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震災以降ずっと、こういう本の登場を待っていた。
原発事故は、「原子力発電所の事故」にはちがいない。けれども、事故は事故でも、この事故の解決はただ技術の問題でなんとかなるものではない、震災以後そういう予感がずっと続いている。だからこそ、物理や経済ではなく、哲学や宗教学といった方面からの真摯な発言を聞きたかったのだ。そしてこの一冊は、まさに原発の扱いから東北の復興ヴィジョンに至るまで、現在進行形でぼくらが直面しているさまざまな問題についてきわめて示唆に富んだ提言とともに論じられている。
たとえば、地球の生態圏の外側から持ち出してきたものである原子核の中に操作を加えることで成立する原子力発電を「第七次エネルギー」としたうえで、これまでのエネルギーとまったく別次元のものであると定義する。そして、生態圏の中に存在しないという理由から原子力を「一神教的な神」に類するものだとし、思想的な理解を疎かにしたまま技術だけでコントロールしようとしてきたことにそもそもの問題があったと指摘する。
さらにそこから、東北の復興、エネルギー問題、首都機能の分散、新しい農業の提案などをふまえた中沢新一による「緑の党のようなもの」の提唱にまでつながってゆく……。
大胆でありながら、きわめて腑に落ちる発言が散りばめられた、想像力を刺激される一冊。
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突貫工事で作った本らしく、小振りで「荒さ」が見られるけれども内容は実に納得の本だった。
今回の事故のゴタゴタは、何が何でも原発はクリーンで安全であるというファンダメンタルな推進派と、何がなんでも原発は危険だというパラノイックな反対派と、そして僕の様な無関心派の三者による共犯であると僕は思っている。東京電力の魔窟とか利権と政治のゴタゴタという彼岸のせいにしてはいけないと思う。「俺は関係ないけど、あいつらが悪いんだ」という口調を用いるのは躊躇される。
原発のリスクはリアルなものである。ただし、どの位のリスクなのかはイマイチ判然としない。ものがものだけに充分な臨床データが存在しないからだ。それは(たいていのリスクがそうであるように)「程度」の問題となる。
日本の「大人たち」は程度の問題を議論するのが非常に苦手である。
泣いている赤ん坊がいるとき、ずっとほったらかしておくと人間不信やトラウマの原因になるかもしれない。かといって3秒以内に必ず応答という極端なことをやっていると、ついにはわがままな了見を生んでしまう可能性がある。故河合隼雄は生後間もなくは泣けばすぐ対応してあげ、信頼感をつかんでから教育をと語っているが、その境界線ははっきりしない(個人差もあろう)。この「塩梅」を探るのが大人の営為である。なのに、多くの人は「すぐだっこvsほおっておく」みたいな対立構造を作りたがる。
「ゆとり」と「つめこみ」の教育論でも、多くは「ゆとりか、つめこみか」という二元論で語ってしまったために、ついに「どのくらいの塩梅でゆとりを、そしてつめこむのが妥当か」という妥当な境界線探し、大人の議論は胡散霧散してしまった。
原発も放射能も、善か悪かという二元論ではなく、どの程度まで許容可能かという塩梅探しになる。手持ちのデータでは、その境界線は非常にマーキーだ。
その不確定性の瑕疵を素直に認めることから始めるべきなのに、ここでも同じ様に放射線大丈夫派とパラノイックな放射線危険派の不毛なケンカが続いている。これじゃ、さっきの原発議論と同じじゃないか。どうしてなんどやっても同じ構造で議論を繰り返すのだろう。
データが不確定なのだから、「自分の哲学」を強要せず、ステークホルダーである福島の現地の人たちに決めてもらえば良いではないか。みんなでその意思を尊重し、どちらの判断をとった場合も経緯を持って、お手伝いをすれば良い。残るも選択、去るも選択である。女川にも石巻にも、ふるさとを離れる決断をした人も入れば、リスクを承知で自宅にとどまる人もいた。どちらも「間違ってはいない」。なぜ全員一律に留まれとか逃げろという話になるのだろう。
福島の状態が危険だという人は、その信念に基づいて福島の人たちに向かって、「ミンナニゲロ」と主張すれば良い。なぜそう言わずに現政権の悪口をメールやネットでつぶやくことにエネルギーを費やすのだろう。本気で原発周囲が危ないと考えているのなら、言葉を発する対象は異なっているのではないだろうか。本当に福島の人たちのことを考えているのだろうか。話は東京も同じである。疎開したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。選択肢がないのは、今家が燃えているから逃げろ、、みたいなエクストリームなケースだけである。
これは個人レベルの話である。東京の経済活動がうんぬん言う人もいるが、東京全体の経済のために個人の自由意志が損なわれるのであれば、東京という街の価値そのものがそれがゆえに減じてしまう。
