紙の本
どこまでも好奇心!!
2021/02/20 09:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ピーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
何にでも興味津々で生き抜かれた感じがする。
文句を言いつつも友との関係を断ち切れず、別の角度からその友の良いところを見つけようとされるのには、ちょっと真似できないなあと思って読んだ。
素敵なお医者さんの存在を知ると、そこに入院しに。
看護師さんにその先生の年齢を尋ねられ、調べた看護師さんはナースコールを利用されて教えてくれるとは傑作。
その年齢はこの本を読まれたときのお楽しみに!
楽しい方だったのだと思った。
投稿元:
レビューを見る
確かに面白い、ぐいぐい読めてしまう。しかし文章としては言葉が足りていないというか、説明不足でしょうか。もっと緻密に書いてあるほうが好みかしらん。佐野洋子さんの友達だという物を欲しがり、ねだり、叶わないとなるとヒステリックになるけったいな女性。私ならこんな人と一緒にいたら気が変になるか、側にあるもので軽く刺してしまいそうになるでしょうね。 後半に出てくる「あなたにだから言うんだけど」と自分の人生を語る老婦人の話もまたうっとおしく、辛抱強く聞く佐野さんという人の物凄さを思ってみます。
投稿元:
レビューを見る
2010年に亡くなられた佐野洋子さんのエッセイ。
これまでのエッセイと重なる内容もありますが、手術を担当した医師との対談なども載っています。
しかし相変わらず口が悪い(苦笑)
でも佐野洋子さんの本音は読んでいて気持ちがいいんですよね。
よくぞ言ってくれましたって感じ。
死と向き合い、死を見つめ、多くの死を体験してきた佐野さん。
タイトルの「死ぬ気まんまん」は、佐野さんの息子さんが母親を見て思わずつぶやいた言葉なのだそうです。
面白いエッセイでした。
投稿元:
レビューを見る
息子さんが発した「おフクロ、死ぬ気まんまん」という言葉から付けられたとのこと。
壮絶な話ではあるが、辛い闘病記ではなく、迫りつつ「死」に対して、正面から向かい合う姿が力強い
投稿元:
レビューを見る
佐野洋子さんの本だから毒があって面白いであろう事は分かっていたが、病気の父の目につくところに置くのは憚られるタイトルだな。。。と、思っていたが、非常に面白かった。
このタイトルしかありえない!
病気や、死ぬ事に対して、大きく構えていくことができそう。
お医者さんとの対談がためになった。ガン治療についての医学的な話も載っていて、ガンについて知識を深めようと思っている私にとっては有り難い。
佐野さんも前向きであっけらかんとした人というのでなく、この境地に至るまで大変だったのだろうなー。
投稿元:
レビューを見る
息子の画家・広瀬弦が漏らした「おフクロ,なんかこの頃,死ぬ気まんまんなんですよね」から~乳ガンが左大腿骨に転移し医者に余命2年と云わせて,特に死ぬのを怖いとは思わず,人に物をやり,金を使い果たしたが,死にそうな気配がない。「命と金は惜しむな」と云っていた父の言葉が甦る。生後33日の弟が死に,自分が世話をした・その上の弟が高熱を発して死んだ時は悲しくはあった。兄が死んだ時,川向こうの医者を叩き起こして連れてきたのは私で,悲嘆していた母は兄の代わりに私だったら良かったと思ったに違いない。人は家で死ぬべきだと思う。ガンマナイフで硬膜と骨の腫瘍を除去した築地神経科クリニック理事長と対談し,医者の本音を引き出す。神経症で痛くて仕方ない時,紹介された近所の内科を訪ねて志願入院すると,そこはホスピスで毎日のように1階のプレートのない部屋で高価そうなお香が焚かれる。2週間にて家に帰ることにした~「死ぬ気まんまん」2008年~2009年のエッセー。対談「佐野洋子×平井達夫」2008年12月。「知らなかった」1998年。何で,この人の名を知っているのだろう。北京生まれの大陸出身者文学。武蔵美を出て,絵本作家として出発。二度の離婚歴。ベルリンでハチヤシンイチとは知り合いだった。関川夏央が解説しているが,彼に印税は入るのだろうか
