紙の本
ライムの香り漂うメタ小説
2011/10/10 09:58
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
段ボールの脚とセロファンの肝臓、ティッシュペーパを撚って作られた血管でできた「紙の女」メルセド・デ・ペパル。バチカンが封鎖した人間を作る工場で、折り紙で人工臓器を作ることのできるアントニオの手によって生み出された女。彼女の中に入ろうとする男は舌から血を流さなければならない。雨の中を歩けば新聞の日曜版の腕は印刷がうすれ、足先はふやけてどろどろになってしまう「紙の女」は隠喩である。男の欲望によって作り出された物語としての女。ひととき愛し愛されはするものの、やがては男の体や心に傷を残し、男の住む世界を崩壊させずには置かない魔性の存在。捨てられた男が傷を癒すために頭の中で拵えた架空の女性。ペンを持つ手が、タイプのキイを叩く手が作り上げた嫉妬と哀憐の構築物。
ガルシア=マルケスを貪り読んだ文学青年が失恋の痛手から抜け出すために自分の失われた恋を物語として書くことで紙の中に封じ込めようとして小説を書くことを思いつく。ところが、登場人物たちは自分たちの生活が誰かによって始終監視されていることに気づく。自分たちの運命を握るのが土星であることを突きとめた登場人物たちは、土星との戦いを始める。彼らは機械仕掛けの亀の甲羅を買い集め、その鉛の平板を家の壁や天井に張りめぐらし、土星の視線をさえぎるが、鉛は彼らの身体を侵す。
土星は物語の作者の隠喩である。書かれる側の者が、書いている者を意識し、逆に作者の部屋に侵入したり、見られていることを意識して裸になってみたりする。所謂メタ小説である。普通の小説のレベルにあたる場合は、段組は一段だが、メタレベルに入ると、三段、四段と視点人物の数の分だけ段数が増殖し、果ては、縦書きの中に横書きが入りこんだり、思考が読みとれない部分は真っ黒に墨が塗られたり、文字の印刷が薄れていったりと、ずいぶん手の込んだ表現手段をとる。
白アリもいないのに町が崩壊したり、折り紙で作られた女性にキスをした男たちが舌に切り傷を負ったり、ありそうもないことをまことしやかに語るところは、いかにもガルシア=マルケスの洗礼を受けた作家らしい。ロスアンジェルスのエル・モンテが舞台だが、千の顔を持つ男ミル・マスカラスやタイガー・マスクがサトウ・サトルの名で登場したりすることからも分かるようにメキシコ文化が濃厚なラテン・アメリカ文学の一角を占める作品。ここでは、リタ・ヘイワースはメスティーソ(メキシコ人との混血)であることを隠してハリウッドに身売りした売女扱いである。
デビュー作である本作が評判を呼び、現代を代表する作家の一人に選ばれるという強運の持ち主。運も実力のうちというが、そればかりでもないだろう。読み終わったあとに不思議な余韻の残る一冊である。
紙の本
紙の民とはなんぞや
2019/01/28 17:28
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」と筒井康隆の「虚人たち」の混ぜ合わせたような世界が展開していく。訳者のあとがきによると、作者は「百年の孤独」を3年間にわたって繰り返し読み続けたらしい。支離滅裂に思わせておいて、しっかりと感動させたり、にやりとさせたりするのは、やはり私がこの手の作品が好きだからということにつきる。でも、他人に勧めたりはしない。どういうあらすじなのか説明して、他人におもしろそうだと言ってもらえる、読んでみようかな触手を動かせる自信がない。ある村のリーダーが土星に戦いを挑むんだと説明しても、「そのおやじって、ただの痛い人なんでしょ」としか思われないだろし、紙の民なんて、まるで説明できない。
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娘を連れメキシコからロス郊外の町エルモンテに移住してきたフェデリコ・デラ・フェは、全てを見通し自由に操る「作者=《土星》」の存在に気付くのだが……。
凝りまくりの字組みや装丁に目を取られがちだが、奇想溢れる物語も素晴らしい。折り紙外科医や、彼に創られた”紙の民”の女性、元聖人のルチャドールといった妙なキャラクターたちに混じって、タイガーマスクことサトル・サヤマまでが登場し、物語内に犇めき合う彼らの声に圧倒される。通低音として流れる悲しいラブストーリーも素敵。
個性的な字組みも奇を衒っただけでなく、必然的なものだったんだね。
