紙の本
期待していた程ではなかった
2015/01/27 01:45
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投稿者:槙野 - この投稿者のレビュー一覧を見る
同著者の中編を以前読んだが、その時と同様 深い心理描写や感情表現を好む自分的にはイマイチに感じた。
確かにどの短編もアイロニックななんともいえない雰囲気があるが、それでもアッサリしすぎていて、生きていればそんなこともあるだろうとある程度のことを受け入れられる人間からしたら、皆が言うような特別何かを考えさせられるような事は何もなかった。
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いや、それが、なんとも不思議なことに、苦くないんである。
伝わってくるのは、人の心の不思議さ、のようなもの。憎めない。
孤独な姉と弟の、最後が切ない「チェロ」。
兄たちから馬鹿にされながらこっそり勉強し知恵をつけてきた弟が、兄を救うため法廷中を騙そうと頭を働かせるたくましさ。「ハリネズミ」。
不幸な過去の2人がつかむ「幸運」。
よく出来たスパイ小説のような後味を残す、「正当防衛」。
「棘」が気になってならない男。
幸せになってほしいと願わずにいられなくなる「エチオピアの男」。
犯罪はいけない。罪は罪である、償わなければならない。
でもそこここに漂う人間臭さ。
それをちょっと距離を保って綴る。
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すごい短編集だった。一編にひとつ、罪が犯される。罪を犯す人がひとりいる。謎が残されたり、憐憫を誘われたり、呆然とおしまいのページを見つめてしまったりする。後味もさまざま。
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現役の弁護士が、自ら経験した事件に脚色を加えた犯罪小説集。語られる犯罪は極めて異様なものでありながら、それを実行するのはごく普通の人々であり、その過程が淡々を描かれている。その筆致のシンプルさが、ここに描かれていることの怖さをより際立たせている。傑作。
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今年の翻訳ミステリを代表する傑作。無駄を削ぎ落とした筆致が特徴的で、余計な情報も作者の思い入れも一切なしに淡々と物語は進む。しかしその極端にシンプルなショート・ストーリーの中に、いかに多くの不穏と狂気が潜んでいることか。
犯罪を選んでしまった人々の心理とその人生が読み手の心を掻き乱し、小さな傷跡となって残る。一話読了ごとにある種のカタストロフィに支配されるが、次が読みたくて仕方ない。
11話全編が秀作で、それぞれに印象もインパクトもまるで違う。どれも好きな話ばかりだが、意識下に烙印を押されたのは、『チェロ』『ハリネズミ』『エチオピアの男』。1話と最終話のチョイスがすごくいいと思う。まさに短編向きの筆致で、いつまでも読んでいられる。不気味なくらい私の好みに合っており、極上の読書時間を味わえた。私が読みたいのはこんなミステリなのだ。
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弁護士である著者が現実の事件に材を得て描き上げた連作短篇集。
まるで供述調書のような淡々とした筆致で綴られる、罪を犯さざるを得なかった人々の人生の断片に魅了される。
個人的ベストは「棘」だけど、第1話「フェーナー氏」と最終話「エチオピアの男」のペアも捨てがたい。
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犯罪を犯した人々を扱った短編集。読売の書評で見て、興味を持って読んでみた。人がなぜ犯罪を犯すのか、それぞれ短いながらも深い意味を含めた物語が11編。ミステリーのようにトリックを暴いたりするのではなく、犯罪に走ったその背景をすっと書いて、こちら側に考えさせる内容だった。特に印象的なのは「棘」と「エチオピアの男」。少しグロイ描写もあるものの、短編で読みやすくおすすめ。
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著者のシーラッハはドイツの高名な刑事弁護士。
本書は11篇からなる短編集で、いずれもかつて実際に起きた事件に材を得て、異様な罪を犯した人間たちの哀しさと愛しさ、人間というものの不可思議さを描く。
どの物語にもでてくる「私」は弁護士なのだが、「私」が主役なのではない。むしろ「私」は何のアクションも起こさず、ただの語り手である場合すらある。
「私」は著者であるシーラッハ自身と重なり、語られる物語は妙なリアリティと何とも言えない気味悪い後味を残す。
一歩引いた視点で、文体はそっけないともいえるほど。