投稿元:
レビューを見る
どんなきっかけだったかここ最近急に佐野洋子氏の作品を読むようになった。絵本も含めて。本作品は題名からしてすごい。自分はそんな強気に死を迎えられるだろうか。
投稿元:
レビューを見る
佐野さんの最後の本。
個人的には佐野さんの文章がもっと読みたいので、対談はいらなかったなぁ。
ホスピスでの生活、何回も読み直してしまう。
投稿元:
レビューを見る
死ぬのは怖くないけど痛いのはいや、というのは共感できた。まだまだ実感湧かないけど、身近に自分の死期を感じるようになっても、この人のように、いつ死んでもいい、と思えるんだろうか。。
投稿元:
レビューを見る
一度読みかけて、何だかつらくなってしばらく置いてあった。再び読み出して一気に読了。
医師との対談が圧巻だ。病や死について実に色々考えさせられる。「自分の死」に向き合う時に、その人の「人間そのもの」があらわれてくるというのは、まったくそうだなあと思う。佐野さんのように天晴れな自然体を貫くことは到底無理だが、せめて(内心はともかく)態度だけでもできる限り泰然としていたいものだ。
若い頃は、いや少し前まで、つまらないことでうろたえたり、あれこれ思い悩んだりしない胆力がほしいと思っていた。ええ格好しいなので、人にはストレートにそういう感情を見せたりしないようにしていたが、些細なことで心が大きく揺れ動くのがいやで、何とかコントロールできるようになりたいとずっと思っていた。それは無理なんだな、自分はこういう奴なのでそういうものとしてつき合っていくしかないんだな、と思うようになったのはわりに最近だったりする。すると余計に、肝の据わった人の確かな言葉に惹かれるようになった。佐野洋子さんもその一人。あらためて、合掌。
関川夏央さんによるあとがきがいい。「旅先の人」という言葉がすとんと胸に落ちた。
ホスピスでの日々が綴られたものは、亡くなる前ではなく自律神経失調で苦しんでおられた時のもののようだ。ちょっと混乱するので、一言説明があった方がいいのでは。
投稿元:
レビューを見る
北京生まれの佐野洋子のすごさを関川夏央は「大陸文学者」が自然にまとった「空気」だろうと指摘している。
自分を観察者の目で見て書く。「死ぬ気まんまん」でほとんど悲壮感はない。あっけらかんと全部をさらし、恬然としている。当時の写真が掲載されているが明るく生き生きしている。
没後の発行だが、死の2年前70才頃に書かれた文章だ。すごい人だと改めて思う。
投稿元:
レビューを見る
佐野さんの元気が伝染します
骨に癌が転移して、余命2年と言われ
その気になって、お金を使い、廻りの人間にも言って
準備していたけど、2年たっても大丈夫だった佐野さん
自分の姿も、他人の姿も、冷静に分析する語り口が巧妙
この間、鏡で顔を見て、「あんた、その顔でずっと生きてきたんだね。
健気だったね。偉かったね」と言ってたら涙が出てきた。自分の健気さに。
今のジュリーも好きである。なりふりかまわず食いまくっているように
デブになった。デブになっても平然としているところが、人間が大きい。
そして、死んでも許せない人など誰もいない。
そして世界はだんだん淋しくなる。
エッセイは佐野節でまんまんだ
投稿元:
レビューを見る
再発がわかり、ジャガーを買っちゃう佐野さんはステキ。お医者さんに「乳がんは、そう簡単には逝きません」と言われるところはショックを受けた。そうなのか‥。
ホスピスの話がとてもいい。
投稿元:
レビューを見る
