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右肩あがりの経済成長が期待しにくい時代における、「小商い」に象徴されるような「小さくとも均衡の取れた生きかた」のすすめ。
戦後の時代背景の振りかえりを含めた提言が面白く、この30年ぐらいがいかに特別な時代であったか、という感じがします。ただ、縮小均衡を前向きに受け入れるのであれば、もう少し将来に向けての話も欲しかったな、というところです。
などを書いてあるわけではないです(そこはタイトルどおりということで良し、と思います)。
今の社会、経済の捉え方や、そこに至る戦後の歴史的背景については、非常におもしろく読みました。
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何度でも読み返したい一冊。
特に、第5章にこの本のエッセンスが凝縮されている。
私も背広とネクタイを着るときには、「中折れ帽子」を春、秋、冬に、そして、「夏は草の帽子(パナマ)」をかぶって大人になろうと思う。
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自分の弱さを隠ぺいするために「富」という武器を使ったら、その人間社会は根本を衰弱させて滅びてしまう、というそれだけの話なのだ。P102
くるなぁ、これ。
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「身の回りの人間的なちいさな問題を自らの責任において引き受けることだけがこの苦境を乗り越える第一歩になる」これは私自身のテーマでもあり共感します。
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いままで当たり前としていた経済拡大による成長から、身の丈にあった「均衡」をめざした経済への転換を提唱している。
はっとさせるようなフレーズは随所にあるものの、昔はよかった的な懐古思想や原発への反対意見など、著者の感情に任せて勢いだけで書いたのかなと思わせる部分も多いのと、論点があちこちに飛ぶことが多く回りくどく感じた。
内容は悪くないけど本の題名とは若干ずれている感覚を受ける。
大いに期待して読んだだけにがっかり度も大きかった。
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タイトルからイメージした内容とは若干違ったが、結果的に“読んでよかったー”という一冊だった。
〈キーワード・メモ〉
・ヒューマンスケール
・立ち止まって考える、立ち止まる勇気、内省
・オリンピック以前/以後(明確な断絶) 人間と自然の関係が180度転換した、経済と精神のポジションが逆転した
・原子力のいちばんの問題は、それがヒューマンスケールからあまりにもかけ離れた問題系であること
・「余暇」の出現 日本人の生活意識が、労働中心から消費中心へ移行していった
・貧乏とは「野生」ということ 野生と富はトレードオフの関係、今日の日本は富を得て、野生を失いつつある
・小商いとは、まさに野生の知恵で時代を生き抜くという生き方のフォルム(形成)、「いま・ここ」にある自分に関して、責任を持つ生き方
・「人間というものは必ず自分の意思とは異なることを実現してしまうものだ」(不合理な生きもの)
・日本人が採用すべき生き方の基本は、縮小しながらバランスする生き方以外にありません。
・精神的なウィン・ウィンの関係
「ALWAYS3丁目の夕日」の映像がイメージされるような、ホッとする読後感。これからの時代、小商いの生き方でいいんだよねと確認したかったことを「それでいいんだよ」とゆっくり背中を押してくれる優しい感じ。
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12/01/26。もう!平川さん!。前書きから飛ばしてるし(あくまでも私自身の思いいれ)。いつも平川さんの書いたものは最初からグッと引き込まれます。
あらためて思うが、良い本は自身の思考を再確認し、新たな言葉で形を与えてくれるものです。こういう読み方はもしかしたら間違っているのかもしれません。自分のパラダイムの変換にはならないのかもしれません。
目から鱗といいますが、それは全く未知のものとの遭遇であるとは限らないのです。言葉という外形を与えられることによる目から鱗というのもありなんだ、と思わせてくれた私にとって大事な一冊になりました。平川さん、ありがとうございました。
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平川さんは内田樹さんつながりで、なんとなく知って、購入。
著者の主張は、ヒューマンスケールの生活、ビジネス、地域社会を大事にしよう、ということにつきる。
まったく、そのとおりだが、だから、一足飛びに経済成長から縮小均衡へというのは、ちょっと論理的に無理がある、というか、そうかもしれないが、経済学者には通じないだろうなと思う。
自分なりに、アタマの整理の仕方を考える。
(1)ミクロの視点としては、個人の生活、格差是正、地域共同体の重視、再建、地域のやる気のある地場企業の創業が大事。
(2)マクロの視点としては、これは異論があるだろうが、人件費がかかる製造業が生存をかけて、海外に展開してくることは止めない、むしろ当然のことと思う、日本の国内でしかやれない部分、創造性を発揮できる部分、知識を発揮できる部分に特化していくことはやむをえない。
(3)国の政策としては、マクロの政策は、産業政策としては口ださない、かえってじゃまになるし、お金の無駄づかい、むしろミクロの国民の安全性、消費者の知識提供に力を入れる、あとは、経済構造として、当面国債が処理できるよう、経常収支の赤字はしょうがないにしても、海外投資を促進して、資本収支の黒字化を維持する。原発は、まず工学的に安全が確保できるかどうかの冷静な分析を専門家にさせる。政策としては、エネルギー安全保障を常に考える。
内田さんや平川さんのグループだけで気持ちよくなっていても、鋭敏というかけんかがつよい経済学者には勝てないので、自分なりに、大きな枠組みを考えてみた。
今年は、復興・都市計画に加えて、日本のミクロ・マクロの国家戦略のアタマの整理に力を入れます。
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リーマンショック、サブプライムローン、デフレ、消費の冷え込み…日本や世界を困らせるものは発端は人為的なもの、それが手に負えなくなった
あるドラマが言っていたが「人が守れる範囲は自分の半径3m程度」
そう、責任の取れる範囲なんて実に狭い!
