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ブッダの世界観を感じられる作品。
断食する事、待つ事、考える事、この3つの事しか所有しなかった。という文に現代の社会生活における病理を示唆された感じがしました。
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シッダルタの愛人であり、友であり、師匠であったカマラの言葉は心に響いた。
「愛は買うことも、路で拾うこともできるが、奪うことはできない。」
「人は快楽を与うることなしに、快楽を得ることはできない。」
「愛するもの同士は、相手を征服したばかりでなく、相手から征服されたのでなければならない。」
シッダルタは師を普通の人間の中にみいだし、様々なことを学び、悟っていく。
今度人と接する際、彼のように考えてみよう。
見えるものが違ってくるかもしれない。
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「尊敬する友ロマンロランに捧ぐ」
自分もこんな扉で本を書いてみたいなと思いました。
「ちちははの家」で始まる
訳者あとがきに、作者から貰った原本に「輪廻といい涅槃というも言葉にすぎない、ゴヴィンダよ」の原句の1行が書かれてあるとのこと。
内容はちょっと難しいので解説書を読みながら読んで行こうと思っています。
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すいません、無知なもので、シッダルタというのはゴータマ・シッタルダのことかと思っておりました。
漱石の「三四郎」に「姿三四郎」を期待するようなもんですねww
なんだかよくわからないのだけれど、訳が美しいのか、詩人ヘッセの文章が美しいのかわからないが、とても品格ある美しい日本語になっていた。
こういう漠然とした考え方は、日本人にはしっくりくるような気がする。
禅。
正しいブッダの半生もちょっと知りたい気分。
それと「オーム」という言葉の意味もはじめて知った。
オウム真理教の「オウム」はこの意味だったのか・・・・なんて余計だねww
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古代インド。裕福な家に生まれ学問を究めた主人公シッダルタが、悟りを求めて遍歴する。
途中、遊女や商売・博打に溺れたり、一文無しになったりしつつ、最終的に老人になって彼なりの真理を見つけるまでの話。
シッダルタは、絶望と希望を繰り返して段階的に成長していくのだけど、それぞれの段階の違いがいまいち理解できない...
本の内容を全部理解できたとは言えないので、人生経験を積んでまた10年後くらいに再読したい。とりあえず今の39歳の自分が感じたことは以下の3点。
・勉強や色々な経験をして知識・智慧が豊富だけどずっと悩み続けている人間と、日々の欲望のままに暮らしていて大きな悩みの無い人間(この小説で言うところの「小児人種」)と、どちらが幸せなのだろうか?ということ。たぶん、幸せなのは後者。でも、自分は前者のような人間に憧れる。
・渡し守ヴァスティーヴァのように「傾聴力」、つまり他者の話を「聞く力」がある人が、真に優れた人なんだということ。
・シッダルタが最後にたどりついた思想は、この世の中に存在する全ての「もの」をあるがまま受け入れて愛そう、的なことなのかと思うのだけど、それって結構ありきたりな思想のように感じる。でも、シッダルタのように色々な経験をした上でたどり着いたのと、本や他から教えてもらっただけなののとは違のだろう。
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内容もさることながら、文章のリズムが素晴らしい。
ゴータマが、シッダルタが、ヴァズデーヴァが言っていることは、概念的には、観念的には、よくわかる。
しかし、その言葉は彼らが体得した智慧という大海の浜辺の砂一粒にも満たないだろう。
本を読むことも大切だが、町に出て、色々なことを体験しようと思った。
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単なる仏陀の伝記物かと思って読み始めましたが、あの強烈なヘッセが淡々と歴史物を書くはずもなく、内容は全くオリジナルに、もう一人の「シッダルタ」の生涯が描かれます。
『デミアン』と近い時期に書かれた作品で、本作でもグノーシス的・神秘主義的な世界観が強いです。バラモン教のブラーフマン、アートマンとかも、改めて考えるとグノーシスっぽいですね。もちろん仏教的な要素もあります。
ヘッセの地の文はエモーショナルな感じがしますが、本作ではシッダルタの価値観の揺れと一緒に地の文も揺れるので、感動的なこともあれば、極端な印象を受けることもありました。読んでいて退屈することは無いかと思います。
薄くて展開が速いので、さくさく読めておすすめです。
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およそ百年にもせまる昔に、西欧で書かれた東洋思想の本から、多くの教えを得るということに、小さくない感動を覚える。百年前の作者と今の読者である自分とが交感することは、「時は無い」という本作中の言葉を、また別な意味で体験する思い。良書。
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「たいていの人間は、カマラよ、風に吹かれ、くるくると舞い、さまよいよろめいて地に落ちる木の葉に似ている。しかし少数ながら星に似た人間がいる、彼らは確固たる軌道を進み、いかなる強風も彼らにはとどかない、彼ら自身の中に、自己の法則と自己の軌道をもっているのだ。わたしの知っている多くの学者と沙門の中で、ただ一人だけがそういう意味で完全な人であった。私はけっしてその人を忘れることはできない。それはあのゴータマだ、世尊だ、あの教義の告知者だ。何千という弟子が毎日彼の教えを聴き、毎時間彼の律に従っている。しかし彼らはみな風に吹かれる落葉なのだ、自分自身の中に教えと法をもっていない」
・
「ものを求めるときは」とシッダルタが言った。「かようなことが起こりがちです、求める人の眼が、ただ求めるもののみを見ているために、何ものをも見出すことができず、何ものをも心に受け入れることができないのです。それは畢竟そのひとがただ求めるものばかりを考えているからです、目標があり、その目標に取り憑かれているからです。『求める』とは、何かの目標を持つことです。しかし『見出す』とは、捉われぬこと、懐をひらくこと、目標を持たぬことです。御僧よ、あなたは実際『求める人』のように思われます。なぜならあなたはあなたの目標を追うあまり、しばしばあなたの眼の前にあるものに気づかれぬから」
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美しい日本語訳でとても読みやすいです。
「輪廻といい涅槃というも言葉にすぎない。ゴヴィンダよ」
言葉でただ知るのではなく
人生を経験することの大切さを教えてくれる一冊です
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・文章が非常に美しいと思った(まだ途中)
・読み終わって、最後付近に出てきた『求める』と『見出す』の違いが印象に残った。全体を再度読みたいとおもった。
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西洋人から見た仏教は、こういう感じなのかな?と思った。それは現代日本に生きる自分の感覚と似ていて、共感と、どうしようもない人間臭さへの好感と、とにかく読んで良かった。
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西洋的な観点からみたものだと思う。仏教関係の本と思わず,あくまでヘッセの思想遍歴と思って読むとよい。
デミアンに比べると作品として劣る。
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米国のトレイルランナー、ティモシー・オルソンの愛読書。
ブッダに関心があるのでどんなことが書かれているか興味あったけど、正直あまり後に残らなかった。徐々に欲に溺れ、女性を愛し、落ちるところまで落ちた後そこからどう立ち直っていったかなど書かれていたのは、ブッダも一人に人間ということか。
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革新的な小説である。現代であれば実験的手法と評されることだろう。主人公のシッダルタはブッダではない。そうでありながらも悟る以前のシッダルタを踏襲しているのだ。「ブッダを描く」という構想から更なる構想が生まれたのだろう。すなわち手法としてのメタフィクションを選んだわけではなく、真実を表現するためにメタフィクションとならざるを得なかったのだ。私はそう読んだ。
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