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五反田に「うどん」という名前の店がある。名前が「うどん」なのに、カレー屋。それもただのカレーではなく、スープカレーがメイン。店主は店では寡黙なのに、Webサイトを見るとご飯とカレーは別々に食べろだとか、取材は石野 眞子以外はお断りだの、何かと注文が多い。本人はいたって真面目なのだが、それだけでおもしろ可笑しく見えるのが、この店の魅力だ。
本書を一読して、まず思い出したのがこの店だった。著者は五反田出身のノンフィクション作家、星野 博美氏。そして、その先祖が、名前はコンニャク屋なのだが職業は漁師という一族なのだ。本書は、そのルーツを辿る珍道中。千葉県御宿の岩和田を舞台とする漁師たちの人間模様が、普通の日常を描いているだけなのに、いちいちツボにはまる。
思い返せば、最近ルーツをテーマにした書籍によくあたる。高橋 秀美・著『ご先祖様はどちら様』もそうだったし、鈴木 遥・著『ミドリさんとカラクリ屋敷』などもその類である。なぜ今ルーツかと言われると、その気持ちはわからないでもない。元禄の大津波も、関東大震災も、世界恐慌も、赤の他人ではなく、自分と血のつながった人々が乗り越えてこそ今があると思えるからだ。
『ご先祖様はどちら様』のルーツ探しがボケ系の面白さならば、本書はツッコミ系の面白さだ。著者によると、元来漁師というのは、ホラ吹きの人種であるそうだ。「板子一枚 下地獄」という緊張感に満ちた職場で働く漁師たちは、陸に戻ればホラを吹きあって、笑いを生み出す。著者の子どもの頃のエピソードも多く登場するのだが、大人になり事情の理解できるようになった今だからこそ、時代を超えてツッコミを入れていく。
本書の購買を最もおススメしたい人は、なにか日常が面白くないと感じられている人達である。前半は、漁師たちの今昔のエピソードが御宿、五反田を舞台に、次々と繰り広げられていく。ところが面白可笑しく描写されている数々の逸話も、エピソードだけ切り取ってみると、どの家でもありそうな話なのである。それを著者特有の視点で切り取ることで、笑いがどんどん広がっていく。要は、毎日の生活が面白いかどうかというのは、周りに面白い対象がいるかどうかではなく、面白い見方をするかどうかという、受け手の問題であるということに気が付かされるのだ。
一方で、ルーツ探しの方はというと、後半、祖父の手紙の中に見つかった思わぬ記述から、大きく展開が変わる。祖父の残した日記の中に、「住民は大体、紀州方面から来たといふ説があります。」という一文が見つかり、著者は和歌山へと赴くことになるのだ。徳川家康の江戸開府のころ、多くの漁業先進地域である関西地区から房総半島へと、鰯を求めて大量に漁民が移動した時期があるといい、著者の先祖も、どうやらその一人のようである。それにしても、日本にもアメリカに先駆けてゴールドラッシュのような開拓精神の時代があったとは驚きだ。
和歌山でのルーツ探しの戦績は、一勝一敗というところだろうか。前半は、著者の妄想や推測も織り交ぜながら次々とピースが小気味よく組み合わさっていく。しかし、後半は何もかもがうまくいかない。勝敗を分けたものは、アーカイヴの差である。和歌山県は、徳川御三家という土地柄か、地域の歴史をとどめておこうという意識が非常に強いという。この恩恵にうまくあずかることができれば、公的なアーカイブと私的なアーカイブをうまく組み合せることで、ドラマチックな出来事を迎えることができるのだ。いずれにしても、最後にはどんでん返しが待っているわけなのだが・・・
余談だが、偶然立ち寄った五反田の本屋で、本書が「おらが町のヒーロー」と言わんばかりにレジ前に大々的に陳列されているのが何とも言えず面白くて、五反田という街そのものに好印象をおぼえた。都内近郊の方は、五反田の本屋で手に取られることをお勧めしたい。
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「腰巻き」に書かれた
ーよその家の ルーツ探しが、どうしてこんなに
面白いのだろう?