ドイツでは弁護人が陳述する相手は、陪審員ではなく裁判官と参審員だという。感情の吐露、まわりくどい言い回しなどはマイナスに働く。ドイツ人はもはや情念(パトス)を好まないーーー(本書、「エチオピアからきた男」より)
この鉈で断ち切ったような文体は、まさに弁護士の陳述を思わせた。
収録されているのは、
フェーナー氏/ タナタ氏の茶碗(碗は旧字)/ チェロ/ ハリネズミ/ 幸運/ サマータイム/ 正当防衛/ 緑/ 棘
/ 愛情/ エチオピアの男
どれも一筋縄ではいかない。
現実に起こった事件を骨子にしているというから、やはり事実は小説よりも奇なりか。
弁護士が本業の人にこんな作品を書かれてしまったら小説家も形無しかも。
最後の「エチオピアの男」は一転、ハートウォーミングな感動の物語なのだが、
このしばしの感動の後、最後のページにぽつりとある「Ceci n' est pas une pomme.」という一文に虚を衝かれる。
フランス語で「これはリンゴではない。」と書いてあるのだ。
これが本書におけるミステリー。
この謎解きを是非楽しんでほしい。
「りんご」は11篇の物語どれにも登場する。注意しなければわからないほどさりげなく、時には重要な役割を担って。
冒頭に捧げられているハイゼルベルグの言葉に戻り、改めて唸らされた。
帯に連なる主要各誌の賛辞の言葉のなかで一番鋭いのは、ニュージーランド・ヘラルド紙かもしれない。
曰く、フォン・シーラッハは生まれついての小説家(ストーリーテラー)だ。細部をとらえる眼と、たぐいまれな構成力を有している。——
http://spenth.blog111.fc2.com/blog-entry-111.htmlより
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犯罪を犯した人を断罪するでもなく、なぜそのような行為に至ったかの解釈でもなく、ただ粛々とその時に至るまでの人々の人生が語られていく。
その孤独や寄る辺のなさが胸に迫る。
ただもうそう在るしかなかった、というような彼らの人生、そう生きざるを得なかった彼らの人生を思う時、もし自分も同じような境遇であったら、とふと考えてしまう。
あるいは、たとえば「フェーナー氏」を読んで、フェーナー氏が耐え忍んだ結婚生活を思う時、自分の倫理観すらちょっと揺らいでしまうような気にもなる。
ここで扱われている犯罪が(「愛情」は別として)、快楽殺人や連続殺人ではないせいもあるかもしれないが、彼らの物語を読んでいくうち、彼らの行為に納得して、彼らと私との間には自分が思っているほどの深い溝はないのかもしれない、とも思ったりする。
エピグラフの“私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない”という言葉は、つまり、語られた現実というものは、語り手によって再構築された現実である、ということを意味しているのだろうか。
そして締めくくりの“Ceci n'est pas une pomme.”(これはリンゴではない)
(ルネ・マグリットのリンゴの絵に描き込まれた言葉)は、私たちが目にするのは、描き手によってそのように描かれたリンゴであり、それは描き手自身を観ることにも、そのように観賞する自分自身を認識することにもなる、ということなのだろうか。
Ceci n'est pas une pomme.
C'est moi.
このリンゴは、言葉として最後に唐突に出てくるわけではなく、収められた11篇の短篇それぞれに様々な形で描き込まれている。お菓子だったり、
壁に飾られた絵であったり。1話目で木に生っていたリンゴが、最終話では地に落ち腐り、アリがたかっていたりする。
「ハリネズミ」だけはトマトしか出てこないので、コンピュータ=アップルかとも思ったが、トマトはドイツ語でparadeisapfel(天国のリンゴ)と呼ぶらしい。なるほど。
この「ハリネズミ」の主人公、カリム・アブ・ファタリスの半生が印象的だった。
兄8人がみな前科者という犯罪者一家に生まれ育ったカリムは、世間からはろくでなし一族の馬鹿者とみなされ、家族からは軟弱者としてまともに扱われない。ところが実のところすぐれた知能の持ち主であったカリムは、家族とはまったく別の生き方を選ぶのである。誰にも知られずに。
それは、どれだけ孤独で、どれほど強い意志を必要とするものだったろう。
物語は、そのカリムが強盗容疑で訴えられた兄の裁判でちょっとしたひっかけをやって、兄の犯罪を立証不可能にしてしまうというもので、にやりとさせられるのだが、とにもかくにもカリムすごいよ、カリムなのだった。
内戦のため身ひとつでドイツに逃れてきた若い女性と、家出をして十代の頃から路上に暮らす青年という寄る辺のない二人が身を寄せ合うようにして生きていく様を描いた「幸運」も好きな一篇。
最後に配された「エチオピアの男」は、じわっと涙がこみあげてくる。