『私がケチが嫌いなのは、ケチは伝染するからである。私はケチではないと思う。たかが金ではないか。ケチと会っていると私の中に深く埋蔵されていたケチが、頭をくねくね回りながらにゅーっと表面に出てくるのである』-『死ぬ気まんまん』
『私が学んだことは、全て貧乏からだった。金持ちは金を自慢するが、貧乏人は貧乏を自慢する。みんな自慢しなければ生きていけないんだな』-『死ぬ気まんまん』
もやもやとした気分をぱあっと晴らしてくれる。佐野洋子の文章を読んでいると、いつのまにか見通しの悪かった光景がすっきりと片付いて、ずいぶん遠くまで真直ぐに道が伸びているのに気付いたような気分になってくる。すばらしい。
そんな佐野洋子の文章の魅力ってなんだろう。追悼文集で谷川俊太郎と息子さんが対談しているのを見る限り、根っからの正直者、というわけでもなさそうだ。きっとエンターテイメントする気持ちが強すぎて、思ったよりもまっすぐに言って見せたりする人だったんだろうと思う。あんなことやこんなことやこれ程あけっぴろげに言ってしまってもよいのかと思うくらい何でも書いてしまっているようでいて、どこかで見栄っ張りの張り過ぎの裏返しみたいなところがあるのは、そこはかとなくは感じられる。本当に厄介な人だったんだろうなあ、と理解できる。
だからといって、文章の魅力が全て佐野洋子自身の魅力に由来するものだと思ってしまうのは、ちょっと単純すぎる。むしろ、ここには、言ってみれば計算高い女の振り撒く、少々変わった愛嬌があるのだと思っていた方がいいのだと思う。こんなことを言うと、きっと軟弱な男は、ははあ、となって騙されるよ、と佐野洋子は内心にやりとしている筈だと思うのだ。
しかしそういう部分があるにせよ、佐野洋子が語る彼女の来し方、人生観、などは、汲々と生きている現代人からすると大いに型破りで、やっぱりそういうところから巧まずして醸し出される匂いのようなものを、佐野洋子はぷんぷんさせているのだろう。危ない男に思わず惹かれてしまう女性のような心持ちに、ついついなっている(だから文章の魅力などと改めて言い募ったりしてみて冷静になろうとしているのだとも言える)。
少し冷静になって考えてみると、恐らく佐野洋子の人生観などと呼びたくなるものの本質は、むしろ死生観なのだと思えてくる。シズコさんで描かれていた壮絶な人生の晩年に心揺さぶられたような感覚を覚えたのも、佐野洋子が死を遠ざけることなしに、死に至るまでの人生を全うすること以外に何の外連味も外聞もないということによるのだ、と今更になって思う。死んで花実が咲くものか。佐野洋子の死とは羊羹の切り口のようなもので、まっすぐに同じ太さで伸びてきた羊羹がある時すぱっとなくなるものという感じであったのか、と思う。その先に羊羹はないし、先延ばしにするために羊羹を敢えて細く伸ばしたりするものでもない、きっとそんなものだったのだろう。
人が生まれる前はどこに居たのかとは滅多に問わないけれど、死後どこに行くのかということには大いに悩む。しかし佐野洋子は、それを羊羹の右端と左端みたいなものだと、簡単にとらまえる。���んなものどこにもありゃしない、と。ああ、きっとそういう死を自分もどこかで迎えたいという気持ちがあるから、佐野洋子の文章に惹かれるのか。
惜しい人をなくしたなどと言うと、きっと大きな声で叱られるに違いない。だからそうは言うまい。あの世とやらは無いのかも知れないけれど、もし意に沿わずそんなところへ行ってしまったのだったとしたら、そこが禁煙でないことを祈るばかりです。
投稿元:
レビューを見る
達観しているというのとは違う。
諦めているのでもない。
受容しているのだろうか……。ともあれ、実に明快に客観的に「死ぬ気まんまん」すぎて驚く。
そして、後半の「知らなかった」で書かれる生のエネルギーがうごい。10年でこんなに変わるのか。
生きているうちから、出版の準備をされていたそうで「お疲れ様でした」といいたくなる一冊。