ほんとうに そのまんま です
面白い!!
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今年の前半に高橋秀実サンの「ご先祖様はどちら様」を読んでいたので、今年二冊目となる先祖探し物だ。高橋家の場合は先祖と言っても曾祖父以前はいわゆる「神話」の世界に入り、親類一同誰もそれ以前の記憶を持たないのを自然なものとしてあったが、こちらの星野家は偶然にも外房の漁師だった曾祖父の実家近辺の古文書から紀伊出身というところまで遡れるという展開。漁師の家系なのになぜか屋号が「こんにゃく屋」という当たりから引付けられる先祖探しの長い旅だが、古文書の発見という幸運に恵まれることが無くとも、星野家の親類一同の明るくまた濃いキャラクターが家族物語としても読ませる。
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亡くなった祖父の手記や親戚の年寄り達の話などをもとに我が家のルーツをたどる。これが、本当に面白い。生き生きとした漁師、現役の親戚への筆者の愛がしみじみ伝わる。また、遡ること400年前の紀州藩の歴史まで分かって、なるほどと思うところも多々あり。
最後、東北大震災の津波にもふれてあり、あらためて被災者の大変さを思った。
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返還時の香港に密着した骨太なルポルタージュや、ネコと暮らす日常を淡々と描いたエッセイなど、独特な作風が支持されている星野さん。最新作は、「コンニャク屋」と呼ばれる漁師だった自身の一族の歴史がテーマです。祖父が残した手記を手がかりに、五反田から千葉・御宿、そして和歌山へ、ルーツ探しの珍道中が始まります。笑いと涙のなかに、家族や血族の意味を静かに問い直す作品です。
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著者自らのルーツをたどる旅のような一冊である。現在と過去、五反田から岩和田、そして紀州へと――文献や長老の話、祖父の手記などから――時間を、――実際にその場に立って――場所を行き来して、謎解きをするように少しずつ糸を手繰り解き明かしていく作業を、著者と一緒にしているような心地になる。コンニャク屋の人たちが愛おしくなり、いま自分がここに在るということに感謝したくなる一冊である。
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作者の性格がいまひとつ着いていけないところがあって笑、内容はとてもおもしろかったのですが、☆三つとしました。
突然、遠方から「先祖のことを調べています」という人がやってきて、いろいろ話を聞かれたら、やっぱり警戒するのは普通でしょうね・・。
自分のルーツに興味があって、いろいろ調べる。
それはそれでかまわないのだけど、時間が余ってるひと、および、自分の一族に愛着のある人だけの趣味だろうな。
郷土史研究家とでも名乗ると調査もスムーズなのかもしれないね。
外房とか内房とか、東京の細かい地名も、そこに住んでいないひと、住んだことのない人からはわかりにくいものかも。
親戚の話も読んでいて楽しいのだけど、作者のノリについていけず、いまひとつな読後感。
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作者の祖父は千葉県外房の漁師の出であった。
身体のどこかに漁師の血が流れていることを感じながら、一族の歴史を調べていった過程がとても面白く書かれている秀作。
書名のコンニャク屋とは屋号で、親類縁者ご近所の人との付き合いの賑々しさの紹介がまず面白かった。
御宿の風土・歴史を興味深く読み、人々の人情に胸が熱くなる。
以前から星野博美さんは好きな作家だった。
この作品でまた好きになった。
作者が相手の立場に立ってものごとを想像しているところが心に響いてくる。
幼い頃、おじいちゃんの好きな石持の煮付けを否定したことの意味について書いてあるくだりでは涙があふれた。
家族をはじめ、話を聞いた相手の送ってきた人生や生活を思いやっている星野さんがすごくいい。心の優しさが文章から伝わる。
相手を思いやれる懐の深い人だと感じる。
祖先を遡って和歌山にまで調べに行く流れも面白く、すごく良くまとまっていた。訪ねた町の印象やたとえがとてもユニーク。
