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もはや伝説の人となった大棋士、藤沢秀行。彼を土台から支え、秀行の戦友であり、妻であった藤沢モト。
その壮絶な人生は筆舌に尽くしがたい。
酒 → ただの大酒飲みではない。アル中を超越している。
女 → ただの不倫ではない。外に子供を何人もつくっている。
ギャンブル → 並みのギャンブルではない。自宅を取られるほど競輪・競馬にのめりこんだ。
病気 → 三度のガンや度重なる骨折。
そして57才にして棋聖6連覇の大偉業。
モトの強靭な精神力に驚きと感動を持って読了した。
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藤沢秀行の碁で一番印象に残っているのは第二期棋聖戦の第5局、殺し屋加藤のとても取れそうにない石をとりきった碁で、ちょうどこの頃からやっとタイトル戦の碁を並べると言うことをしだしたころだった。とは言えほとんど中身はわかっちゃいないのだが・・・
つい最近の好きな棋士のアンケートで秀行先生は2位だった様だが個人的には応援する棋士と言うのとも違い、また少しでもまねをしようと言う相手でもなく、ちょっと別格と言う感じがある。解説でここはこう行くに決まってると言うのをわからないにせよ少しでも感じたい、そういう感じだった。
秀行先生(と呼ぶのがやはり一番しっくり来る、弟子じゃないけど)の武勇伝は確かサンスポに連載が載ってて奥さんには頭が上がらないと言う話は何となく知っていたのだが最初に書いた棋聖戦の頃には既にほぼアル中で自宅は借金のかたに明け渡し、数年家に帰ってこない頃だとは知らなんだ。ただ当時はまだそういうことが許されると言うか今ほど大騒ぎにならない時代だったと思う。
それにしてもこの奥さん、藤沢モトさんは凄過ぎる。秀行先生が数億の借金を作ろうが、外に子供を何人も作ろうがそれを受け入れて子供を育て、家系を支え、池坊総華督にまでなっている。花を生けるときには花を見て行きたいほうに伸ばすらしいが、それこそ一番大きく伸ばした花が秀行先生だったんじゃないか。「うちの母ちゃんは猛獣使いだ。エサがうまいし、寝床があったかいから、つい帰っちゃうんだよ」と言ってたそうだ。そもそも秀行先生が見初めて結婚を申し込んだのもこいつに任せれば大丈夫と勝負師の勘で選んだ様なのだし、モトさんの方もどうもほっとけないと受け入れたんだからどっちも流石だ。
ある時秀行先生が珍しく真珠のネックレスを持って帰ってきて「こんないいものもらった。母ちゃんにやるよ」それから1週間もせずに新宿のバーの女性が訪ねてきて、どうやらその頃つきあってた相手らしいのだが「そうだそうだ、この間、いいのをもらったよな。あれ持ってこい。」人との約束は守ってもモトさんのことはいつも後回し。酔っぱらって帰っては暴れ、家のものを壊し、ものを投げる。まあとんでもない人なのだがそれでもモトさんの話に悲壮感がない。言いたいことは有るんだろうし、晩年も自分も病気なのに看病を続けている。秀行先生は紫綬褒章や勲三等旭日中綬章などを受けているがその功績の多くはモトさんが秀行先生と言う花を枯らさないように生けたからだと思える。
秀行先生の絶筆の書は「強烈な努力」うまい字ではないが力強い。そしてある意味この本のハイライトだと思えるのが誤嚥のために食事を止められていた秀行先生が三ヶ月ぶりに退院し、モトさんも好きに食べさせようとした10日間の食事メニュー。食べ納めになるかもとモトさんがメモしたものだ。結局この後入院し4日後に少し良くなって帰って食べたすき焼きが最後の食事となった。最後の二ヶ月は病院暮らしだったが来客も多くにぎやかな日々だった様だ。
2009年5月9日永眠。秀行先生の願いで骨は瀬戸内海に散骨された。波に乗って中国に渡るのを夢見たらしいが瀬戸内海では海流次第ではたどり着けない。ポカの秀行らしい旅立ちです。来世もさんざん回り道しながら歩むことになるのでしょうと結んでいる。
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藤沢モト著「大丈夫、死ぬまで生きる」(碁打ち 藤沢秀行 無頼の最期)、2012.2.10発行。藤沢秀行、大正14年(1925年)6月19日~平成21年(2009年)5月8日、享年83)。藤沢モト、昭和4年(1929年)6月18日、新潟県生まれ、20歳で藤沢秀行と結婚、59年間、天才棋士(博打、借金、出奔、女性問題、アルコール依存症、3度にわたるガン闘病)を支える。二人の愛がぎっしり詰まった327ページです!