誰かに必要とされる、それが人に生きる力を与えてくれること。
主人公ミハルカがさ迷いこみ、生きる喜び���見つけることになったエチオピアのコーヒー農園とそこで暮らす人々が、その発展と時間の経過にもかかわらず、ミハルカを受け入れた当時のまま純朴で無垢なものとして描かれていること。
ミハルカの物語に心動かされる人々を作中に登場させていること。
ある意味、美しいお伽噺のようにも思えるが、不条理に見える人生にも無垢で美しくて信頼すべきものはあるのではないか、それを見出す力も人はもっているのではないか。作者のそのような思いが感じられて心打たれるのかもしれない。
Verbrechen by Ferdinand von Schirach
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犯罪の記録が淡々と書かれている。しかし、それぞれの犯罪には背景、動機、そのたもろもろの状況が複雑にからみあっている。それが、作者の立場では無く、刑事弁護人の立場で綴られているところが「淡々と」した記述になるゆえんである。
それぞれのエピソードがおもしろいが、やはり、最後の「愛情」がいちばん感動するところだ。人間は環境が異なるとこのように変わるのだ。まさに別人になってしまう。
それにしても、弁護人とは、このように犯罪被告人の深くまで立ち入るものなのだろうか。そうしないと、真の弁護はできないということか。この地の弁護士はいかに???
この作者の第二弾も出るそうなので、今からとても楽しみだ。
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手に取るまでノンフィクションかと思っていました。「現実の事件に材を得て」書かれた短編集なので、基本的にフィクションなんですよね。なぜここにフランス語?と思った「Ceci n'est pas une pomme.」、ルネ・マグリットの絵のタイトルだとか。「Ceci n' est pas une pomme.」と「シーラッハ」で検索したら、訳者の「ここだけのあとがき」や読み応えのあるレビューに出会えました。
「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の「書評七福神の6月度ベスト」で6人が選んだ本。
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「BOOK」データベースより
一生愛しつづけると誓った妻を殺めた老医師。兄を救うため法廷中を騙そうとする犯罪者一家の息子。羊の目を恐れ、眼球をくり抜き続ける伯爵家の御曹司。彫像『棘を抜く少年』の棘に取り憑かれた博物館警備員。エチオピアの寒村を豊かにした、心やさしき銀行強盗。―魔に魅入られ、世界の不条理に翻弄される犯罪者たち。高名な刑事事件弁護士である著者が現実の事件に材を得て、異様な罪を犯した人間たちの哀しさ、愛おしさを鮮やかに描きあげた珠玉の連作短篇集。
最後の「エチオピアの男」がよかった。
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私には合いません。気持ち悪い。おえええええ・・・・。トラウマになりそうな勢いでだめでした。あー失敗。
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ドイツでの発行部数45万部、世界32ヵ国で翻訳されているらしい。
刑事弁護士である著者が、現実の事件を元に語る11の犯罪の物語。
といっても堅苦しい話ではなく、法廷での丁々発止としたやり取りもない。ただ犯罪を犯してしまった人々の人生を簡潔な言葉で淡々と描いた短編集である。
犯罪をテーマにしているが、ミステリというよりは文学的で、一編一編が短いのですぐ読めるが心の奥に深い印象を残す。
ベストは不気味な「正当防衛」と、罪とは何かを問いかけるラストの「エチオピアの男」かな。これは最後に読むべし。
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著者はドイツの高名な刑事弁護士で、実在した事件を材料に、この11編の連作短編集を書きあげたという。下世話な興味を含めて、抜群の面白さだ。
この作品集が他の犯罪小説と一線を画しているところは、その語り口の見事さばかりででなく、書かれている犯罪の特異性にもあるようだ。
罪の真実の姿は、求刑される罪状や刑期でほど単純ではない。どんな犯罪にもそれを犯した人間の人生が投影されるのだ。それを明らかにしていく時、犯罪はその姿を変えていくようだ。警察や検察がしたためる調書とは、別の物語をひとりでに語り始める。
ただ、そうした真実な姿を引き出していくには特別な才能が必要だし、罪を犯した者とその才能を持つ弁護者との幸せな出会いが必要だ。
ここで語られる11編にはその姿が描かれている。