知らない土地ながら納得させられた。
足かけ3年のルーツ探しは大変根気のいることだっただろう。
この本の完成を喜んでいる人たちが沢山いるだろうなと想像している。
自分の実家も外房であり、風土・方言など他人と思えないところがあった。
いい本だなとうれしく思っている。
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2000円の価値があるかも知れないノンフィクション。博美って名で男とは珍しいと思っていたら女性だった~星野家は祖父の代に外房の御宿・岩和田から東京に出てきて,ネジキリの町工場を起こしたが,ルーツは漁師だ。岩和田の人は,400年前にメキシコの船が座礁したのを昨日の話のように語る。先祖は紀州から移ってきた兄弟で,その頃から屋号コンニャク屋と呼ばれていた。戸越や大崎,御宿,紀州・和歌山に足を伸ばしてルーツを探る。祖父にそっくりの漁師・量冶は船の事故を起こして海から遠ざかり,コンニャク屋本家の92歳のかんちゃんが埼玉の娘の所に移動した~コンニャク屋漂流記と聞くとフィクションしか考えられないよね。ところがどっこいで,バリバリ著者の身内の物語。外房の御宿って事が身近に感じられる。万祝の表紙に漂流記,コンニャク屋? フィクションだと勘違いしたのが最初で,ノンフィクションだと気が付いて,男が書いたものに違いないと考えたのが二番目の勘違い。博美という名が伯父にもいて,珍しいのになぁと女性だとは考えなかった。1966年生まれの女性で大学卒業後,会社員,カメラマン助手を経て,ノンフィクションライターに。大宅壮一の賞まで貰っていたのに知らなかった。ルーツ探しが好きなのは男だろうという思いこみがあるのだろう。いけません。ものかきが生業だから,丹念に調べているが,時に想像力や直感も働かせている。香港や南中国に関する著作が多いのだが,こうした身近なものも良いですよ。最後はどうやって締めるのかと思ったが,御宿からコンニャク屋は消えかかっているということでしたね
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菰野町図書館----県立図書館。
どこに分類?
作者のルーツ本。・・・この方の全著作を読みたくなった。
御宿がルーツ、荒戸・出身の写真家・作家。鹿児島出身の写真家・橋口譲二の弟子。
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著者が祖先、自分のルーツをたどる過程のいわば記録。
タイトルと表紙からのイメージとは、ちょっと違う内容かも。
自分の祖先。
考えたことなかったかも。
でも、興味あるかも。
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◎ダ・ヴィンチ2011年11月号
「今月のプラチナ本」。
2011年12月3日(土)読了。
2011-75。
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先祖は紀州から鰯の漁場を求めて外房に来た。父は東京に出てきて町工場を生業とする・・。そんな娘が自分のルーツを探る。オモシロイ。
外房は縁がないのだけれど、私も町工場の多い地域に育ったし、著者の住まう町には昔、親戚がいたので雰囲気が分かる。
日本の江戸期の庶民の動き方、それが著者の中国・香港体験と重なり、比較史にもなっていく。
コンニャク屋という屋号について親戚縁者に聞き歩く。日常に深くしずんている祖先の軌跡。本当に楽しませてもらった。
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本書を読んで、自分のルーツを本気で探してみたくなった。
著者の星野さんは「町工場の娘」にして「漁師の末裔」。千葉の外房で漁師の六男として生まれた祖父が、東京に出て町工場を始めたからだ。で、星野さんの一族の屋号は「コンニャク屋」。「それにしても、なぜ漁師なのにコンニャク屋で、しかもよりによってコンニャクなのか」。そんな疑問を抱きながら、星野さんは祖父が遺した手記をひもとき、自らのルーツを確かめてゆく。
ルーツ探しには謎解きの面白さがある。本書でも、千葉の御宿にある古い墓石に刻まれた名前の謎を解くために、史料を読み込み、紀州和歌山にまで出かけていくくだりは、探偵小説を読むような高揚感を覚える。
