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切り口は面白いと思うが、音楽の話を離れると、ときどき表層的に感じる所がある。第4章のカタカナの話とか。
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よく言う、音楽は国境を越えるというのは、うそだなと。
超えるのは簡単でなく、異文化の音楽を消化するのには、相応の努力、時間が必要なんですね。
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すでにすごく面白い。アフタービート、左足で踏み出す行進曲、ベートーベン現代音楽、Jazz、フリージャズ…色んな知見がとっても面白い。
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ヨーロッパで活動している森本ならではの、クラシック音楽とは何か?、これから進む道は?という素朴ながら重要な疑問・問題に、専門家としての、というより作曲家としての立場から見据えた音楽論の言える内容で、最近の新書が向かっている「啓蒙書から専門的知識も持ち合わせたオタク向け」的な内容といえるだろう。
例えば、モーツァルトが16分音符を4つ書こうとした場合、非常にしばしば8分音符1つと16分音符2つを書き初めに書いた8分音符に装飾音をつけたのはなぜか。日本の管楽器ではタンギングをしない。後者は邦楽との比較という点では面白い内容だが、前者を例にして西欧音楽論を展開する必要があるのかは疑問のあるところ。
しかし、西洋を舞台にしたオペラを東洋人が歌うことへの疑問(同時に逆のケースも)などは、素朴な疑問として面白い論点だとは思う。
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衝撃的な本です。世の中にこういうことを考えている人が
いるとは驚きです。
表拍・裏拍なんて考えたこともありませんでした。
「君が代」を歌いながら行進はできない。 うーーーむ。
唸るばかりです。
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中学でロックンロールに目覚め、高校でクラシックへ。
こうした自分の音楽遍歴の中で漠然と感じていたことは、「どちらも熱くて、かっこいい」ということ。なんだ、どちらも変わらないじゃないか、ということです。
この本は、そういう思いをうまく説明してくれています。”スウィングするビート感”、”狂気に満ちた個性”…これはロックではなく、クラシックに対する形容なのです。
一方で、行き過ぎたクラシックの資本主義性・階級性への警鐘を含んでいます。
チャック・ベリーがRoll Over Beethovenを書いたのは、クラシックの伝統の、こうした部分を嫌ったからだと思います。音楽的には、何も変わらないのです。
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作曲家でもあり指揮者でもある森本恭正「西洋音楽論―クラシックに狂気を聴けー」(光文社新書 2011)は、刺激的な音楽論を展開している。右脳思考と左脳思考のちがいやオーケストラは過去の遺物だなんて話には唸ってしまうし、 西洋音楽はアフタービート、という指摘にも頷ける。「ウィーン通信」という 私的メールが母体となった書物だが、昨今では、ウェブ上に散らばっている思考には目を見張るものが点在している。
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現役の指揮者による西洋音楽論。ただし、技術に関することのみならず、音楽というフィルターを通じて、音楽とは直接関係がなさそうな政治・文化に関する考察に進んでいくところが、非常に興味深い。
一例を挙げると、
(1)西洋音楽は、実は裏拍の方が強い。それは、ロック等のカジュアルミュージックと共通的な特徴である。
(2)西洋音楽は、階級社会と親和的である。それは、和音の進行法やオーケストラの構成に象徴される。それ故、西洋音楽は、資本主義と帝国主義の伝播に少なからず貢献したのではないか。
こんな話が出てくると、クラシックを殆ど聴かないような人も、本書を読みたくなる筈。
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ダイナミックで刺激的な内容にそぐわない普通なタイトルが惜しいよ!「クラシックは撓みのスウィング、アフタービート」「インドの知的層ですらモーツァルトが理解されがたい」「君が代では行進できない」etc、おぼろげに感じていた雰囲気にどんどん根拠が与えられ、全く未知の事実も飛び出してくる。何故日本人にクラシックが馴染まないのか。欧米でも斜陽とされるのは何故か。西洋的調整音楽はポピュラー音楽にも生き続け、それはやがて資本主義とともに世界を侵略する…刺激的な一冊です。図書館で借りたけど手元に置いておきたくなった。
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新書だし、休日にパッと読もうと思って実際にパッと読んでしまったが、もう一度ちゃんと読もうと思える内容。西洋音楽、特にクラシックの呪縛はイイ意味でも悪い意味でも根深いものともともと感じていたが、それを論理的に明かしてくれていると思う。サッカーと政治の本というのも多数出ているけど、この本で語られている音楽と政治の関わりも非常に興味深い。どのような音楽を政治に用いたか(例えばワーグナーとナチス)みたいなことではなく、クラシックという音楽の構造自体が、支配という考えに裏打ちされている音楽だということが分かりやすく語られている(決してそれを批判しているわけではない)。それとともになぜ現代音楽というジャンルが衰退してしまったのかについても。この論が合っているのかそうでないのかはさておき、このような考え方で音楽を眺めてみるのはまた面白いのではないか。
