁)
また、シュヴァイツァーの「赤道アフリカ行き」をも説明する、彼の道徳観とは、「いかなる条件の下のにおいても、人間が、真の人間性をもって、人間に働きかける」こと、「その機会を残らず捉える」ことが、人間的な生活を、そして「人類の将来」を救う道であるというものだ(112頁)。
自然科学と人文科学と精神科学についての考えも面白い(125-127頁)。人文科学における「真理」は、議論の巧拙によって決定されてしまうとか、「現実」のみを扱う自然科学の限界、とか。精神科学をシュヴァイツァーが擁護する理由は、次のとおり。
(以下引用)「実在の個々のあらわれを目録化して得る知識というものは、われらがこの宇宙の中でいかなる地位にありいかなる目的を追求するか、という大問題に対して、最後の解答を与え得ぬ。このかぎりにおいて、つねに不十分かつ不満足のものである。このわれらを取り巻く存在のうちにおけるみずからの位置を、われらが知るのは、その中に意欲し支配する宇宙生命を、何らかの方法でわれらの個人的生命の中に体験する、ーーこのことによってのみ可能である。我の外なる生ける存在の本質は、ただ我の中なる生ける存在によってのみ了解できる。この、宇宙的存在とそれに対する個人的人間的存在との関係を思想的に認識すべく、精神科学は努力している。」(126-127頁)
19世紀末の(そして当時から21世紀の現代にも続く)「進歩」の観念に対する懐疑は、珍しいものではないが、やはりシュヴァイツァーもそれを抱いている。「私の予感では、われわれは精神活動では前代にはおよばないのみでなく、いろいろな点において前代の業績を徒食しているのである」(174頁)。こういった真実を、自分たちは進歩の頂点にいると思い込んでいる現代人は、なかなか受け入れようとしない・・・
「倫理的進歩意志と結合せる物質的進歩意志、によって近代の文化は建設されている」(181頁)、というのも貴重な指摘だ。この結合的意志とは、「世界人生肯定の世界観」に立脚するものだが、この世界観は現代に至って「非倫理的なものと化し去った」(182頁)。
世界人生の肯定がその力を取り戻すために必要な倫理的概念を模索したシュヴァイツァーは、それを「生への畏敬」と表現する。これは「生への意志」(エゴイズム、とも言い換えられようが、「生」というものが根本的に「死」によって成立するものであるということをも含む)によって生じるあらゆる苦しみを宥め、上っ面ではない、本当の進歩・発展に向けて人類を励ますものである。それは、「真の文化」を実現するためのよすがとなり、精神と物質とを分けず、人間性を侵すものとの戦いに向けて人を鼓舞する(186-190頁)。
この「生への畏敬」は、「無限の生命への意志」を、すなわち「生命および世界という二つの大きな非合理者」を、受け入れる。「無限の生命への意志は、客観世界のうちに現われては、創造意志となる。これは昏く苦痛にみちた謎のごときものである。しかして、われら人間のうちに現われては、愛の意志となる。これは生命への意志の自己矛盾を、われらによって止揚せんとするものである」(277頁)。
だが「客観世界」に現われた創造意志は、人間のうちにも現われていよう。それが「生への意志」だ。エゴイスティックな欲望も、「自然」の食欲や性欲も、「昏く苦痛にみちた謎のごときもの」である。そうした創造意志は、人間性のうちの「動物」の部分として現われているものである。シュヴァイツァーの言う「愛」は、この部分を否定して消し去るというものではない。ニーチェの言う「アポロ的なもの」が、「ディオニュソス的なもの」の否定者ではないのと同様に。
「愛は世界を救う」と言うといかにも陳腐だ。シュヴァイツァー流に、「愛は創造と生命の矛盾を止揚する」と言おう・・・
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「われわれが世界に関係するのは、認識によってではない。体験によってである。すべて深奥に徹する思想は倫理的神秘主義となる。合理的なものはひいて非合理的なものの中に通ずる。「性への畏怖」の倫理的神秘主義は、合理主義が窮極まで考えられて生じたものである。」
p237 ギュンスバッハおよび外国旅行 より
ここが気に入りました。