だから地に足のついた行動を、と考えさせられた。
もちろん、時には後先考えずに突っ走ることで開ける突破口、できる発明もあることも事実。
だが、本書であった印象に残った言葉として
自らの知識がどんなものであったのかを知ることは失敗や挫折の経験を経なければできない
というところにあったように壁に当たって反省し、見直す姿勢が必要
そこを無反省に「まぁいっか、何とかなるよ」で突っ走る人間はgrown up babyであって、いつか自他共に害をもたらす
とも考えた。
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この本は、出た頃にチェックしたものの、そのまま忘却の彼方へ飛んでいた。『脱資本主義宣言』を読んだら、前に読んだ『経済成長という病』をもういちど読んでみたくなったが、『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んでいたら、こっちの『小商いのすすめ』が言及されていて、あーそういえばこの本と思い、図書館で借りてきた。
平川は、『経済成長という病』のあと、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』を書き、そしてこの本を書いたらしい(そして、この本とほぼ同時に『俺に似たひと』が出て、こっちは読んだ) 。
タイトルには「小商いのすすめ」とあるが、実務的、実用的な、こうやったら商いができまっせーといった話が書いてあるわけではない、という意味では、小商いそのものはほとんど論じられていない。
とはいうものの、「しかし、本書はまぎれもなく「小商い」についての考察なのです」(p.1)と、そのココロのようなものが書かれている。
▼「小商い」ですから、売るものは限られていますし、高価なものはありません。ただ、路地裏に迷い込んできたお客さんに対して、棚から自分で仕入れてきた商品を取り出して埃を払い、丁寧に磨いて、お客さんの手に取ってもらい、お客さんが納得するまで商品の説明をして、満足していただけるようなら代金をいただく。そういうつもりで、埃を払いながら、丁寧に磨いた自分の思考を書き綴ったものです。(pp.1-2)
「小商い」は、「ヒューマン・スケールの復興」だと平川は書く。「身の丈」あるいは「身の程」といってもよいが、ともかく人間寸法で、そこには人間の限界や限定があるけれど、「能力を限定された人間」(p.24)という神のつくりたもうた姿には、なにか積極的な意味があるのではないかというのだ。人間はどこまでいっても、自然性という限界を越え出ることはできない存在なのだと。
経済も、技術も、このヒューマン・スケールを超えようとし、それによって進化もしてきたが、もう限界はみえてきている。立ち止まって考えてゆくと、「経済的に成長することは社会の成長と呼べるものなのだろうか」という問いにつきあたる。人間の社会をお金で説明しようとした人もいたが、お金の動きだけで説明できるわけはないと考えた人もいた。
その中で、経済と人間の関係について衝撃的な論文を発表した人と平川が紹介するのが、マーシャル・サーリンズ。あるいは、未開と文明といった「進歩の差異」ではなく、社会の内にある「構造の差異」を発見したレヴィ=ストロース。この人たちは、西欧文明史観やヨーロッパ中心主義を相対化しようとした(その文化の内にいてこれをやるのはものすごく難しいことだ)。
経済が成長してナンボ、というようなところからわが身をひきはがし、平川は自分が生まれ育った東京・大田区のことやかつての「貧しさ」について考えていく。経済成長期といわれる時代を経て、社会がどう変わっていったかをみつめていく。
そのうえで、サブタイトルにも書いてある「均衡」という話が書かれる。
▼…国民経済という視点で見れば、その屋台骨を支���る食料生産物(魚や農産物など)が、賃金の安い場所で生産、加工され地球を迂回して日本市場に流れ込んできている現状は、見過ごすわけにはいきません。グローバルな効率性だけを追ったこの流れは、国民経済という視点から見れば、バランスを欠いたコスト競争のチキンレースに振り回されているというべきでしょう。国民経済にとって重要なことは、経済を拡大するか、縮小するかということではなく、均衡するということだからです。もし、経済が均衡的に拡大する条件を失っているならば、縮小して均衡させる方策を考えなくてはなりません。そのためには、為替リスクや政治的なリスクをヘッジ(回避)しておく必要があります。安ければ世界のどこからでも輸入すればいいというビジネスロジックは、このリスクを無視しているわけです。食料を輸入に頼りきることが、バランスを欠くというのは、そういう意味です。(pp.139-140)
