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苦しみばかりのこの世に生きて、これがまた輪廻転生で来世に生まれ変わるなんて考えると、気が重いよなぁ。これを断ち切って解脱。浄土へ昇ることを説いた。しかも、そうなることをひたすら信じて念仏すること。人間の小賢しい知恵などではなく、弥陀の慈悲、他力にすがること。それが他力本願なのだなぁ。悪人正機も親鸞の生きたあの時代を思えば理解できる気がする。もっもあの時代にそれを言えた親鸞の偉大さは言うまでもないが。
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経文の冒頭に置かれる「如是我聞」とは、「私は釈尊の言葉をこのように聞いた」という意味の語句であるが、この中に収められているのは、吉本隆明が「私は親鸞の言葉をこのように聞いた」という声であり言葉である。
朝日新聞で高橋源一郎がこの本(講演CDを含む)を紹介していて、早速ネットで購入した。東京糸井重里事務所の発行。5回の講演をもとに加筆修正された文章に加え、音声データがDVDーROMに収められている。
吉本隆明には『最後の親鸞』、『親鸞復興』、『未来の親鸞』など多数の著書があるが、発行者の糸井は今回の企画の意図を、昨年が親鸞の750回忌ということもありこれを機に親鸞の思想についての吉本の考察を再考して欲しかったと、冒頭の吉本との対談で明かしている。
親鸞は自己を厳しく究極まで問い詰めた思想家である。永遠の課題を見据えた思索の射程は現在にまで延びている。「弥陀の誓願はこの親鸞ひとりのためのものである」「念仏を信じるも信じないも、皆さん計らい次第」「地獄に行くか極楽に行くか私は知らない」「私は親の孝養のために念仏など称えたことはない」等々、『歎異抄』には逆説に満ちた親鸞の言葉が残されている。逆説的な言い回しでしか語ることができないこととは何か。 親鸞の声をどう聞くかが聞き手には試されることになる。数え切れないほどの歎異抄に関する書物が出回っているが、吉本の親鸞の思想を掘り下げて行く姿勢は、やはり他の追随を許さない。あまりにも有名な一節「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の声を、吉本は「善いことをしたら、もう浄土へは行けない」「善いことをしている時は、悪いことをしていると思ったほうがいい」と聞く。これらの講演はいずれも今から20年以上前のものばかりであるが、今なお聞く者をして根元的な問いへと誘ってくれる。
親鸞の言葉も、それを聞く吉本の言葉も、掘れば掘るほど滾々とわき出る井戸のように深い処から発せられている。
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あー面白かった。念仏を唱えればよいというのはちょっと聞くとなんだか免罪符並にまずい思想のように思えるのだけれど、そこから吉本隆明はどんどんと掘り進めていく。タバコが健康に悪いって言うのに吸うのは馬鹿だとかいうのは馬鹿じゃねえのみたいな(こんな書き方はしてませんが)話とか、死ぬのはいつも他人、とか非常に洒落た小テーマが各所に散りばめられながら、悪人正機とかに迫ってく。しかも講演書き起こしなので簡単に読めておすすめ。DVDはまだ見てないけど。そして、洒落ているんだろうけど僕はこの装丁は嫌いかも。
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その名の通り吉本隆明が語ってくれてるのでとてもわかりやすい。「善い事をしてると感じてる時は、むしろちょっと悪い事してると思った方が良い」とか納得。
意識してる時点で自己欺瞞につながるし、そもそも人間が考える善悪は小さい事。善行もしたいと思ったらすればいい。しないといけないみたいなのは、つまらん。親鸞がむしろするな!とはっきり言う。
昔から大きな事件をみるたびに、これはひょっとしたら自分がやっているかもしれない感覚みたいなのがあるのだけれど、それは親鸞が説明してくれていた。人は殺そうと思っても人を殺せるものではないが、きっかけさえあれば1000人でも殺してしまうものだと。そういう危うさがあるのがそもそも人間だから、むしろ悪人を救えない仏なんていない。
法然も親鸞も当時にしてみたら(今だってそうだけど)ぶっ飛んでる。
久々に思想でしびれた。
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上越市にとてもゆかりがありながらこれまで名前くらいしか知らなかった親鸞。
最近吉本隆明さんが亡くなられたり、子供と一緒に親鸞ゆかりの地をいくつか散歩していた矢先、池袋の本屋で見かけて手にした本。
親鸞が日本最大の仏教宗派である浄土真宗の創始者だということすら知らなかったし、浄土真宗を含む大乗仏教なんていい加減なもんじゃないかと、世界史で触れたくらいで考えていたことが、少なくとも親鸞に関しては間違っていたことが分かったりした。
武士が殺し合い疫病や飢饉が起こる世の中で、修行をして仏になることで民衆を救おうとしたほかの坊さんと違い、民衆と一緒に人間と向き合った親鸞。
人間なんてそんなに立派なものじゃない。人間なんて契機次第で誰しも人殺しをするものだ。でもそれをよしとして受け止め、そんな人間がどうしたら救われるかを考えた。
所詮人間が考える善悪など小さなもので、善かれと思うことが本当に善いこととは限らない。逆を言えば悪人だって所詮ちっぽけなものであり、むしろ計って善いことをしようとする方が、自己矛盾を抱えることになって問題だと考えた。
たとえば、アフリカで困っている子供たちがいると聞いて、何もしないで過ごすことは悪か。親鸞はそうではないと考えた。
とにかく善いことをしないと救われない。とか、前世で悪事をはたらいた報いで現世で悪事をはたらくことになってしまった悪人をも救うのが仏教だ。といった教えは胡散臭いと考え、矛盾なく仏教を組み立てようとした。
そこで、善いことをしようと計らず、念仏を心から唱えることだけすればよいと説いたのである。
信仰のない私には浄土という概念や念仏の意義はまだ理解不足であるが、親鸞の人間の捉え方、善悪の捉え方、民衆とともに考えた生き方は、現代の自分が直面する課題に通じるところがあり、とても感銘を受けた。