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論旨に賛同はできないんだけど、女性や非ヨーロッパ人やコンピュータがクラシック音楽を演奏することで変容する何か、ってのはあるのかもしれない。VOCALOIDが歌うことで歌謡曲も変容するのだろう。
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これは面白い!個を主張しヒエラルキーなartificialな西洋音楽 vs 竹林に吹く一陣の風的natureな邦楽。最後の君が代分析はオリンピックで君が代を聴くと感動するけどaggressiveな高揚感が無い違和感の原因を大得心。
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シューベルトの楽譜にかかれた装飾音の話と、ベートーベンの第9の解釈がすばらしくおもしろい。現象学でいうところの間主観的拘束性じゃなかろうか。過去のテキストを読み解くことが、実はいかに困難なことかという命題がわかりやすく説得力をもって描かれている。アフタービートやスウィングの話も刺激的。ひどく図式的な右脳・左脳論だけは、どうしても違和感を感じざるを得ないが、それ以外は、なるほど!うわ、そうかも!ひゃあすげえw!と1ページに3回以上感嘆符の連続。音楽好きなら必読かも。
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西洋音楽は基本裏拍、1拍目にアクセント記号があるのは「(例外的に)ここを強拍にしなさい」という意味、という裏拍の話は面白かった。
確かに休符で始まる曲って、多い。そう思って聴くと、ジャズやロックはもちろん、クラシックも基本アフタービートなのがよくわかる。
以前ジャズコンサートに行ったとき、裏拍が取れない人が少なからずいた(ジャズファンなのに???)ことに驚いたし、70代以上で裏拍とれる人は本当に少ないと思う。(日本で)
日本人が西洋音楽を身につける苦労の大本はここにあるのかもしれない。
モーツァルトの装飾音や音の撓みの話も興味深かった。
しかし、右脳左脳の話のところでは、ちょっと納得しかねる部分もあり。
メシアンはただ単にそういう作曲家なだけでは?
私はクラシック音楽を聴いていて鳥の声を感じることがあるけど、日本人だから?(虫がないのは、基本ヨーロッパは寒いところが多く、耳を聾するほど鳴く虫が少ないせいだと思う)
クラシックに関するエッセイとしては読みやすく、まあまあ面白かった。
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「クラシックに狂気を聴け」というタイトルは『狂気の西洋音楽史』を思い起こさせる。またかという気持ちとともに、森本恭正なる作曲家、しらんなあと呟きつつ手に取る。この著者、Yuki Morimotoなる名前でヨーロッパで活躍しているという。それなら、CDを見たことはある。森本氏、日本の音大を出てプロの指揮者となっても、ある「もどかしさ」につきまとわれていた。それは単純化すれば、日本で西洋音楽をやるということの違和感であろう。彼はそのもどかしさに駆られてアメリカに渡り、そしてヨーロッパに移り、以来、ウィーンを活動の場としてしまったのだ。
その森本氏が西洋音楽とは何かと考えてきたことを綴ったのが本書であり、2007年、ポーランドでの作曲コンクールの席上、審査委員の一人であるK氏との対話を狂言回しのようにして議論は進む。このK氏とは、作曲家のジグムント・クラウゼであろうか。もっとも匿名にしているのは、脚色を施しているからだろう。
狂気という言葉は本書においてK氏から発せられているが、ロマン派の音楽に重ねられているのは『狂気の西洋音楽史』とほぼ同じである。ほぼというのは『狂気の西洋音楽史』では「ロマン派」には古典派も含まれているが、本書においてはフランス革命以降、ベートーヴェン以降のことを言っているからである。主音で始まり主音で終わる音楽から、転調を繰り返す音楽へ、凡人の想像を絶する感情、行動、現象を体現する音楽へ。それを狂気と呼んでいるのである。
この部分が本全体の副題にされているのは耳目を引くからにすぎないようだが、「狂気」の使い方はバナールだと思う。所詮「正常」とされているようなことは視点を変えればすべて「狂気」に陥っているのだから。人間的な感情を解放したのが「狂気」なら、規則でがんじがらめにして,個性の発露を最小限に抑えているバロック音楽は別の形の「狂気」だろう。
とはいえ西洋音楽狂気論は本書の指摘のひとつ。最初の指摘は小節の頭を強調しろと教えるが、実はヨーロッパ音楽はアフタービート(アップビート)の音楽だという指摘。ヨーロッパ人は無意識にアフタービートになっているが、そういう文化のない日本人は、オン・ザ・ビートを強調してしまう。
「撓む音楽」の章では、常に音の動きは準備され、投球のときに腕を後ろに撓ませるような準備動作があるということ。東洋の古武術のように、バックスイングなしにいきなり動くということなはい。
「音楽の左右」の章で依拠する、右脳と左脳の分業は今日ではかなり怪しいものといわれている。楽音として音を分節する西洋音楽が、強力な資本主義の社会の中で力を持ち、広がったこと、民族音楽はそういう分節を持たず、自然音に近いノイズとして認識されるという指摘は脳の左右に局在化しないかぎりは首肯されるところがある。そして現代音楽で音楽はまたノイズに戻るのだ。
そしてクラシック音楽はすでに衰退しつつあるものだといい、だから伝統を守るのか伝統を壊すのかという問いが投げかけられる。
「音楽論」として興味深いとともに、実践家の本らしく、本書で挙げられた議論は日本人が西洋音楽をやる上��の示唆に富んでおり、私のような好事家だけではなく、プロの音楽家に読まれるべきものと思う。