でも、本書の魅力はそれに尽きない。祖父の手記を読み、御宿の親戚に話を聞くなかから、星野さんは、五反田や御宿・岩和田を舞台として生モノの歴史を紡いでいく。一つの土地には、ゆかりある多くの人たちの暮らしが貼りついている。星野さんにとってのルーツ探訪とは、彼らの記憶を現在の風景に塗り重ねていくことでもあったのだろう。
「歴史の終わりとは、家が途絶えることでも墓がなくなることでも、財産がなくなることでもない。忘れること。/思っている限り、人は生き続ける」。
もちろん、記憶にも記録にもあやふやな部分や欠落はある。それを補うのはルーツを探す側の想像力だ。
本書にも、星野さんが想像力を働かせ歴史を再現しているくだりが随所にある。それもまたルーツ探しの楽しみなのだろう。
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星野博美はルポルタージュをものにする人としては自意識が強すぎて時に説教染みた字句を並べてみたりすることがある。そのちょっと尖った感触が気に障る人も居るだろうと思われるけれど、自分は案外気に入っている。星野博美が自意識の強すぎる人であるということは、彼女が多分に頭でっかちに考え過ぎるということに他ならないが、そのことに作家本人も気付いて身体の感覚にも耳を澄ますことを忘れない。そのバランス感覚が面白いし、頭でっかちに考え過ぎる割には行き当たりばったりの行動の人であるところがよいと思うのだ。
この本はそんな星野博美の本の中では少し異色の手触りがする。大きすぎる事実の前では個人の自意識は露ほどの重さもない、そのことがじわじわと作家の内面に浸透してくるのが解る。星野博美の強すぎる自意識は沈黙することが多くなる。何もかも自分で、自分一人でやってきたと思っていたのに、その立っている足元の地面、足の裏のすぐそこまで、誰かの見えざる手によって、均され、整備され、そして支えられていたのでは、という感覚が作家に染み込んでくる。自分の嗜好さえも他人に乗っ取られているような恐れ。そんなものが通底する。しかし星野博美はへこたれない。あくまで行動の人である。あちらへ行きこちらへ飛び調べて調べ抜く。するとモヤモヤとしていたものは徐々に晴れてくる。その過程が痛快だ。
自分も半世紀を生きてきて、当たり前のことではあるけれど人間はいつかは死んでしまうのだ、ということを理屈としてではなく身に染みるように解るようになってきたように思う(まだ完全に理解したという確信には至らないが)。だからといって自分自身の存在を何処かにアンカリングして残しておきたいとも思わないのだけれど、自分の存在が消えてゆく、誰の記憶にもいずれは残らなくなる、ということを何の抵抗もなく受け入れられるかといえば、ことはそう簡単ではない。星野博美が家族のルーツを探れば探るほど、そして様々な事実が浮かび上がれば浮かび上がる程に、何故か頁をめくるのがためらわれるような、しんみりとした気分が大きくなる。それはきっとそういう相反する気持ちがなせる業だろうと思う。しかし星野博美の後を追いかけるように読み進めて行くと、最後には受け入れることができるような気にはなる。歓喜とは程遠いが静かに微笑んでそれを眺め心の中で拍手をしてやることができるようには、なる。
映画「All That Jazz」の中で、 死には五つの過程がある、とコメディアンが精神科医の考えを紹介する下りがある。「怒り、拒否、歩み寄り、絶望、受容」。ああ、その通りかもしれないなあ、と思う。そしてそれは不思議と「死」に関するステップであるばかりではなく「血」に対しても当て嵌まるような気がするのだ。そんなことをこの本は思い起こさせる。
自分の身体の中に流れている自分の知らない誰かの血。でもやっぱりそれも自分の一部である筈なのだ。たとえそれを頭は知ることなく理解もしていないとしても、身体の方はきちんと解っている。それは不思議なことでもなんでもないんだ、ということを教えてくれる本。
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中学生の頃家系図を作る宿題があって、
その時祖父が家系図があるよ、
と見せてもらった時にじいちゃんのじいちゃんの、
と続くあの頃思った気持ちを思い出した。
忘れられない思いを、忘れてはいけない思いを、
抱えながら生きていけたらいいんだろうな。
フィクションかと思ってたら、ノンフィクション系だったので、
好みは別れるだろうなあ。