現在の日本は、バランスを欠いている、拡大均衡する条件がないと平川は考えるが、高度成長期に日本の国民経済は、バランスを保ったままで拡大していった、そのことが大変重要だと平川は指摘する。
▼…日本の高度経済成長期において、大変重要なことがあります。現在高度経済成長している、中国や、インドやロシア、ブラジルといった国とは異質な、日本ならではの特徴があらわれました。
それは、拡大均衡のなかで、貧富の格差や農村と都市の格差が縮まっていったということです。(p.163、下線は本文では傍点)
1959年当時(岸信介内閣)の大蔵官僚であった下村治たちが中心になって作り上げたのが「所得倍増計画」だった。60年安保で岸内閣が倒れ、池田勇人が総理大臣になったとき、この下村計画が全面に出てくる。
1960(昭和35)年12月27日に閣議決定された「国民所得倍増計画について」を平川は引いて、意外な感をもった、と書く。「計画について」は国会図書館のサイトでも閲覧できる。
「国民所得倍増計画について」
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01354.php
私も読んで、意外な感じがした。「所得倍増計画」というと、いけいけどんどんの高度成長のキモみたいなものだと思っていたから、なおさらに。私は"いけいけどんどん"のイメージばかり持っていたのだなあと、はっとする。
計画の目的として、「国民の生活水準を大巾に引き上げること…(略)…とくに農業と非農業間、大企業と中小企業間、地域相互間ならびに所得階層間に存在する生活上および所得上の格差の是正につとめ、もつて国民経済と国民生活の均衡ある発展を期さなければならない」と掲げられている。「格差の是正と均衡ある発展」という思想ないし哲学が、この計画全体を覆っている、計画をたてた下村にとって経済成長はこの目的を達成するためのものだった、と平川は指摘する。
この「国民経済」という視点が、現代日本の経済成長論には欠けているのだ。下村は、のちに1980年代のレーガノミクスを激しく批判したという。とにかく市場の自由な競争に任せればいいというグローバリズムの先駆ともいえる経済政策だったレーガノミクスは、下村の目にどう映ったか。
平川はこう推測する。
▼…下村の目には、アメリカにはす���に拡大均衡の条件が失われていると映ったということもあったでしょうが、それ以上に、国民経済という視点がこのイデオロギーには欠如していると感じていたからではないでしょうか。わたしは、この下村の直感はまさに正鵠を射るものだったと思っています。(pp.166-167)
グローバリズムという考え方は全盛をきわめている。それは毎日、新聞を読んだり、ラジオを聞いていても感じる。平川は、生きている人間はどこまでいってもローカルな存在で、誰もが偶然に「いま・ここ」に生まれ育ってきた、その偶然を必然に変えるものは、と考える。
「いま・ここ」で生きることに誇りをもつことができるか、「いま・ここ」に対して愛情をもつことができるかと自分に問いかけたとき、それにイエスと言える条件がひとつだけあると。
▼わたしたちは、本来自分に責任がないことに対して、責任を持つというかたちでしか遅れて生まれてきたこと、そして「いま・ここ」にあることを自らの必然に変えることはできない。
そう、わたしは思っています。(p.193)
「いま・ここ」に責任を持つ生き方、それが小商いなのだという。人間が集団で生きていくために必要な"雪かき仕事"、合理主義的には損な役回りをする人があって、はじめて地域という「場」に血が通い、共同体が息を吹き返す。「とにかく、誰かが最初に贈与的な行為をすることでしか共同体は起動していかない」(p.196)のだと。
平川が、自分の生まれ育った昭和30年代を懐かしむような口吻であることに、私はちょっと身構える。ローカルな共同体のうちの人間関係のきつさ、息苦しさもあるだろうと思う。そんなことを考えてしまう私に、経済の本来の立ち位置はここにあったはずという指摘は印象に残る。
▼ローカルな世界では、人間と人間の関係、人間と土地の関係が優先され、貨幣はそれらを取り持つ限定的な機能でしかありません。
ローカルな土地の基盤を整備したり、困窮して行き場のなくなったひとびとに路銀を与えたりするときは、因習や関係性とは無縁の貨幣が重要な役割を果たすことができる。
経済というものの本来の立ち位置はここにあったはずです。
経済とは、お金儲けのことではないし、ましてや自分の欲望を満たすためのツールでもありません。
経世済民。