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段ボールの脚とセロファンの肝臓、ティッシュペーパを撚って作られた血管でできた「紙の女」メルセド・デ・ペパル。バチカンが封鎖した人間を作る工場で、折り紙で人工臓器を作ることのできるアントニオの手によって生み出された女。彼女の中に入ろうとする男は舌から血を流さなければならない。雨の中を歩けば新聞の日曜版の腕は印刷がうすれ、足先はふやけてどろどろになってしまう「紙の女」は隠喩である。男の欲望によって作り出された物語としての女。ひととき愛し愛されはするものの、やがては男の体や心に傷を残し、男の住む世界を崩壊させずには置かない魔性の存在。捨てられた男が傷を癒すために頭の中で拵えた架空の女性。ペンを持つ手が、タイプのキイを叩く手が作り上げた嫉妬と哀憐の構築物。
ガルシア=マルケスを貪り読んだ文学青年が失恋の痛手から抜け出すために自分の失われた恋を物語として書くことで紙の中に封じ込めようとして小説を書くことを思いつく。ところが、登場人物たちは自分たちの生活が誰かによって始終監視されていることに気づく。自分たちの運命を握るのが土星であることを突きとめた登場人物たちは、土星との戦いを始める。彼らは機械仕掛けの亀の甲羅を買い集め、その鉛の平板を家の壁や天井に張りめぐらし、土星の視線をさえぎるが、鉛は彼らの身体を侵す。
土星は物語の作者の隠喩である。書かれる側の者が、書いている者を意識し、逆に作者の部屋に侵入したり、見られていることを意識して裸になってみたりする。所謂メタ小説である。普通の小説のレベルにあたる場合は、段組は一段だが、メタレベルに入ると、三段、四段と視点人物の数の分だけ段数が増殖し、果ては、縦書きの中に横書きが入りこんだり、思考が読みとれない部分は真っ黒に墨が塗られたり、文字の印刷が薄れていったりと、ずいぶん手の込んだ表現手段をとる。
白アリもいないのに町が崩壊したり、折り紙で作られた女性にキスをした男たちが舌に切り傷を負ったり、ありそうもないことをまことしやかに語るところは、いかにもガルシア=マルケスの洗礼を受けた作家らしい。ロスアンジェルスのエル・モンテが舞台だが、千の顔を持つ男ミル・マスカラスやタイガー・マスクがサトウ・サトルの名で登場したりすることからも分かるようにメキシコ文化が濃厚なラテン・アメリカ文学の一角を占める作品。ここでは、リタ・ヘイワースはメスティーソ(メキシコ人との混血)であることを隠してハリウッドに身売りした売女扱いである。
デビュー作である本作が評判を呼び、現代を代表する作家の一人に選ばれるという強運の持ち主。運も実力のうちというが、そればかりでもないだろう。読み終わったあとに不思議な余韻の残る一冊である。
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カーネーション摘みを主な活動内容とするギャング団EMFが、おねしょのせいで妻に捨てられた男を司令官として、行動を監視する全能の存在である土星=作者からの解放を目指して戦争を挑む。
あらすじ書くと一昔前に流行ったポストモダン小説のようだけど、そうでもない 。つまるところはいつまでも失恋の悲しみからから抜け出せないもじもじ君=土星の情けなくも悲しい物語な訳で。好きだなー。この感じパワーズの三人の農夫以来かも。
妻は逃げたけど、今は後悔して謝罪の意を込めて一歩ごとに膝をついて祈りながら家に向かっている途中なんじゃないかと空想した男がせめてこれ以上膝をすりむかないように自宅の周囲に柔らかい芝生を植えるとことか特にいい。
紙の民、というのは紙で臓器を作って治療する天才外科医が、現代医学の登場によって時代遅れの技術になり、最後に作ったすべてが紙でできた女の人。世界中では、もうその子しかいない。
触れたりキスしたりすると、相手が紙で切れてしまうので、血だらけになってしまうんだとか。
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メキシコ人作家と言うこともあって、どこか異国的な移民的な雰囲気が漂う。
あまり期待したほどのメタフィクションには仕上がっていなかったが、描かれる登場人物は紙の中で生き生きと動いている。
ブックデザインのチャレンジは面白い。楽しみながら読める。
次回作に期待。
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『でも、それは紙の上でのことだった。そして、この物語から学んだことがあるとすれば、それは紙には用心せよということだったーー紙の脆い作りと鋭い端に用心すること、ただし、もっぱらその上に書かれていることに気をつけること』-『ラルフ・ランディン&エリサ・ランディン』
紙の上に並べられた文字に、何かがある訳ではない。血が通った人がいる訳でも、風が吹く訳でも、雨が降るわけでもない。けれど、本を読む者は文字を追い掛けながら「その世界」に入ってゆく。そしてあたかもそこで本物の人に出会い、風を身に受け、雨に濡れるような感覚に囚われる。そこで展開する物語を生き生きとしたものとして捉えてしまう。不思議だ。