文科省や政治家や御用学者は信用できないといっておきながら、その20mSvの妥当性を云々かんぬん議論し続けるのは、奇妙な依存精神である。どうせ20mSvも「言い値」なのだが、「文科省の出す数字はおかしい、あいつらは信用できない」というのなら、彼らに毒づかずに自らの判断でもって行動を示せばよいのである。文科省は無能だと言っておきながら、文科省どうしてよいか教えてくれ、というのは矛盾である。インフルエンザのときに起きた全く同じ現象(あんときは厚労省が対象だったが)と同じである。
本書で天皇陛下の話が出てきたのは興味深かった。僕も同じことを考えていたのだが、(お恥ずかしいことに)その話をするとまたヒステリックなファンダメンタリストたちが騒ぐのが面倒なので黙っていた。
天皇皇后両陛下は本当に素晴らしいと思う。もちろんいつも公務でお忙しいのだろうが、普段はあまり表に出ず、こういうときこそ走り回るというのが理想的なロイヤルファミリーのあり方だと思う。昔、故ダイアナ妃がエイズの子を抱きしめただけでその差別が大きく減じた事がある。どんな言葉よりも強いメッセージがそこから伝わる。ロイヤルファミリーとはこうあるべきだとその時思ったのだった。
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エビデンスのないものを信じようとしない態度、を内田樹は常に批判しているが自分もそうした態度をとる人間だ。
エビデンスのないものを感じ取る力、を持っているのならそれは素晴らしいことだと思うが、力がない人がそれに従うのは困難だ。
みんな自分の判断力を駆使して必死に生きているわけで、自分にとって納得感のない言説を信じてリスクをとることはできない。
逆にエビデンスのないものを信じろ、という主張は精神論に転がり込む危険も持っていると思う。
寧ろ大事なことは、何を信じるかではなく、違うものを信じている人間とどうやって共存するかだと思う。
そこで必要なものは異なる意見を尊重する態度、他人の意見に聞き耳を持つ態度、異なる意見を調整するためのメカニズム、意思決定プロセスなど、である。
そもそも思想の自由はそういった点を重視して過去の歴史を基に作られていると思うし、この国が採用しているルール、=憲法はそういった思想の基に作られている。我々は神々の争いから解放されなくてはならない。
1点気になるのは、思想の自由競争という考えで、それ自体は問題ないと思うが、あくまで上記のようなそれを成り立たせるインフラがあって初めて通用する考えではないかということだ。
つまり、常に自分の意見が変わりうるという態度、自分と異なる意見を排除することを目的とした意見は認められない、という意識、が思想の自由の前提として必要だと思う。
ちょうど、自由市場がそれを成り立たせるインフラ(ルール違反者は制裁されるための仕組みとそうした期待)を前提に成り立つように。
リベラリズムとはそういうことだと思う。
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原発というテクノロジーの捉え方について、非常に有益な視点が得られた。
やはり内田樹と中沢新一はすごい。宗教の視点が重要であることも再確認。
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原発=一神教だと論破しているのが、なんだかスカッとしていてよかった。
唯一絶対の神とどう応接していくかという思想的難題に心と体の芯から挑んだことのない日本。
西欧がこの難題に彼らなりの解答をやっと見出したあたりで、
「追いつけ追い越せ」を合言葉に横から列に割り込んだ日本。
順位だけは好成績を保ち、パッと見ちゃんとしているように見せかけてきた。
その中でごまかしてきた、あいまいにしてきた部分のツケがまわってきたのか。
読後に、勝手にそんなことを考えた。
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大津波と原発、というタイトルだけど大津波に関しては語られていない。
むしろ、「震災後、原発をめぐって我々が考えるべきこと」という内容。
トーク番組を文章におこしたもので読みやすく、内容はすっと納得。
今回の事故が起こるまでの原発をめぐる議論。
原発推進派と原発反対派。その対立には譲歩の余地がなく、それが病理を生み出していた。
原発推進派は原発が安全であり絶対事故を起こさない、と信じるがあまり「ひょっとして事故を起こしたら」という備えをしてこなかった。
原発反対派は原発が危ない、危ないと言い続けるうちに「いっそ事故を起こしてしまえ。それみたことか」という考えを(無意識にでも)抱くようになってきた。
原発、というか人の作った物は一定の確率で事故を起こすものなのに。
双方病んでしまっていると言えるかもしれない。
そしてその他の無関心層が加わって、今回のような事故が起こってしまった。
もっと考えていかなければならないなぁと思う。
