投稿元:
レビューを見る
正法眼蔵(しょうほうげんぞう)。全部読む時間はないが、前文(現成公案)ぐらいは理解できるだろうか?日本人なら禅の一端は理解したいところ。
投稿元:
レビューを見る
絶望しているわけではありませんが(絶望しそうになるといつもはニーチェに走ります)、読んでみました。かなり難解です。難解です。特に第1章から2章、理解できません。
投稿元:
レビューを見る
夜道を歩いて空を見上げると、月がみるみるうちに雲に隠れてしまった。人が生きるって、こういうことかもしれない。
自己とは別のところに超越的な自己がいて、それが自己を客観的に眺めている。なんてことはない。
投稿元:
レビューを見る
道元を初めて読んだのは、多分二十歳前後。岩波の日本思想大系だったと記憶する。
何の前知識も無しにいきなり正法眼蔵を読み始め、ほとんどわけが分からなかったが、力任せにとにかく読み進め、結局途中で挫折した。あの頃の体力が懐かしい。
投稿元:
レビューを見る
『正法眼蔵』の「現成公案」の巻について、著者自身の解釈が展開されている本です。
移りゆく「諸法」に対する不生不滅の「仏法」を、著者は「絶対の無」として理解します。そのうえで、「絶対の無」は、「ある」ものが「ある」というしかたで現成している「場所」に、つねに自覚されているといい、その働きを「見るものなくして見る」ということばで説明しています。このほかにも、「前後ありといへども、前後際断せり」という道元の時間論を「永遠の今」ということばで読み解いており、哲学者の西田幾多郎の思想が著者の議論の背景にうかがえます。その一方で、著者は「頓悟禅」ではなく「漸悟禅」の立場に立つことを標榜しており、この点では西田や鈴木大拙らの禅理解から距離を置いているようです。
全体を通じて興味深く読みましたが、「絶対の無」や「永遠の今」といった哲学的な概念がやや無造作に用いられており、その理解に戸惑うこともすくなくありませんでした。ただ、西田を中心とする京都学派以降、積極的に道元を哲学的に解釈する試みはあまりなされておらず、道元にかんする本といえば、仏教学者による文献学的な議論か、さもなくば禅僧による「日々の心構え」的な講話ばかりが目につくなかで、本書のような試みがもっと積極的におこなわれてもよいのではないかという気がします。
投稿元:
レビューを見る
この本は、中野孝次さんの『道元断章』を読み終え、その続きでもっと道元を知りたくて読んだ本です。
そして、『正法眼蔵』のエッセンスである「現成公案」だけでも理解できたらと、山田さんのこの新書に出会ったのです。
序章 なぜ道元の「現成公案」を読むのか
に始まり、
第1章「われ」は生滅している
第2章「われ」は根拠づけられている
第3章「われ」を肯定して生きる
第4章「われ」を世界におしつけない
第5章 身心を「脱落」させる
第6章 世界自体が「われ」である。
第7章 世界は「いま・ここ」の自己限定である
第8章「悟り」とはなにか
第9章「いま・ここ」から創造する
第10章 世界は「一」である
第11章 世界は「われ」の働きをふくむ
終章 道元は現実をどう描いたのか
後始末 現に生きているということ
という内容ですが、山田史生さんなりの解釈ですが、道元が言わんとしたことをうまく表現できていて、私なりに「現成公案」が理解できました。
毎朝、般若心経を書いていますが、「無」とか「空」という概念を自分なりに感じていて、日々無心で書き続ける「修行」こそが、われ、いま・ここ、身心脱落、主客未分などなど、ふわっとですが、感じ取れることができました。