余りにその世界に接近して臨場感を持って物語を眺めていると、激しく心を揺さぶられ時に涙したりすることもある。しかし読者には一つの安全地帯が与えられてもいる。それは全てを見渡す場所。作者によって築かれた砦と言ってもよい場所で、一般的には堅牢強固であって、如何に物語の登場人物に読者が揺さぶられても、身が切られるようなことはない。それどころかその砦は透明な造りで登場人物の目には触れることもない。開いている頁を閉じれば直ちにその世界からは切り離される。そしてまた誰にも見咎められることの無い場所へこっそりと戻ることも出来る。
ところがこの「紙の民」ではその安全装置の存在が激しく揺さぶられる。何とも居心地の悪い状態を読者に強要する。それどころか一種の罪悪感のようなものさえ湧いてくる。
似たような作りの本はこれまでにも読んだことがある。例えばガルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」、あるいはエンデの「果てしない物語」。また、装丁としての類似ではダニエレブスキーの「紙葉の家」も挙げられるかもしれない。しかし、ここまで作者(=読者)と登場人物の対立が激しく交わされる本は読んだことがない。一人一人の登場人物、作者、作者を取り巻く環境などが入り乱れ、否応なくそこに普段は意識していない軸が存在していることを思い知らされる。引いては本を読むということはどういう行為なのかを、そこに隠された原罪のようなものがあることを、どうしても考えてしまう。
所詮、紙の上に書かれたことを再構築する自分がいて、その再構築により初めて本の世界は具現化する。であればこそ、本を読むことは自分の知らない自分に出会うことに近い行為だと常々思ってはいるのだけれども、ことこの本に関する限り自分に出会う感覚はほとんどない。その紙の上の世界の意味付けは書く側に一方的に委ねられている。かと言って踊らされているという感覚があるわけでもない。文字の配置によって巧みに登場人物が同時並行的に存在していることを意識させ、読む者と読まれる者との戦いを、煽る。不思議な味わいである。いやいや、味わいなどという穏やかな言葉を使うことは許されていないだろう。うっかりしていると、読んでいる内に読む者は読まれる者(=作者)に切りつけられて、深い傷さえ負ってしまいかねない。文字通りの意味でも、比喩としても。
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わたしにはこの本を読みきる力がなかった。面白い本なのだそうだ。残念だ。この本を開くと必ず寝てしまう。ああ、この面白いと評判の本を読みきる力をください。
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ヨメに逃げられた主人公が、残されたムスメとともに移民して悲しみを乗り越えようとする過程で、常に感じる誰かの視線に苛まされつづけ、その視線が「土星」のものであることに気づいたとき、ついに「土星」に対して戦争をおっぱじめるワケですが、そもそも「土星」っていうのはこのハナシの作者で、要は登場人物が「ヒトの生活をのぞき見てんじゃねえよ」って、自由を求めて作者に反旗を翻した。というスットンキョーなハナシです。
この本の表現方法が風変わりで、たとえば1ページの文章が三段組になっていて、3人の登場人物の心理が同時に描かれていたりとか、眠っている赤ん坊の思考は真っ黒に塗りつぶされて表現されているとか、けっこうオモシロく読むことができました。
そんなカンジでワリとめちゃくちゃなのですが、作品ちゅうにたくさん登場する“さえないオトコ”どもの哀愁がしっかり描かれていたり、作品の虚構世界と願望世界と現実世界で絡み合う作者の感情が伝わってきたりして、ストーリーとかがアレでも「表現」で楽しませることができるっていうのは素直にすげえなー。って思いました。
読みおわった直後は「なんじゃこりゃあ!?」ってカンジでしたが、あとからじわじわくる、そんな作品でした。
いまおもえば、なかなかであった。
http://blueskyblog.blog3.fc2.com/blog-entry-1714.html
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「紙の民」読んだ。http://tinyurl.com/85xluyh なんじゃこりゃ笑!!折り紙外科医が創った紙人間、土星/神(運命)/作者と登場人物の闘い、作者の失恋とラブライフ、ベビーノストラダムス、プロレス、リタヘイワース。。メタフィクションというか群像劇というか(つづく