それが意味するものとは、「いま・ここ」に生きるひとびとが、生きていくことができるための術であるということです。(pp.213-214)
『俺に似たひと』にまつわる、「経験の意味」にふれたこんなところも。
▼もし経験が深い意味を持つとすれば、それによって何かを知りうるということにあるのではなく、何を知らなかったかということを知ることであると思います。知識を拡大し、積み上げていくのは自然過程であり、量の問題にすぎませんが、自らの知識がどんなものであったのかを知ることは失敗や挫折の経験を経なければできないことだからです。(pp.29-30)
なにか、「高度経済成長」を振り返るのにいい本はないかな~。
(3/22了)
*マーシャル・サーリンズ
『石器時代の経済学』叢書・ウニベルシタス
『歴史の島々』叢書・ウニベルシ��ス
*一橋大学 経済研究所附属社会科学統計情報研究センター
所蔵コレクション 下村治著作関連資料
http://rcisss.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/guide/collections_shimomura.html
小展示「孤高のエコノミスト 下村治」
http://rcisss.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/guide/pdf/tenzi_shimomura.pdf
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2012.2.13 購入した本
ヒューマンスケール、身の丈にあったことをってずっと思ってはいました。今本当に転換の時期に来てますね。生きることの価値観を完全に変える必要がありますね。給料は上がらない、企業は売上が落ちる、でも食って行ける。そんでもって少しは楽しいみたいな。
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ヒューマンスケール、自分の問題として引き受けること、共同体、「雪かき仕事」の大切さを説く本。
昭和30年代への郷愁が筆者のベースになっており、その時代を知らない世代にはそこがあまりに感傷的にすぎるように映ると思う。しかし、グローバリゼーションの殺伐さに疲れた20ー30代で、その思想の暖かみに共感する人はきっと多いだろうな。
自分の問題として、直接自分に責任のないことを引き受ける。そういうことって本当に大事。そういう働き方をしている人は常に憧れだった。自分もそんなおとなでありたいです。
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経済学者の下村治氏やエマニュエルトッドなどを引用しながら、成長拡大以外の選択肢を探る物語と感じた。それは、現実にあるうるし様々な形で少しずつ実現している場合もあるが、本書のように理念を掘り下げているものは少ない。そのまま医療に置き換える事はできないが、「小商い」というのは必要とされる時代になっているだと感じる。井深大氏のソニー設立趣意書が引用されていて「経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する。」とある。ソニーが衰退した原因はこの部分を忘れてしまったからではないかな、ストリンガーさん。
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経済成長とはこの先もずっと続けるような目標じゃない。まだ貧しくて国全体が豊かさを目指した時、その限定的な時期だけに有効だった目標だ。
不当なる儲け主義を廃し、いたずらに規模の大を追わず、むしろ小なるを望み…という井深大の言葉。共に働く人たちの技術の追求と社会的使命のためにつくった会社は、もう当初の志を忘れたように違う方向へ。
ぼくらはかつてのように小商いを志向して、縮小均衡なんてできるだろうか。
成長してしまった日本の社会は、嘘と虚飾と企みに満ちている。そこに染まった自分は、豊かさを捨てて野生を取り戻すようには生きられない。
でもせめて、意味のあることを少しでも多くしたい。
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「……本書の中で繰り返し述べているヒューマン・スケールとは、まさに人間がどこまでいっても自然性という限界を超え出ることはできない存在であり、その限界には意味があるのだということから導き出した言葉です。
小商いという言葉は、そのヒューマン・スケールという言葉の日本語訳なのです」(227)