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西郷信綱著作集 第7巻 文学史と文学理論 2 日本古代文学史 みんなのレビュー

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紙の本

日本の古代文学、そして『源氏物語』への極上の案内

2012/04/07 11:03

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『東アジアの人文書100』で選ばれている『古代の影』に非常に感心したため、著者西郷信綱の他の本を読もうとした。文庫で8冊もある『古事記注釈』の一冊目を手にしたが、私の知識や今現在の余裕のなさ(いろいろな本を読むための時間の確保)では無理なような気がした。同時代ライブラリー版の『日本古代文学史』の日記の部分、なかんずく紫式部日記への叙述を読み、これは通して読むしかないことを確信したが、それなら最近刊行された著作集でちゃんと読むにしくはないと思った。
 本書にはその『日本古代文学史』と、その文学史のうちでも当然ふれている日本の文学の頂点といえる作品の読解『源氏物語を読むために』という二つの著作が収録されている。
 前者のほうは、最初1951年に書かれたものを1963年に全面改稿し、さらに1996年に少し手をいれた同時代ライブラリー版が出て、2005年には文庫版も出ている、いわば磨き抜かれた名著である、と思われる。
 後者は1983年に刊行され、その後、1992年、2005年と別のかたちで本となっている、やはりこれまでによく読まれている本といえる。
 本書をふくんで著作集全9巻というのが、著者の全体の著作のどのくらいをカバーしているのか知らないが(冒頭でふれた『古事記注釈』はふくまれていない)、多すぎもせず少なすぎもなく、幸福な著作集だという感じだ。5人の編集委員のひとりが、その寡作性のゆえに最近関心をもった市村弘正である。

 さて著者は『紫式部日記』にふれ、原文を引用したあとに次のように書く。《つまり「憂き世」のことが中宮のような美しい主人に仕えると、よろず妙に慰められ忘れられていくのだが、しかし一方どうも変だと、ふっと自分にもどっていくのである。この自意識の強さには尋常でないものが感じられる。》
 意識の微妙な移り変わりを書きとめる紫式部の筆に、私は現代人以上の現代人を見る、というか、そこにとぎすまされた生そのものをまざまざと感じる。
 さらに別のところ。《しかしかの女はかく「めでたきこと、おもしろきことを見きくにつけても」、しらずしらず憂鬱になるばかりで、水鳥が思うことなげに庭の池水に遊んでいるのを見ても、その身になれば人しれぬ苦しみがあるかもしれぬと、わが身に思い比べてみる。》また重労働にあえぐ人々の苦労のたえなさを見て、《それは自分だって同じだと思う、とこの日記はしるしている。》
 紫式部のなかに現代の意識をみるというより、千年も前でも人の意識はそれほど大きく変わっていないと言うべきかもしれない。
 そんな紫式部の畢生の長編『源氏物語』は30年ほど前に円地文子の現代語訳で通読したことがある。吉本隆明の『源氏物語論』が刊行されたころで、それを読むためにであって、逆ではない。本末転倒という感じだが、驚いたのは吉本隆明と西郷信綱の源氏物語論は同じころに書かれていることだ。今回後者の論の精密さ、分かりやすさに感心しっぱなしだったが、当時読んでいればどう感じたろうかとも思った。
 西郷信綱の古文の読解力と広い知見は圧倒的で、古事記の前史から始まって定家にいたる見事な見取り図の『日本古代文学史』も近辺に持っていたい本だと思わせたものの、それ以上に源氏物語論にはアカデミズムを超えたアカデミズムの凄さのようなものを感じた。この本がどこか外国語に翻訳されているのかどうかは知らない。だが未訳であるなら『源氏物語』が訳されているどこかの国で訳されるべき濃い内容の本だと思った。

 いろいろなことが西郷信綱、吉本隆明ふたりの源氏物語論を比較して言えそうな気もするし、言うのがむずかしい気もする。一般的にいえば、西郷信綱の著作のほうが読みやすく、得るものも多く、くらべようもなく良書にちがいない。だが『源氏物語』の現在における広い読者層をさらに越えたありふれた世界から見ての(私もそこにいるのだろう)、光源氏という主人公に対する違和感のようなものは、ここには探せない。著者はあくまでも『源氏物語』がある時代に置かれた位置に沿うかたちで、たとえば主人公の悲劇の顛末(継母との密通と懐妊、時代を経て妻の密通と懐妊)を描く。だが主人公がありふれたプレイボーイだとは思わないものの、少なくとも彼の悲劇を思いやる感受性をありふれた現代人がもてるとは思えない。一方、凝縮されたギリシャ悲劇のオイディプスやシェイクスピアのリア王に対し悲劇を見出すことはありうると思う。
 その点、宇治十帖のほうに重心がかけられた吉本隆明の源氏物語論には、30年前の当時、現代語訳で読んでいたときの自身の関心に同調するところがあり、その表現の晦渋さにもかかわらず納得した。もちろん西郷信綱が宇治十帖をネグレクトしているわけでは全くなく、彼の本にはかぎられたなかに(400字詰め約500枚か)始まりから終わりまで長編の全体がすくいあげられている。「読むために」と題されているのが頷ける素晴らしく整えられた論というしかない。
 西郷信綱の源氏物語論においては、私にとって美しく感じもすれば意味を判読しがたくも思う古文が引用され、なかには現代訳が付されないこともある。地の部分における古語(のなごり)、たとえば六条御息女にふれた「このさだ過ぎた女」とか、死期近い朱雀院にとっての「この世のほだしである娘」の「ほだし」等に出会うと、辞書をひきながらも、著者の古文へのひたり具合を想像する。今はこうした文章を書く人はまれな時代なのだと思いながら。

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