メタを同時進行するための頁レイアウトがおもしろい。見開き3〜5段、縦横、文字のフェイドアウトは、筒井康隆か映画の分割スクリーンみたい。作者に抵抗する登場人物が思考を黒塗りしたり。ベビーノストラダムスは最後まで黒塗りなのね笑。土星の弱体化(笑)につれて頁レイアウトは混迷する(つづく
で、何故にリタヘイワース?何故にタイガーマスク?何故に土星?ライム、蜂、二進法でしゃべるキカイガメとか、小道具も一風変わっている。今の社会かと思うとSFや神話みたいになったり作中作が登場したり。時々すごく可笑しいところもあって物語も強くて楽しいけど、よく判んなかった。。笑(終わり
※
白水社のこのエクスリブリスシリーズは本のデザインがとても美しい。新潮クレストみたいに統一されてはいないけれど、本を手に取ることを楽しめる良い装丁だと思う。
※※
「紙の民」の表紙に何やらあるらしいので、本屋さんで確認してみた(読んだ借本はシーリングされてて判らず) なるほど。。読むだけの電子書籍じゃ味わえない、本を手に取る楽しみも。紙質もいい。この本は書籍として本当に凝った作りになっているんだなあ。
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頭上から何者かが自分たちを観ている。
それは、見守っているのか、監視しているのか、覗き見しているのか。いろんな人物が集い戦い勝敗が決まり、立ち去る。
物語を読むのと同じくらい本を、文章を、読む作業でした。
作業、と感じてしまう部分は読み難く感情移入も難しく、
理解しにくい所もあったけど。
そして最後は愛に溢れ、悲しみに続編は存在しないのでしょう。
表紙がとても美しい!
裏表紙の文章は読めないのが残念。英語かあ。
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小説の登場人物たちが土星(筆者)に対して戦いを挑んでくるというお話。
小説の一部分が隠されてしまっていたり、土星の物語が端においやられていたりと、今までに見たことない形だったのはおもしろかった。
よく小説を書く人とかが、登場人物たちが勝手に動き出すとか言うけど、
やっぱり小説って筆者の思うがままだからなぁと思ってしまい、
土星の手を離れているようで、それでも土星の手の内だと思うとちょっと冷めてしまった。
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失尿症のため妻に去られたフェデルコ・デ・ラ・フェは、自分を高みから覗き込む土星の存在に気がつき、仲間を集め土星に対して戦いを挑む。
土星の名前はサルバドール・プラセンシア。失恋を小説にぶつけていた。彼の小説には紙でできた女、メキシコ人という設定の往年のハリウッド女優リタ・ヘイワース、白痴にして全能の赤ちゃんノストラダムス、実は聖人のプロレスラータイガーマスク、教会の使いとその狭間と生きる製薬師などが交差する。
フェデルコ・デ・ラ・フェたちの攻撃で、土星は失墜し余白に追いやられそうになる。しかし全ての惑星で一番残酷で強大で哀しみに満ちた土星が力を失うことはない。
人間の日常や哀しみを抱えて物語は収束する。
===
作品としては粗い部分も多いのですが、作家として、事実を変えられないなら世界を作ってしまえ!という感じの小説です。
幾多の登場人物の言動と、それを覗き見する土星の姿を表現するために、ページは自由な段組、図形が使われています。
紙でできた女性というのがでてくるのですが、愛し合う男たちは紙で傷をつくり、筆跡を残しても剥がされ、男から男へ渡る女の象徴として面白い描き方だなと思いました。
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結局、筆者のコンプレックスを作品に投影した感じ?
手法はとても面白いが、内容的にはもっと踏み込める感じがした。
散りばめられた個々のエピソードなんかは、百年の孤独をイメージしている感じだろうか。もっと踏み込んだ人物設定にしても面白かったのではなかろうか。
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主人公とか時間軸とか当たり前だと思っている前提を、ちゃぶ台ごと引っくり返すかつてない小説。
登場人物に神話とか何かの寓意があるのかどうかは分からないけど、それぞれの行動に何か意味があるのか考えながら読むとものすごい時間かかる。
だけどもいくら考えたところで、最終的にはぜんぶ『土星』のさじ加減。
表紙と一体化になってる帯の詳細は見ないほうがいい。前知識一切なしで読んだほうが衝撃度はきっと高い。