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「とりあえずどうするか」ではなく、今回の出来事をどう本質的にとらえ、これからどうしていくのかという貴重な提言が語られている。
「緑の党」が結成されたら、ぜひ浜松支部として看板を掲げたい。
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スゴイ本です、このコンパクトなサイズにこれだけ有用なことが詰め込まれているとは・・・内田樹のブログが好きで、手に取ったのですが、中沢新一も平川克美もスゴイです。
造られたものは壊れる・・・道理です、ナゼそれを忘れてしまっていたのか・・・。いいとか悪いでなく、壊れるんです。そしてそれを修復・改善していく・・・当たり前のことだったはずなのに。
現状をすばらしく明快に認識できました。
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なんかどっか胡散臭く思えてしまう中沢新一だけど、緑の党の件もあって、この本できっとその感じはなくなるだろうという予感というか予断の中で読んだのに、やっぱ胡散臭い。でも、緑の党には期待。というか期待せざるを得ないわなあ。
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ちょっとこの薄さで740円はちょっと高いよなと思わないではない。
でもまあ、収益の一部は寄付になるらしいので・・・
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企画コーナー「今、原発を考える時」(2Fカウンター前)にて展示中です。どうぞご覧下さい。
貸出利用は本学在学生および教職員に限られます。【展示期間:2011/5/23-7/31】
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1597850
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村上春樹さんのカタルーニャ国際賞スピーチを読み聴きしていたら、原発事故の捉え方について、他の発言も読んでみたくなりました。ヒロシマにふれ、過ちは繰り返しませぬからは出てこないですが、原発・原子力は神、荒ぶる神を沈めるためには、専門家・科学者による神事が必要で、周辺の利害関係を複雑にしてはいけないという落とし込みで説明されるととても分かりやすいです。
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2011年4月5日に行われた内田樹,中沢新一両先生らによる大震災と原発事故についての鼎談本.内田先生が首都機能の一部東北移転を語り,中沢先生が「一神教的」という言葉で原発を表現し,さらに日本版「緑の党」結党宣言があったり,おもしろい.
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大規模災害に心を痛める人が多い中、それでもこれからを新たな価値観とともに進んでいこうとする、初めの一歩となるような対談。
装丁は祖父江慎一/コズフィッシュ。
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311以後、私たちが語り合うべき、しかし未だ語られぬ「本質」について、1950年生まれの精鋭3人が話し合う!TALKバランスがとてもよい。
基本的に読んでもらいたい、けど、読む時間がない方に、私が思うオモシロ視点をシェア致します。「これだけでも面白い、けど、もっと読みたい」と感じていただければ幸いです。
【本質の理解】
1)日本人の気質は「エンジニアリング」と対照の「ブリコラージュ」であるという理解
⇒レヴィ・ストロースは「日本人はブリオラージュを駆使しながらも、ものづくりをする素晴らしい民」と、よい方に言ってくれてますが・・・原子炉に水ぶっかけは流石に「?」でしたね
2)第七次エネルギー革命としての原子力は、それ以前の革命とは、「生態圏」の外にあるという意味で、全く異質である
3)科学的根拠でなく、純然たる人間観察に基づくところによる「原子力反対」⇒メンテナンスし続けることができない
4)原子力は一神教である!フランスでは聖域、インドではシヴァの男根!アニミズムの日本はカジュアルな絵のかかれたそこらへんの建築物・・・(^O^;)
【これからのこと】
5)必要なのは「復旧」ではなく「復興」である
6)夢のあるビジョンと、スピードが必須。中沢新一「緑の党」旗揚げ?!
7)首都機能の分散化(たとえば札幌、大阪、博多)は必須
「東京が沈下すると日本全体が沈下する」みたいなことからの脱却
8)環境保全と土壌改良。東北農業復興
ん〜、やっぱり読まないとわからないな。
生産的な知的刺激を与えられる一冊。
私自身も、
■このタイミングでのココロウタブックラウンジの若林への移築の意義
■東京以外を拠点とする働き方
■環境を理解したモノづくり(農業)
などなど、本書の会話の中から、自分が目指すべき方向について大きな示唆をもらうことができました!